頼朝義兵を挙げらるる事 並 平家退治の事

 さる程に兵衛佐殿は、配所にて二十一年の春秋を送られけるが、文覚上人の勧めに依つて、後白河法皇の院宣を賜はり、治承四年八月十七日、和泉判官兼隆を夜討にしてよりのち、石橋山、小坪、絹笠、所々の合戦に身を全うして、安房上総の勢を以て下総国を打靡け、武蔵国へ出給ひぬれば、八箇国に靡かぬ草木もなかりけり。
 醍醐の悪禅師全済、八條卿公円済も、此の由聞きて、関固めぬ前にと、急ぎ馳せ下られければ、平家軈て、「土佐へ流しし希義討て。」と、当国の住人、蓮池次郎、権守家光に仰せつけられしかば、家光参りて、「兵衛佐殿、坂東にて謀叛起させ給ふとて、君を討ち進らせよと、飛脚下著候。」と申せば、「いしう告げたり。我毎日父のために、法華経を読誦す、今日未だ読み終らず、暫く相待て。」とて持仏堂に入り、御経二巻読み終りて、腹掻切つて失せ給ふ。
 九郎御曹司は、秀衡が許におはしけるが、佐殿既に義兵を挙げ給ふと聞えしかば、打立ち給ふに、秀衡、紺地の錦の直垂に紅下濃の鎧、金作の太刀を添へて奉る。「馬は御用に従つて、召さるべし。」とぞ申しける。軈て信夫に越え給へば、佐藤三郎は、「公私取認めて参らん。」とて留まり、弟の四郎は即ち御供す。早白河の関固めてければ、那須の湯詣での料とて通り給ふ。兵衛佐殿は大庭野に十万余騎にて、陣取りておはしける所へ、屈竟の兵百騎許りにて参りたまふ。佐殿、「何者ぞ。」と問ひ給へば、「源九郎義経。」と名乗りましませば、「昔八幡殿後三年の合戦の時、弟義光刑部丞にておはしけるが、弦袋を陣の座に留めて、金沢の城へ馳せ下り給ひけるをこそ、故入道殿の二度活き給ひたる様に覚ゆるとて、鎧の裾をぬらされけるとこそ承れ。」と頻りに悦び給ひけり。
 甲斐源氏、武田、小笠原、逸見、板垣、賀々美次郎、秋山、浅利、井沢等、駿河の目代広政を討つてければ、平家の大将小松権亮少将維盛、其の勢五万余騎にて、富士河の端に陣をとる、頼朝は足柄箱根を打越えて、黄瀬河に著き給ふ。その勢二十万騎なり。平家の兵の中に、斎藤別当実盛、「源氏夜討にやし候はんずらん。」と申しける夜、富士河の沼に下り居ける水鳥共、軍勢に恐れて飛立ちける羽音に驚きて、矢の一つも射ずして、都へ逃げて上りけり。養和元年三月に、平家又墨俣にて支へたり。卿公円済、義円と改名したりけるが、深入りして討たれてけり。醍醐の悪禅師は後に有職に任じて、駿河阿闍梨といひけるが、僧綱に転じて、阿野法橋とぞ呼ばれける。寿永二年七月二十五日、北陸道を攻め上りける木曽義仲、先づ都へ入ると聞えしかば、平家は西海に赴き給ふ。されども池殿の君達は皆都に留まりたまふ。その故は兵衛佐鎌倉より、「故尼御前を見奉ると存じ候べし。」と、度々申されければ、落ち留まり給ひけり。本領少しも相違なく、安堵せられければ、昔の芳志を報じ給ふとぞ覚えし。
 さる程に長田四郎忠致は、平家の侍共にも憎まれしかば、西国へも参らず。斯くては軈て国人共に討たれんとや思ひけん、父子十騎ばかり、羽を垂れて鎌倉殿へぞ参りける。「いしう参りたり。」とて、土肥次郎に預けられけるが、範頼義経の二人の舎弟を差上せられける時、長田父子をも相添へ給ふとて、「身を全くして合戦の忠節を致せ。毒薬変じて甘露となるといふ事あれば、勲功あらば大きなる恩賞を行ふべし。」とぞ約束し給ひける。然れば木曽を退治し、平家の城摂州一の谷を攻め落す注進の度毎に、「忠致景致は軍するか。」と問ひ給ふに、「叉なき剛の者にて候。向ふ敵を討ち、当る所を破らずといふ事なし。」と申せば、八島の城落ちたりと聞えしとき、「今はしやつ親子に軍なさせそ。討ぜんとて。」と宣ひけるが、軍果てて土肥に具して帰り参りければ、「今度の挙動神妙なりと聞く。約束の勧賞取らするぞ。相構へて頭殿の御孝養能く能く申せ。成綱に仰せ含めたるぞ。」とありしかば、喜んで罷り出でたるを、弥三小次郎押寄せて、長田父子を搦め捕り、磔にこそせられけれ。磔にも直にはあらず、頭殿の御墓の前に、左右の手足を以て、竿を尋がせ、土に板を敷きて、土磔といふものにして、嬲り殺しにぞせられける。「平家の方へも落ち行かず、さらば城にも引きこもり、矢の一つをも射ずして、身命を捨てて軍して、ほしからぬ恩賞かな。是も唯不義の致す所、業報の果す故なり。」とぞ、人々申しける。又何者がしたりけん、
