泰時、川の浅深を探らしむ

 武蔵守、芝田橘六を召して、「『河を渡さん』と思ふが、この水、夜の程には一尺ばかりも増りたるな。この下に、渡る瀬やある。瀬踏みして参れ。」と宣ひければ、「うけたまはり候ふ。」とて、一町ばかり打ち出でたりけるが、取りて返し、「検見を給はり候ばや。」と申す。「尤もさるべし。」とて、南條七郎を召して、指し添へらる。
 二騎連れて下様に打ちけるが、槙島の二俣なる瀬を見渡しけるに、あやしの下臈の白髪なる翁、一人出で来たれり。是を捕らヘて、「汝は此所の住人、案内者にてぞあるらん。いづくの程にか瀬のある。慥かに申せ。勧賞、申し行ふべし。申さずば、しや首切らんずるぞ。」とて、太刀を抜き懸けて問ひければ、この翁、わななきて、「瀕は、ここは浅く候ふぞかし。かしこは深く候ふ。」と教へければ、「よく申したり。」とて、後には、首を切りてぞ捨てにける。「又、人に言はせじ」となり。
 その後、馬より下りて裸になり、刀をくはヘて渡る。検見の見る前にては、浅き所も深き様にもてなし、早き所をも長閑なる様に振舞ひて、中嶋に游ぎ付きて見れば、向かひには、敵、大勢控へたり。「さて、この河はさぞあるらん」と見渡して返し、「瀬踏みをこそ、しをほせて候へ。」と申しければ、佐々木四郎左衛門尉、御前に候ふが、芝田が申す詞を聞きも敢へず、うつたち、馬にひたと乗りて、下様に馳せて行く。芝田橘六、「あな、口惜し。是に前をせられなんず」と思ひて、同じく馳せて行く。

   芝田・佐々木、先陣を争ふ

 佐々木、前に立ちて、「ここが瀬か。ここが瀬か。」と言ひければ、「未だ遥か。未だ遥か。」とて、槙嶋の二俣なる所の、我が瀬踏みしたる所へ馬の鼻を引き向かへ、がばと落とさんとす。芝田が馬は、鹿毛なるが、手飼ひにて、未だ乗り入れず。されば河面、大雨降りて、洪水漲り落ち、白浪の立ちけるに驚きて、鼻嵐吹きて取りて返す。引き向けて、鞭をしたたかに打ちて落とさんとす。佐々木、是を見て、「こは如何に。かしこは瀬にて無き物を。」と思ひて引き返し、芝田が傍より、がばと打ち入れて渡しけり。佐々木が馬は、権大夫殿より給ひたりける、甲斐国の向歯立・黒栗毛なる駄の、下尾、白かりけり。八寸の馬、その名を御局とぞ申しける。駄の落つるを見て、芝田が馬も、続ひて落つる。河の中までは、佐々木が馬の鐙に鼻をさす程なりけるが、元来、馬劣りたれば、次第に捨てられて、二段ばかりぞ下りたる。

   佐々木信綱、宇治川の先陣す

 佐々木、未だ向かひの岸へも止まらずして、「近江国の住人・佐々木四郎左衛門尉源信綱、今日の宇治河の先陣なり。」と、高らかにぞ名乗りける。同じく続ひて、「奥州住人・芝田橘六兼能、今日の宇治河の先陣。」と、同音に高らかにぞののしりける。
 左々木、向かひの中島に打ち上りたれば、子息・右衛門太郎とて、十五になりけるが、犢鼻中に白き帷を著け、腰刀ばかりを指して太刀を頚に懸け、父が馬の鞭の総に取り付きて来たり。父、見返りて、「向かひの河の端まではありつれども、『是まで渡るべし』とは覚へず。如何なる子共ありとも、おのれに勝る子あるまじ。」と、親子が戦ひて、「敵の矢にあてじ」と、馬を横に折りふさぎ、子を陰にぞ立てたりける。されども、すはだなれば、猶痛ましく、かくては如何があるべきなれば、「おのれ、いしくも渡りたり、この後、如何なる愛子を儲くとも、汝に思ひ替ふべからじ。急ぎ、武蔵守殿に参りて、『瀬踏みをこそ、しをほせて候へ。』と申せ。」と言ひければ、右衛門太郎、「只、御供つかまつり候はん。」と申しければ、信綱、「柔らかに言はば、よも帰らじ」と思ひて、「如何で参らではあるべきぞ。さては、親の命を背くか。」と言はれて、力及ばず、取りて返して游ぎ渡り、武蔵守殿へ参りて、この由を申して、又、取りて返し、親の跡を尋ねてぞ渡りける。されば、大河を渡る事三度なり。洪水、漲り出でたる事なれば、流石に身も疲れて、押し入られ押し入られしければ、重代の太刀を首に懸けたりけるが、重かりける間、惜しくは思へども、取りて河に投げ入れて、身ばかり游ぎ上りてぞ助かりける。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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