関東、勢揃へ
一陣は、相模守時房、二陣・武蔵守泰時、三陣・足利武蔵前司義氏、四陣・三浦駿河守義村、五陣・千葉常陸介胤綱とぞ聞こへし。この人々に相具せらるる兵には、城入道・毛利蔵人入道・少輔判官代・駿河次郎・佐原次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・同又太郎・天野左衛門尉・狩野介入道・後藤左衛門尉・小山新左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎・宇都宮四郎・筑後太郎左衛門尉・葛西五郎兵衛尉・角田太郎・同弥平次・相馬三郎父子三人・国分二郎・大須賀兵衛尉・佐野小二郎入道・同七郎太郎・同八郎・伊佐大進太郎・江戸八郎・足立三郎・佐々目太郎・階見太郎・早川平次郎、さては、奥の岳の嶋橘左衛門尉・丹・児玉より以下諸候。相模国には、本間・渋谷・波多野・松田・河村・飯田・成田・土肥。伊豆国には、伊藤左衛門尉・宇佐美五郎兵衛・同与一。駿河国には、奥津左衛門尉・蒲原五郎・屋気九郎・宿屋次郎。是等を始めとして、十万余騎にて上りけり。
東山道の大将軍には、武田五郎父子八人、小笠原次郎父子七人、遠山左衛門尉・諏訪小太郎。伊具右馬允入道、軍の検見に差し添へられたり。その勢、五万余騎。式部丞朝時、四万余騎相具して、北陸道へぞ向かひける。東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、共に三つの道より、十九万余騎ぞ上せられける。
鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等なり。親上れば、子は留まり、子上れば、親留まる。父子・兄弟、引き分かれ、上せ留めらるる謀こそ怖しけれ。討手の輩、五月二十二日に方々へ向かふ。
同二十七日、院宣御使、推松を辛ふ戒められて、人に預けられしを、権大夫の前に召し出だして、「汝、帰参して、申さんずる様は、『義時、昔より君の御為に、忠義ありて不義無し。然るを、讒奏する者候ひて、勅勘の身と罷り成り候ふ上は、兎角申すに及ばず。軍御好みなれば、舎弟時房、子にて候ふ泰時・朝時、是等を始めて、東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、十九万余騎を参らせ候。是等に軍よくさせて、御見物あるべく候。猶、飽き足らず思し召し候はば、三郎重時・四郎政村、是等を先として、二十万騎を相具して、義時も、急ぎ上洛つかまつらんとするにて候ふ。』と申せ。」とて、参り出だされぬ。
推松、「院宣の御使とて関東へ下りなば、『大名共に賞翫せられて、馬鞍引かれ、徳付きて上らん』とこそ思ひしに、徳までは無く、かかる辛き目に逢ひつる事の悲しさよ。されども、命の生きたるぞ不思議なる」と思ひて、泣く泣く上りけるが、「そもそも、我が首は本の如く付きたるやらん。げに、我は元の身にて行くやらん。現とも覚へず」して、常に首をとり足を探り、夢路を行く心地をしけれども、一両日過ぎてこそ、夜の明くる心地して、「真に頚も手足も恙無けり」と不思議に覚へて、「うかりし鎌倉怖しく、いとど後ろに遠ざからん」と、夜を日に継いで、急ぎ上りける程に、五月二十七日の午の刻に鎌倉を出で、六月一日の午の刻に、都・賀陽院殿へぞ走り著く。
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