【地勢】地勢は本国西境より南岸に渉りて山岳連亘し、東岸に至るに従ひ漸く低く、且平坦なり。故に数多の川流大抵は西南の諸山より発源して内海に入る。要するに南部は山多く北部は稍々少し。之を南伊勢・北伊勢と言ふ。
{鈴鹿郡東北部に広瀬野あり。奄芸郡西南部に豊久野等の昿野あり。広瀬野は往昔広大なりしが、近年漸々開墾して桑及び茶等を培養し、之が為に人民の移住する者多しと言ふ。又鈴鹿郡田村の東に倭武尊の御墓地あり。周囲百二十二間余、高さ四間余あり。世に白鳥陵と言ふ。又一志郡小倭大村に和遅野あり。聖武天皇此の野に遊猟ありし地なり。近来此の野も開墾の緒に就く。}

挿絵037

(一)【山脈】西境は連山一体相並びて北より南に亘れり。即ち三国ヶ岳・藤原ヶ岳・国見山・八風嶺・御在所岳・鎌ヶ嶽・入道ヶ嶽・鈴鹿山等相列る。鈴鹿嶺は近江の通路にして其の南麓は即ち加太谷なり。此の山は 天武天皇鈴鹿の関を置かれし旧趾にして、美濃の不破及び越前の愛發と共に三関と称せり。故に関駅其の山下にありて、東海道及び伊勢街道・伊賀越の要路に当れり。伊賀の境は長野・布引・元取・首ヶ岳及び三国岳等にして、大和の境に三ツ子越あり。其の南に連るを高見・国見の両山とす。大台ヶ原山其の南隅に重なりて紀伊に跨り、南洋の岸に至りて尽く。北勢は東北に多度山・篠立山等あり。漸く西に亘りて高原相連る。其の西は鶏足山・筆捨山等相並び、錫杖ヶ岳・経ヶ峰、又其の南に峙てり。南勢は堀坂山・白猪岳・矢頭山・局岳の諸山相並びて、以東は地勢平坦なれば常に舟人の目標となると言ふ。
{加太越は元弘の昔 後醍醐天皇笠置城にあり。東軍陶山・小見山等、夜に乗じて皇居を襲ふと言へる処は即ち此の道なり。}
{筆捨山は一ノ瀬川の西、官道の南にあり。旧名岩振山と言。俗伝に古昔画工狩野古法眼元信此の山を模写せむとして遂に其の真趣を写すこと能はずして筆を抛げし所なりと言ふ。是を以て此の称ありと。妄誕なり。}

挿絵038

(二)【河流・池沼】一国の川流は皆西境の連山より出で、悉く東に流れて直に内海に入る。故に其の数甚だ多きも却て大河なし。員弁川は篠立山に出でて下流を町屋川と言ふ。朝明川は鳥居戸山に発し、三重川{三滝川とも言ふ}は源を鎌ヶ岳及び御在所岳に発して四日市港に注ぐ。此の所を霞ヶ浦と言ふ。内部川は入道ヶ岳・鎌ヶ岳の間に発し、西南に流れて三重・鈴鹿の郡界となり、東に折れて鈴鹿川の派流に会し、塩浜村・小倉村の間より海に入る。鈴鹿川は加太谷より来りて関・亀山を過ぎ、御幣川を併せて高岡川の称あり。安濃川は{又、塔世川と言ふ}錫杖ヶ岳に発して阿漕浦に入る。岩田川は薬王寺村に発し東流して津市街の南部を貫き贄崎港に注ぐ。以上を北勢の諸流とす。
[御幣川と称するは御贄川にして、毎年両大神宮へ貢献する年魚を漁捕せし所なり。水源袚山より流出す。]
南勢は、雲出川其の源を川上谷不動ヶ滝に発し、数川共に久居に合ひて辛洲に注ぐ。又、島貫村より東北の間に流るるを雲出古川と言ふ。櫛田川は高見・国見の両山に出づるもの相会して東流十七里、分れて両派となる。宮川は国中の大河にして、大台ヶ原山より来り、其の流三十二里にして大湊の北に入る。五十鈴川又宇治川と称す。志摩国英虞郡恵利原村の山中より来り、渓澗の諸流を集めて東西鹿海村の中間を経て朝熊川を合せ、小朝熊神社の西に至りて海に入る。
[櫛田川、上世は竹川と称す。飯野・多気二郡の界川なり。本流は稲木川、又禊川と言ふ。支流は今世早馬瀬村と豊原村との中間に流るる多気河の一派にして、本流よりも却て大なり。土俗之を櫛田川と唱ふ。今言ふ櫛田・豊原川は三百年来の新川なり。]
{度会郡宇治の五十鈴川の水源なる神路山に瀑布あり。大瀑と言ふ。高さ五丈、両岸絶壁、飛泉白布を晒らすが如し。巌上楓樹多く、真に一仙境たり。谷川の東岸に鏡石あり。高さ二丈、横五丈余。其の石清潔にして恰も鏡面の如し。故に山鏡と言ふ。勢州八奇石の一つなり。其の他、三ツ石・鮑石・高麗石等の奇石渓間に枕し、清水これを繞りて流る。風景名状し難き所多し。}

挿絵040

池沼は、員弁郡笠田新田の笠田池、三重郡の大池、奄芸郡の芝ヶ溜、一志郡宮野村の古田池、同郡戸木村の風早池、多気郡五桂村の五桂池等を最大なりとす。
[安濃郡家所村に家所池あり。垂仁天皇二十八年に鑿処と言へり。]
{風早池の流末を相川と言ふ。相川は間川の意にして、即ち安濃と一志との郡界をなす。}

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校訂者注)原書中、「五十鈴川又宇治川と称す。志摩国英虞郡恵利原村の山中より来り…」に書き込みがあり、「英虞」を三重縦線で消し「答志」と右に訂正してある。