河野次郎冠者、自害す

 その頃、駿河国に河野次郎冠者といふ人ありけり。故右大将の舎弟、阿野の禅師の次男なり。手次ぎよき源氏なれば、「是こそ鎌倉殿にも成り給はんずらめ。」とののしりあヘり。権大夫、この事伝へ聞きて、「何條さる事のあるべき。」とて討手を遣はし、伊豆・駿河の勢を以て攻められけり。身に誤る事なけれども、陳ずるに及ばねば、散々に戦ひて、自害して失せぬ。
 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候ひけるを、是も「多田満仲が末なれば」とて、一院より西面の輩を差し遣し、攻められしかば、是も「遁れ難し」とて、腹掻き切りてぞ失せにける。「院の、『関東を亡ぼさん』と思し召しける事は、眼前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに、望みも過ぎて成られけり。是は、官打ちにせん為。」とぞ。三條白川の端に、関東調伏の堂を建て、「最勝四天王院」と名づけらる。されば、大臣殿、程無く打たれ給ひしかば、「白川の水の恐れもあり。」とて、急ぎ壊されにけり。
 「さても、鎌倉殿に誰をか成し奉るべき。」と言ふに、「都には、冷泉宮・六條宮、この間にておはしますべし。」といへば、「京・田舎に、御兄弟の御門にて双び給はん事、如何があるべからん。」とて留められぬ。

   関東の将軍、定まる

 その頃、一條二位入道と申すは、故右大将頼朝の妹婿、世の覚え・時のきら、肩を双ぶる人もなし。その御むすめ、巴の大将の御台所。その御娘、九條禅定殿の北政所にておはします。その御腹の三男の若君、二歳にならせ給ふ。「是ぞ、母方の源氏なれば。」とて、ゆかりの草のなつかしさにや、関東の将軍に備はり給ふ。則ち、鎌倉殿とぞ申しける。
 さる程に、関東より御迎へに参る輩、三浦太郎兵衛尉・同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐原次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介、以上、十二人ぞ参りける。先陣・三浦太郎兵衛尉友村、後陣・千葉介胤綱とぞ聞こえし。たちまちに一の人の家を出でて、武士の大将となり給ふぞ珍しき。
 かくて、承久元年六月二十六日、都を立たせ給ひて下向あり。路次の間、旅宿の有様珍しく、「我、劣らじ」とぞ色めきける。相模国田村に五日御逗留、七月十九日、鎌倉へ下著ある。又、近く御迎へに参る輩、嶋津左衛門尉・伊東左衛門尉・小笠原六郎、是等を始めとして、十人の随兵なり。時の花、いづれの世に劣るべしとも見へ給はず。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

前へ   目次   次へ