日記文学
一 日記文学の本質と発達
一 日記文学の本質
日記文学とは日記を一つの文学として見よう、日記の中から文学的なものを見出して行かうとする意図から、日記と文学とを結びつけて日記文学なる名称を設けたもので、日記文学として取扱はれる程度のものは文学的日記といふことになる。日記は抑々記録から出発したものであるから、たとひ文学的であるとしても、小説・戯曲の如く筋を設けるとか、場面を展開させるとか、面白く読ませようとか、此の如き技巧のある作品ではなく、殆んど無技巧の、素朴な正直な文学であるのは当然である。ただ日記文学に見られる作者の希望は、自己の生活を知つて貰はう、告白を聞いて貰はう、さうして同情して貰はうといふ程度のもので、他人の為にといふ意思は絶対にない。又、日記がよく文学たり得るのは、全くその人の現実の生活がよく書き現されてゐるか否かに懸るのであつて、ただ其の「よく」といふことが問題になるだけである。其の人の生活がよく書き現されてゐる日記であるならば、同じ境遇職業の人は其の日記を以て自己の生活の表現されたものと殆んど同様に考へ、異る境遇職業の人は其の日記によつて別の世界、別の生き方を示され、何れもそこに文学的な感興をもつのである。
自己の生活をよく書き現した日記ならば、必ずや其の人の日々に経験する出来事を通して、其の人の向上・努力・苦心の生活、その反面の懐疑・悲観・自棄の心情が生き生きと表現されてをつて、読者はたとひ作者を直接に知らなくても、ただ其の表現を通して其の人の生活の波瀾と発展とを如実に見る事ができるであらう。然らば此の如きよき表現は如何にして成就されるであらうか。先づ表現されるべき生活が花やかで波瀾に富む事を是非とも必要とするであらうか。これは否と答へたい。何となれば花やかにして波瀾に富む生活をしてゐる人の数は甚だ多いにも拘らず、その書かれた日記にして文学的なものは甚だ少いからである。大臣でなくとも、芸術家でなくとも、学者でなくとも、将又重役でなくとも、我々普通人の生活の内に、日記文学の素材たり得る生活、感情、精神は夥しく横はってゐると私は信ずる。それでは表現の技術の問題であらうか。これも大体否と答へたい。なるほど毎日自分の思ふ事、した事をすらすらと書き現すことも出来ないといふのでは問題にならないが、既に記した如く日記文学としては小説・戯曲の如き特別の技巧を必要としないし、文章とても是非とも美文でなくてはならぬといふわけのものではない。ただ必要なことは真実の自己を書き現し得るか否かといふ事である。然らば真実の自己を書き現す為には何が必要であらうか。それは回顧・反省・批判といふ精神的方法によつて、真実の自己を我自らの内によく見るといふことである。換言すれば我を我に十分体験させるといふことである。或は体験に徹するといふ事である。処が多くの日記はそこまで深い精神的努力を払ひながら記される事なくして、ただ我を我に説き聞かせる程度の満足で、その日の重要な出来事をかいつまんで記すに止まるのである。随つて多くの日記は文学的たりがたいのである。ここに於て日記が文学的たり得る為には、真実の自己を我自らの内によく見ることを必要条件とし、それによつて自己の生活をもよく書き現し得るのである。
試みに小学生の書く善行日記を取り上げて見ても、純心な子供の場合ならばそれでよいとしても、浮世に住む大人の場合であるならば、恐らくそれは偽善的にさへ見えるであらう。苟も真実の自己を我自らの内によく見るといふ以上は、善い事も悪い事もあるがままに告白し懺悔し、ありのままの自己をさらけ出さうとする真剣さがなくてはならぬ。隠さうとする卑怯もなく、顕れるかもしれぬといふ不安もなく、衝いても押しても動かない所の、赤裸々の自己が示されてゐる時に於てこそ、始めて深刻味と迫力とが出てくるであらう。