  嫌へども命のほどはいきの守みのをはりをば今ぞ賜はる
  刈りとりし鎌田が首のむくいにや斯かるうき目を今は見るらむ
と詠みて、作者に鎌田政家と書きたる高札をこそ立てたりけれ。之を見る者ごとに、哀れとはいはで、唇を返して悪まぬ者ぞなかりける。されば武道に、血気の勇者、仁義の勇者といふ事あり、如何にも仁義の勇者を本とす。忠致景致も随分血気の勇者にて、抜群の者なりしかども、仁義なきが故に、譜代の主君討ち奉りて、終に我が身を滅ぼしけり。
 爰に池殿の侍丹波藤三国弘と名のりて、鎌倉へ参りたりしかば、「我も尋ねたく思ひつれども、公私の怱劇に思ひ忘れ、今に無沙汰なり。」とて、即ち対面し、「只今納殿にあらんもの、皆取出せよ。」と下知し給ひければ、金銀絹布色々の物共を、山の如く積み上げたり。「これは先づ時に取りての引出物ぞ。訴訟はなきか。」と問ひ給へば、丹波国細野と申す所は、相伝の私領にて侍る由申せば、軈て御下文賜はりてけり。「財宝を宿次に送れ。」とて、都までぞ持ち送りける。其の時、斯かる運を開くべき人とは思はざりしかども、余に痛はしくて、情ありて奉公しける故なり。兵衛佐宣ひけるは、「首は故池殿に継がれ奉る其の芳志には、大納言殿を世にあらせ申し侍り。髪は纐纈源五に継がれたり。但し盛安は双六の上手にて、院中の御双六に常に召され、院も御覧ぜらるなれば、君の召使はせ給はんものをば、争でか呼び下すべきと思ひて、斟酌するなり。」と語り給へば、此の由源五に告げたりしかども、天性双六に嗜きたる上、院中へ参り入るを思出とや存じけん、終に下らざりけり。
 九郎判官は、梶原平三が讒言に依つて、都の住居難儀なりしかば、又奥州に下り、秀衡を憑みて過されけるが、秀衡が一期の後、鎌倉殿より泰衡をすかして判官を討たせ、後に泰衡をも滅ぼされけるこそ懼ろしけれ。かくて日本国残る所なく打従へ給ひて、建久元年十一月七日、始めて京上りせられけるに、近江国千の松原といふ所に著かせ給ひ、浅井北郡の老翁を尋ねらるるに、二人の老者をゐて参る。土瓶一つを持参せり。「あれは如何に。」と問ひ給へば、「君の昔きこしめされし濁酒なり。」と申せば、「誠にさる事あり」とて、三たび傾けて、「汝、子は無きか。」と仰せければ、「さふらふ。」とて奉る。即ち召し具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清恒とて、近習の者にて有りけるなり。さて、「此の老翁に引出物せよ。」と仰せありしかば、白鞍置いたる馬二匹、色々の重宝入れたる長持二合ぞ賜はりける。又、昔の鵜飼を召し出して、小平を軈て賜はりけり。
 入洛ありしかば、即ち院参し給ひたるに、法皇も往事思召し出でて、殊に哀れげにこそ見えさせおはしけれ。鬚切といふ太刀、清盛が許にありしを、御守りの為とて、院に召し置かれたりしを、今度頼朝に賜ひけり。青地の錦の袋に入れたり。三度拝して賜はりけるとなん。
