関東勢、再び戦の手分をなす

 東山・東海両道の大勢、一つに成りて上りければ、野も山も、兵共、充満して、幾千万と言ふ数を知らず。野上・垂井に暫く陣を取りて、駿河守、軍の手分けをせられけるは、「相模守殿は、勢多へ向かはせおはしまし候へ。供御の瀬へは、武田五郎、向かはれ候へ。宇治へは、武蔵守殿、向かはせ給ひ候へかし。芋洗へは、毛利蔵人入道殿、向かはれ候ふべし。義村は、淀へ罷り向かひ候はん。」と申せば、相模守殿の手の者・本間兵衛尉忠家、進み出でて申しけるは、「哀れ、駿河守殿は、悪う物申され候ふかな。『相模守殿の若党には、軍なせそ。』と存じて申され候ふか。」義村、聞きて、「この事こそ心得候はね。義村、昔より御大事には度々逢ひて、多くの事共、見置きて候。平家追討の時、関東の兵共、差し上せられ候ひしに、勢多へは『大手なれば。』とて、三河守殿、向かはせおはしませ、宇治へは搦手なれば、九郎判官殿、向かはせ給ひ、上下の手、同じと雖も、三河守殿、勢多を渡して、平家の都を追ひ落とし、たやすく軍に打ち勝たせ給ふ。是は、『先規も御吉例にて候へば』と存じてこそ、かやうには申し候へ。いかでか『軍なせそ』と思ひて、かくは申し候ふべき。かやうに申さるる條、存外の次第に候。勢多へは、敵の向かふまじきにて候ふか。軍は、いづくも、よも嫌ひ候はじ。只、兵の心にぞ依るべし。」と申しければ、本間兵衛尉、始めの申し状には、由々しく聞こへつれども、兎角申し遣りたる方もなし。
 武蔵守泰時は、駿河守の議に同ぜらる。その時に申さるるは、「宇治へ向かはんずる人々は、向かはれ候ふべし。但し、式部丞、北陸道より罷り上り候ひしが、道遠く、極めたる難所にて、未だ『著きたり。』とも聞こへ候はず。都へ責め入らん日、一方透きては悪かりなん。小笠原次郎殿、北陸道へ向かはせ給へ。」「長清は、山道の悪所に懸かりて馳せ上り候ひつる間、殊さら関大良にて馬ども乗り疲らかし、肩・背・膝かけ、爪をかかせて候。又、大炊の渡りにて、若党ども手負ひて候へば、無勢かたがた以て『叶はじ』とこそ存じ候へ。」とぞ答へられける。武蔵守、「さらば、勢を添へらるべし。」とて、千葉介殿・筑後太郎左親門尉・中沼五郎・伊吹七郎、是等を始めて、一万余騎を付けらる。小笠原、「この上は。」とて、小関に懸かりて、伊吹山の腰を過ぎ、湖の頭を経て、西近江・北陸道へぞ向かひける。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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