実朝、殺害せらる
同七年正月二十六日、「大饗を行はるべし。」とて、尊者の為に、坊門大納言忠信卿、正月二十四日、鎌倉へ下著。是は室家の兄なり。同二十七日、「鎌倉の八幡宮にて拝賀あるべし。」とて、公卿五人、坊門大納言忠信・左衛門督実氏・宰相中将国通・池二位光盛・刑部卿宗長。殿上人十人、皇后宮権大夫頼氏・花山院少将義氏・一條少将義次・左兵衛佐頼経・伯耆前司師範・伊予少将実政・因幡少将隆経・文章博士仲章・右馬権頭頼持・権亮少将信能。随人八人、上臈には、番長敦秀・府生兼峰、下臈六人、秦公氏・同兼村・幡摩貞文・大中臣近任・毛野敦光・同敦氏等なり。前駆二十人、平勾当時盛相模太郎・藤勾当頼高遠江太郎・美作蔵人大夫朝親・駿河守秀時・信濃蔵人大夫行国・但馬蔵人大夫忠国・藤右馬助行光・相模守経定・伯耆前司親時・長井左衛門大夫親広・相模守時房・足利武蔵前司義氏・駿河右馬助敦俊・甲斐右馬助宗泰・多田蔵人大夫重綱・藤蔵人大夫有俊・武蔵前司時弘・筑後前司頼時・右京権大夫義時・修理権大夫惟義。随兵十人、武田五郎信光・小笠原次郎長清・式部大夫泰時・河越次郎重時・秋田城介景盛・伊達次郎左衛門頼定・三浦太郎兵衛尉朝村・長江八郎師景・三浦平九郎左衛門尉胤義・波多野中務次郎信清。調度懸には、加藤大夫判官光定・隠岐二郎左衛門尉元之等なり。
大膳大夫広元、「かやうの時は、御装束の下に召されたらんに、苦しくも候ふまじ。」とて、唐綾威の御著背一領参らせたりけるを、文章博士、「何條さる事あるべき。」とて留め奉る。広元しきりに、「昼にてあらばや。」と申しけるを、仲章、「必ず秉燭にてつかまつる事なり。」とて、戌亥時とぞ定められける。若宮へ参著、車より下りさせ給ひけるが、細太刀の柄の車の手形に入たりけるを知らせ給はで、打ちをらせ給ひぬ。人、「浅まし」と見奉る程に、仲章、「苦しく候はじ。」とて、木を結ひ添へてぞ参らせける。劉皇王と言ひし人、遠く道を行けるに、車の轅折りたりけるを覚らずして、再び帰る事を得ず。「先車の覆ヘすは、必ず後車の戒むる所なり」と知りながら、諫め申さざりける文章博士、「一業所感の衆生なればや」と哀れなり。是のみならず、黒き犬、車の前を横様に走り通る事ありけり。是も「さあるべし」とも覚へぬ不思儀なり。
さる程に、若宮の石橋の辺に近付かせ給ふ時、美僧三人、いづくより来るともなく、御後に立ち添ひ参らせけるが、左右なく御頚を打ちをとし参らす。一の太刀は、笏にて合はせ給ひぬ。次の太刀に切り伏せられ給ふ。又、次の刀に文章博士仲章、切られにけり。次の刀に伯耆前司師範、疵を蒙りて、翌日に失せぬ。前後に候ひける随兵・供奉の輩には、「如何なる事ぞや。」と、あはて騒ぐ。敵は誰とも知らず。暗さは暗し、上を下にぞ返しける。ののしる声、「おびただし。」ともおろかなり。
若宮別当公暁
「是は、若宮の別当・公暁の仕業なり。」と言ひ出だされて、三浦平六左衛門尉、承りて、かの坊中を捜しけれども、逐電して見へ給はず。立て合ふ者、少々討たれぬ。疵を蒙る者もあり。召し捕らるる者も多し。この別当と申すは、故左衛門督頼家の御子、四歳にて父にをくれ給ひて、賎しき身なし子にておはしまししを、祖母の二位殿、哀れみ給ふて養ひ立て、若宮の別当になし、今年十九年にぞ成り給ふ。
この両、三年、御所中に化物ありけり。女の姿にて常に人に行きあふ。「如何にもして、入る所を見よ。」とて見せけれども、「足早く、身軽くして幻の如く、行衛を見たる者なし。」と聞こえしが、今こそ、「この人にてありけり。」と知られける。
その後、若宮別当とて、所々にて多く打たれ、搦め捕られけれども、まことは少なし。一説には、三浦平六左衛門尉子息、若宮の児に成りし間、それを頼みて、若宮の後ろを山越えに西の御門へ越されけるが、正月二十七日の夜、きはめて暗さは暗し、大雪さへ降りたりければ、山の上より転び落ちて、西の御門なる小屋の上へ落ち懸りたりけるを、家主さはぎ、「盗人。」と号して打ち殺しけるを、その夜、犬共集りて、終夜引き散らす。明くる朝見けれども、その身体慥かならず、唯、「この人やらん。」とて止めけり。
さても都より下り給ひし公卿・殿上人、計らずに眼前の無常に、目を驚かし、空しく帰り上り給ふ。駿河国浮島原を通り給ふに、霞める空、長閑なりけるに、姿も見へぬ鳫の音づれ過ぎしを、左衛門督実氏卿、かく思ひつづけ給ひける。
春の雁の人に別れぬならひだに帰る空には啼きてこそゆけ
聴く人、袖をぞ絞りける。各々、都を出でし時は、「伝へ聞きし富士の高峰の烟よりして、珍しき名所共を見ん事よ」と思ひ続けて下られしに、思はざる無常に興を失ひ、なげきの色を含みて上られけるこそ哀れなる。
(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))
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