 此の太刀に附きて数多の説あり。頼朝卿関が原にて囚はれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手に渡りて、院へまゐりけりと云々。又或説には、今のは真の髭切にはあらず、誠の太刀は、以前より青墓の大炊が許より進らせけるなり。其の故は、兵衛佐、大炊に預けられけるを、頼朝囚人となり給ひし時、此の太刀を尋ねられけるに、今は隠しても何かせんとや思はれけん、有りのままに申されけり。即ち、大炊が許に尋ねられけるに、源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそ斬られ候とも、義朝の君達多ければ、よも跡は絶え給はじ。先づ隠して見んと思ひければ、泉水とて、同じ程なる太刀ありけるを、抜き替へて進らする。鬚切は柄鞘円作なり。定めて佐殿に見せ進らせらるべし。佐殿わらはと一つ心になりて、「仔細なし。」と宣はば、本よりのことなり。若し、「是にはあらず。」と申されば、「女の事にて候へば、取違へ候ひけり。」と申さんに、苦しからじと思案して、泉水を上せけるなり。難波六郎経家、請取りて上りけるを、軈て頼朝に見せ奉りて、「是か。」と問はれけるに、あらぬ太刀とはおもはれけれども、長者が心を推量して、それなる由をぞ申されける。清盛大いに悦びて秘蔵せられけるを、院へ召されけるなり。真の髭切は、先年大炊が方より進らせけると云々。
 其の京上りの度、盛安を召して、様々の重宝を賜はり、「如何に今まで下らざりけるぞ。大荘をも賜はりたけれども、折節闕所なし。然るべき処あらば賜ふべき。」とぞ宣ひける。「誠に今まで参らざる條、私ならぬとは申しながら不義の至り、併しながら微運の至極なり。」とぞ、盛安も申しける。建久三年三月十三日、後白河院崩御なりしかば、軈て盛安鎌倉へぞ参りける。頼朝対面し給ひて、「最前も下向したりせば、然るべき所をも賜はんずるに、今迄遅参こそ力なき次第なれ。小所なれども先づ馬飼へ。」とて、多記荘半分をぞ賜はりける。由緒の由申しけるにや、美濃国上中村といふ所をも、同じく賜はりてけり。建久九年十二月に貢馬の次に、「明年正月十五日過ぎば急ぎ下るべし。多記荘をば一円に賜ふべし。」と仰せ遣はされけるに、明くる正治元年正月十三日、鎌倉殿御年五十三にて失せ給ひけり。源五之をも知らず、十六日に京を立ちて馳せ下る程に、三河国にて此の事を聞きしかども、わざとも下るべき身なれば、鎌倉に下著して、その不運なる由語りける程に、昔の夢想の不思議など申しければ、斎院次官親能、「その鮑の尾を即ち食ふとだに見たらば、猶めでたからまし。賜はりて懐中せし許りなればにや、残る所あるぞ。」と申されける。
 さても清盛公、兵衛佐を助けおかれし時、よも只今当家を覆さん人とは思ひ給はじ。同じく九郎判官二歳にて、母の懐に抱かれけるを、我が子孫を滅ぼすべき仇と思ひなば、争でか宥め給ふべき。これ併しながら、八幡大菩薩、伊勢大神宮の御計らひとぞ覚ゆる。趙の孤児は袴の中に隠れて泣かず、秦の遣孫は壺の中に養はれて人と成ると申せば、人の子孫の絶ゆまじきには、斯かる不思議もありけるなり。義朝は、鳥羽院の御宇、保安四年癸卯の年生れ、三十四歳にして、保元元年に忠節を致し、勲功を蒙り、朝恩に浴しける。今度の謀叛に与して身を滅ぼしき。然れ共頼朝義経二人の子ありて、兵衛佐三十四、判官二十二歳にして義兵を挙げ、会稽の恥を雪ぎ、二度家を栄やかし給へり。頼朝は近衛院久安三年丁卯の年誕生す。義経は二條院、平治元年己卯の年生れたれば、三人ともに単閼の年の人なり。中にも頼朝、平家を滅ぼし天下を治めて、文治の初め、諸国に守護を居ゑ、あらゆる所の荘園郷保に地頭を補して、武士の輩を勇め、廃れたる家をおこし、絶えたる跡を継ぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣を蒙れり。卯は是れ東方三支の中の正方として、仲春をつかさどる。柳は卯の木なり。春の陽気を得て、天道恵みの眉をひらき、営み繁くさかゆれば、柳営の職には、卯の年の人は、実に便りありけるものかな。

平治物語終

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:注:原文中に記号の誤植があり(…「土佐へ流しし希義討て」。と、…)、訂正しました(…「土佐へ流しし希義討て。」と、…)。