牛若奥州下りの事
さても常盤をば、清盛最愛して、近所に取居ゑて通はれけるとぞ聞えし。されば其のはらの男子三人、流罪をも遁れて、兄今若は醍醐にのぼり、出家して禅師公全済とぞ申しける。希代の荒者にて、悪禅師といひけり。中乙若は、八條の宮に候ひて、卿公円済と名乗りて、坊官法師にてぞおはしける。弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子になりて、遮那王とぞ申しける。十一の歳とかや、母の申す事を思ひ出して諸家の系図を見けるに、実にも清和天皇より十代の御苗裔、六孫王より八代、多田満仲が末葉、伊予入道頼義が子、八幡太郎義家が孫、六條判官為義が嫡男、前左馬頭義朝が末子にて候なり。如何にもして平家を滅ぼし、父の本望を達せんと思はれけるこそ懼ろしけれ、昼は終日学文を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて、天狗と夜な夜な兵法を習ふと云々。されば早足、飛越、人間の業とは覚えず。
母の常盤は清盛に思はれて、姫君一人儲けたりしが、すさめられて後は、一條大蔵卿長成の北の方になりて、子共数多出来たり。此の遮那王をば、蓮忍も覚日も、「出家し給へ。」といへば、「兄二人が法師になりたるだに無念なるに、左右なくは成らじ。兵衛佐に申合はせて。」など申されけり。強ひていへば、突き殺さん刺し違へんなど内々も言はれければ、師匠も常盤も、継父の大蔵卿も力及ばず、唯平家の聞きをのみぞ歎かれける。
或る時奥州の金商人吉次といふ者、京上りの次には、必ず鞍馬へ参りけるに逢ひたまひて、「此の童を陸奥へ具して下れ。由々しき人を知りたれば、其の悦びには金を乞ひて得させんずる。」と宣へば、「御供仕らんことは易き事にて候へども、大衆の御咎めや候はんずらん。」と申せば、「此の童失せたりとも、誰かたづね候べき。土用の死人を、盗人の取りたるにこそ候はんずれ。」と宣へば、「其の上は仔細候はじ。」と約束しけるが、「但し定日に同道の人の計らひにて候べし。」と申す処に、その人また参詣せり。遮那王語らひ寄りて、「御辺は何処の国の何氏にてましますぞ。」と、細々と問ひたまへば、「下総国の者にて候。深栖三郎光重が子陵助頼重と申して、源氏にて候。」と答へければ、「さては左右なき人ござんなれ。誰をか結び給ふ。」「源三位頼政とこそ結び候へ。」と申せば、「今は何をか隠し進らせ候べき。前左馬頭義朝の末子にて候。母も師匠も法師になれと申され候へども、存ずる旨侍りて、今まで罷り過ぎ候へども、終始都の住居難儀に覚え候。御辺具して、先づ下総まで下り給へ。それより吉次を具して、奥へ通り侍らん。」と委細に語り給へば、「仔細なし。」と約諾して、生年十六と申す、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遥かに思ひ立つ、心の程こそ悲しけれ。
其の夜鏡の宿に著き、夜更けて後、手づから髪取上げて、懐より烏帽子取出し、ひたと著けて打出でたまへば、陵助、「はや御元服候ひけるや。御名はいかに。」と問ひ奉れば、「烏帽子親もなければ、手づから源九郎義経とこそ名乗り侍れ。」と答へて、打連れ給ひて黄瀬河に著きて、「北條へ寄らん。」と宣ひしを、「父にて候深栖は、見参に入りて候へども、頼重はいまだ御目に懸り候はず、後日に御文にてや仰せ候はん。」と申せば、直に通り給ひけり。
爰に一年許り忍びておはしけるが、武勇人に勝れて、山立強盗を縛め給ふ事、凡夫の業とも見えざりしかば、「錐嚢を脱すといへば、始終は平家にや聞えなん。」と申せば、「さらば奥へ通らん。」とて、先づ伊豆に越えて、兵衛佐殿に対面し、此の由を申して、「若し平家聞きなば、御為然るべからず。されば奥へ下り侍らん。」と宣ふに、佐殿、「上野国大窪太郎が女十三の年、熊野まゐりの次に、故殿の見参に入り下りしが、父に後れて後、人の妻とならば、平家の者には契らじ、同じくは秀衡が妻とならんとて、女、夜逃げにして奥へ下る程に、秀衡が郎等信夫小大夫といふ者、道にて横取りして、二人の子を儲けたり。今も後家分を得て、乏しからであなるぞ。それを尋ねて行き給へ。」とて、文を書きて進らせらる。
即ち奥へ通り給ひて、御文を附け給へば、夜に入りて対面申し、「尼は、佐藤三郎継信、佐藤四郎忠信とて、二人の子を持ちて侍る。継信は御用には立ち進らすべき者なれども、酒に酔ひぬれば、少し口あらなる者なり。忠信は天性極心の者なり。」とて奉りけり。多賀郷に越えて、吉次に尋ね逢ひ、「秀衡が許へ具してゆけ。」と宣へば、平泉に越えて、女房に附きて申したりしかば、即ち入れ奉りてもてなし、「かしづき奉らば、平家に聞えて責あるべし。出し奉らば、弓矢の長き瑕なるべし。惜しみ進らせば、天下の乱なるべし。両国の間には国司、目代の外、皆秀衡が進退なり。暫く忍びておはしませ。眉目能き冠者殿なれば、姫持ちたらん者は、婿にも取り奉り、子なからん人は、子にもし進らすべし。」と申せば、「義経もかくこそ存じ候へ。但し金商人をすかして、召し具して下り侍り。何にても賜はりたく候。」と宣ひければ、金子三十両取出して、商人にこそ取らせけれ。
其の時、上野国松井田いふ所に一宿せられけるに、家主の男を見給ふに、大剛の者と覚えければ、後平家を攻めに上られける時、語らひ具し給へり。伊勢国の目代に連れて、上野に下りけるが、女に附きて留まれる者なれば、伊勢三郎と召され、「我が烏帽子子の初めなれば、義の字を盛りにせん。」とて、義盛とつけ給へり。堀弥太郎と申すは、金商人とぞ聞えける。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
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