後鳥羽院、近国の兵を召す
秀康、賀陽院殿の御所へ参りて、「胤義、かくこそ申し候ひつれ。」と申しければ、一院、ゑつぼに入らせ給ひて、胤義を召して、御尋ねあり。秀康が申しつるに、少しも違はず、同じ言葉に申しければ、「今はかく」と思し召されて、「鳥羽の城南寺の流鏑馬汰へ」と披露して、近国の兵共を召されけり。大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬、十四箇国、是等の兵、参りけり。内蔵権頭清範、承りて、著到を付け、「宗徒の兵、一千七百人。」とぞ註したる。
一院、いよいよ心猛く成らせ給ひて、「先づ、巴の大将を打たばや。」と仰せられければ、公卿・殿上人、閉口して物も申されず。徳大寺の大臣、申されけるは、「大将、うたれて候はば、思し召し立たせ給ふ御大事軽く、もし打たれ候はずは、御大事の重く成らせ給ふべきにて候。させる弓矢取る者にても候はず。『子細候はば、閑かに御計らひ候へかし』と覚え候ふ。おほかた、今度の御謀叛、公継に於いて『然るべし』とも覚え候はず。その故は、故法皇の御時、木曽義仲、勅命を背きて振舞ひけるを、頼朝に仰せ付けられば亡ぼさるべきを、壱岐判官知康と申す臆智なしが勤めに付かせ給ひて、院中に兵を召され、合戦候ひしかば、浅ましき事共、出で来たりき。おほかた、日本国を『芦原の国』と申すは、葦の葉に似たる故にて候。その袋は東国に相当たり、武士、もとより多くして、随へさせ給はん事、不定の次第に候。御方の兵、十が一にも及び難く候。よくよく御思惟あるべく候はん。」と申されければ、一院、以ての外の御気色なりけれども、「後に、定めて思し召し合はれけん」とぞ覚えし。
巴の大将を打たんとし給ふ
巴の大将、たちまちに失はるべかりしを、徳大寺の申され候ふによりて、思し召し宥められて、「さらば、召し籠めよ。」とて召されける。大将、賀陽院殿へ参られけるが、主税頭長衡を使にて、伊賀判官の許へ仰せられけるは、「賀陽院殿へ召さるる程に、参り候。『城南寺の流鏑馬汰へ』と聞こへしが、その儀無くて、『寺の大衆、静めらるべし』とも聞こゆ。如何様にも『世の中、穏やかなるべし』とも覚へず候。御辺、召さるとも、左右無く参り給ふべからず。子細を重ねて仰せられ候はんずらん。」とて、賀陽院殿へ参られたれば、小舅の二位法印尊長、大将の直衣の袖を引きて、馬場殿に押し籠め奉り、子息の新中納言、同じく召し籠められぬ。
平九郎判官胤義を召されて、「親広法師・伊賀判官、是等をば如何がすべき。」と仰せられければ、胤義、申しけるは、「親広は、召されば、参り候はんず。光季は、権大夫に縁者にて候へば、召さるとも参り候はじ。如何様にも、先づ両人を召され候ひて、参り候はずば、その時こそ差し遣はされ候へ。」と計らひ申せば、「尤も然るべし。」とて、少輔入道の許へ御使を遣はさる。即ち、五十騎ばかりの勢を相具して参りけるが、伊賀判官の許へ使を遣はす。「賀陽院殿へ召され候ふ間、参り候。それへは御使は候はぬか。」と言ひければ、「是へは未だ御使も見え候はず。たとひ御使候ふとも、承る旨候ふ程に、左右なく参り候ふまじ。」と答へけり。少輔入道、是を覚へず、賀陽院殿へ参りたれば、則ち、殿上口へ召されて、院、直に仰せ下されけるは、「義時、すでに朝敵と成りたり。汝は、義時が方にあらんずるか。又、御方に候ふべきか。只今申し切れ。」とぞ仰せける。直の勅定にてはあり、兎角申すべしとも覚へず、「御方にこそ候はんずれ。」と申しければ、「さあらば、只今起請を書きて参らせよ。」と仰せらる。遁れ難かりければ、居ながら起請を書きて参らせられけり。さてこそ御所中には候ひけれ。
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