二 日記文学の発達

 年月日を追ふ所の記述には早く六国史がある。六国史の中には文学的要素が多分に含まれてゐるけれども、その故に六国史を日記文学として取扱ふといふ事はなく、若し文学として取扱ふならば、歴史文学といふ名称を与へるのがふさはしい。これは年月日を追うて記述するといふ形式的な條件が、決して日記文学の本質に係らないといふ事を意味するのである。但し編年体の六国史を以て国家の日記と見ることは一向に差支ない。個人の日記がいつ頃から記し始められたかは明瞭でない。日記の原本の残つてゐる最古のものとしては、(1)正倉院文書中に天平十七年二月から翌年二月までのものがある。おもに写経に関するもので、其の中には唐の使を召されたことが見えてゐて、国史の闕を補ふ所がある。
 日記の種類としては御歴代の(2)御日記を始め奉つて、其の他を文体によつて漢文の日記と仮名の日記とに分かち、性質によつて普通の日記と旅日記とに分かち、記述の方法によつて回想体と当日体とに分かつ事ができる。普通は一人称を以て書いたものであるが、中には和泉式部日記の如く三人称を用ゐたもの、弁内侍日記・中務内侍日記の如く第三者の編纂したものもある。公卿の書いた漢文の日記は有職故実の目的で典儀・行事などを記したものである。(3)中右記に小野宮家の事を日記の家といふのは有職故実の家といふ意味である。仮名の日記は土佐日記に始まり、以下文学的なものが多い。普通の日記と旅日記とは厳密には区別し難く、土佐日記の冒頭に