かくいへばとて日記文学は自然主義の文学と同一であるといふわけではない。不完全な我々がただ無意味に醜悪の生活をさらけ出したとしても、それは溝の中の汚穢と何等選ぶ所がない。やはり日記文学としては理想主義的な現れを必要とする。別段あらたまつた理想主義といふ程のものはなくとも、告白・懺悔といふことが既に理想に向ふ第一歩である。ありのままの自己をさらけ出すといふことは、現実の我の中からあるべき真実の我、純粋の我を現して行く所以である。我々の生活はとかく虚偽・不純・妥協・懶惰などに陥り易いが、さういふ一切の曇を払拭して清朗にし、純粋の世界を見出して行かうとする。その為に随分と苦労し、努力し、懊悩し、鞭撻する。殊にさういふ悪徳が自分の相手の不真面目、世間の軽薄などである場合は、その抵抗や摩擦は一層烈しくなるが、それによつて自己の生活は一層実の入つたものになり、力に溢れたものとなつてくるのである。
かやうに日記文学の本質を定めてくると、日記文学が倫理的意義に結びついてくるのである。即ち日記文学に於けるが如く、自己の真実に徹し、一切の陰翳を除き、清朗純粋の世界を求めて行くことは、それ自身既に立派な倫理生活である。その上さういふ生活を記述するとなれば、観察も批判も明確になつて一層倫理性を加へてくるのである。
処がここに残された問題がある。それはかくして蕪雑汚穢なものが浄化されて純粋清朗にされた場合、その純粋清朗なものの実質は何であらうかといふ事である。勿論この純粋清朗といふ事は日本精神の最も重要な性質であらうが、ただ純粋清朗とだけいつたのでは、抽象的な意味しかもたない。ここに於て純粋清朗は如何なる具体的な生活に立脚したものであるかを探ねて見る必要がある。換言すれば日本文学に描き出されてゐる美は、国民生活としての如何なる方面の体験であるかといふ事である。少し回りくどくなつたが、之を日記文学に就いて見て、純粋清朗な自己とは、自己が如何に生きて行く場合を意味するであらうかといふ事である。ここまで問題の範囲を限定してくれば、単なる思想、単なる道徳、単なる宗教、単なる哲学の如きは、此の問題の範囲外であることがわからう。さうして我々が日本人としての生活の内から、最も純粋清朗真実なるものを捜れば、そこに燦然として輝かしい光を放つてゐるものは、温き情の世界であり、情を解し純情に生きる生活であることがわかるであらう。凡そ東洋の文化、殊に日本の文化は情的根柢をもつことを以て特色とし、日本文化の表現としての日本文学も亦情的立場の上から、情の内で最も純粋にして、最も美なる純情に生きようと努力してゐる。日記文学はかういふ努力を単的に書き現し、そこで培はれた精神が他の文学の根柢とさへなるのである。かくして日記文学の本質は純情の美といふ点に重大な標準を置いて規定して行かねばならぬであらう。
或る文化が情的根柢をもつといふ観察は、其の反面に理性的根柢をもつ文化を予想したものであることは論を俟たない。情的根柢をもつ文化に於ては自他が情的親和感を以て結びつき、理性的根柢をもつ文化に於ては自他が知的理解感を以て結びつくのである。宗教でも道徳でも芸術でもすべてが情的に会得され、規範も法則も情的会得の中に自然に含まれ、普遍妥当性といつたものが以心伝心的に溢れ流れて行くのが、情的文化の特色である。日本の文学は和歌でも物語でもかういふ情的文化を表現し、優雅なやさしみを特色とするのである。日記文学はかういふ情的美の直接的な体験を、一生又は数年を単位として書き記したものである。かういふ文化並に文学は知識として説明され易いやうな論理性をもつことが少い。さりとてかういふ文化が低級であるといふわけではなく、寧ろ高級な複雑性をもつといふべきであらう。
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