  男もすなる日記といふものを女もして心みむとてするなり。

とあるのは、必ずしも旅日記に限らないで、寧ろ日記と紀行とを区別しない日記であり、更級日記の如きは群書類従では紀行の部に収められてゐる。
 旅日記としては古く円仁の(4)五台山巡礼記、円珍の(5)行歴記がある。三代実録貞観十五年七月八日の條に、渤海人崔宗佐以下が肥前国天草郡に漂着し、朝廷は大唐通事張建忠を遣して事の由を覆問し、情状を審実せしめられるとある所に、宗佐等の日記、齎す所の蝋封の凾子、雑封書、弓剣等を奉進すとある。この日記は航海日誌と思はれるが、もとより邦人の手になるものではない。続日本後紀承和九年辛亥(十九日)の條に「正躬王・真綱朝臣等、窮問罪人、奏其日記」とあるが、これは窮問の日記であらうか、それとも罪人(橘逸勢・伴建岑など)の日記であらうか、明かでない。宇津保物語には俊蔭の父の式部大輔が、俊蔭の入唐した日から丹念な日記をつけたとある。此の日記は前後の記事から推して漢文の日記であることが明かであるが、後の成尋阿闍梨母の如く愛児を海外に出した不安や愛慕の情から自然に筆を執るやうになつたもので、よほど文学的なものたり得ると考へられる。かくして土佐日記となり蜻蛉日記となるのであるが、蜻蛉日記には西宮左大臣配流の事を記した所に「身の上をのみする日記には入るまじき事なれども」とあつて、個人的な日記といふ自覚をはつきりと示してゐる。
 日記文学が其の文学的な機能を最もよく発揮したのは平安朝である。文学形態の発展の上から見ると、平安朝に於ては歌集の外に物語・日記・随筆・歴史文学・説話集といふ風に、新しい形態が発展してきて、その新しい形態のそれぞれの面に添うて、新しい文学精神が発達してゐるのである。処が此等の新旧の諸形態の奥底には相互に流通するものがあつて、日記の方面で培養されて円熟してきた「あはれ」「かなし」などの精神・感情が物語の方面の文学精神を刺戟し、ひきしめ、美化し、文学発展の原動力となつてゐるのである。日記の精神はそれほどまでに物語の発展に貢献してゐるのであるが、かういふはたらきは文学の諸形態がはつきりと分化してゐなかつた為に可能であつたと考へられる。
 日記文学の精神内容に就いて形態(型)の種類を分つて見ると、
 (イ)純粋真実の自己を求めるもの
 (ロ)自己の位置すべき純粋真実の世界を求めるもの
 (ハ)自己の現状を訴へるもの
 (ニ)自己の感情を強調するもの
等が考へられる。紫式部日記の中には宮仕の女房としてはどうあらねばならぬか、つつしみの徳を守ると共に、情なからずもてなすべきであるとして一つの理想を示してゐるから(イ)に属する部分があるといへる。土佐日記には世間人として温き情の世界を求め、蜻蛉日記は妻として完全な愛の世界を求め、更級日記は少女としてロマンスの世界を求めてゐるから、何れも(ロ)に属すると見てよい。此の場合には住むべき世界を見出す為に苦悶し懊悩し、あきらめはげまし、悲観し、運命に流され、宗教にすがり、自己を呪ひ、他を非難し、といふ風に嵐の吹きすさぶのを以て特色とする。紫式部日記も亦この型に属する部分があつて、特に時代の悩みの見えてゐる点が注意される。和泉式部は外から見れば花やかで奔放に見えるが、内面では心細く寂しく悩ましく、成尋阿闍梨母は年老いてから我が子を手離した後の寂しさを訴へ、甲斐なき老の繰言を述べ、或はこれが前世の因縁であらうかと諦めてゐるから、何れも(ハ)に属する。但し此の場合には理想主義的なものは余り見られない。讃岐典侍日記は尊く忝く、悲しく嘆かしい情を感動深く、印象的に記してゐるから、まさしく(ニ)に属するといへよう。建春門院中納言日記・建礼門院右京大夫集なども(ニ)に属すると見てよい。
 日記文学の文章は背後に真実の自己があるだけに、多少の面苦しさはあるとしても、堅実さに満ち迫るものをもつてゐる。順次文章の特色を述べて見ると、土佐日記は至って素朴で気分を文章そのものの上に現すといふまでに至つてゐないが、きりつめた簡潔ないひまはしの中に深遠な含蓄をもつものがある。例へば始の方の「年ごろよく具しつる人々なむ、別れがたく思ひて、その日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜ふけぬ」に於て「しきりにとかくしつつ」は抽象的な表現ではあるが、あれもこれもと心を配り何くれと世話を焼いてくれた実状が思ひやられる。若し全体が物事を細々と記してゐるのであるならば、これだけの表現は何等の感興も起させないのであるが、全体が簡潔であるからこれだけの一寸した表現にも含蓄が出てくるのである。最も濃厚に気分を文章その上に現してゐるのは、蜻蛉日記と和泉式部日記である。これは作者が気分の中に没頭し、作者の息づかひそのままが文章となってゐるやうである。一つの助詞の終に、句のいひまはしに、語を省略した間隙に、作者の気分が溢れ出るのである。此の二つの作品の文章に就いて、(6)土居光知氏は「意識の中に生起するものを表現せんとした」ものであり「意識の流れに影をやどする事物をありのままに直接に写し出した」ものであるとし、ジエイムズ・ヂヨイスの文章法と比較してゐる。紫式部日記になるともはや気分に没頭するといふ事がなく、著しく技術的になつて場面の選択・転換、幻想と直観との配合、荘重と静寂、花やかなものと渋いものといふ風に、構成・調和の点に努力を払ひ、句の切り方と続け方とに曲線的な優美感を漂はせてゐる。更級日記になると浪漫的印象的で、強い印象をはつきりと描き出してゐるが、文章そのものは平易な構造をとり、読者は容易く作者のロマンスの中にはいつて行くことができる。成尋阿闍梨母日記は同じことをくどくどと記してゐるが、これは年のせゐであらう。讃岐典侍日記の印象的なのは更級日記に似てゐるが、文勢はいくらか足どりが重い。建春門院中納言日記は事実の描写と感情の描写とがうまく調和してゐない。建礼門院右京大夫の文は驚くべきほど明快である。

 註(1)佐佐木信綱博士--鎌倉時代の日記文学(新潮社の日本文学講座)による。
  (2)和田英松博士--御歴代の御日記に就いて(改造社の日本文学講座)を参照せられたし。
  (3)池田亀鑑氏--自照文学史(国文学体系)七一七頁を参照せられたし。
  (4)続々群書類従・宗教部(其二)に収む。
  (5)今は其の抄たる行歴抄の古鈔本が石山寺に伝はり、古典保存会にて複製したるものあり。
  (6)平安朝の日記文学(改造社の日本文学講座)

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