二 鑑賞
これほど大きな作品の感情内容と精神内容とを、唯ぎこちない形容詞など用ゐて、ほんのかいなでの説明をして見た所で、相手が聊かも本文内容に触れてゐなかつたとしたら、一片の空念仏たるに止まり、説明を委しくすればするほど、作品の実際から遠ざかる恐れなしとしないのである。それほど此の作品の内容は複雑な、多面的な、変化の多いものである。作品の実際から離れるといふことは、最も好ましからぬ行き方であるから、ここでは出来るだけ作品の実際に触れ、とくと其の表現を味はひ、然る後に意見をまとめるといふ事にしたい。その為に作品の中から表現なり気分なりのまとまつてゐる部分を書き抜き、之を読者に提示し、猶その間に記事の要点をかいつまんで記して全体の連絡をつけて行かうと思ふ。
かく、ありし時すぎて、世の中に、いと物はかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけり。かたちとても、人に似ず、心魂も、あるにもあらで、かう、物のやうにもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き、明かし暮すままに、世の中におほかた、古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ、身の上まで書き、日記して、珍しきさまにもありなん、天下の品高きやと問はんためしにも、せよかしと覚ゆるも、すぎにし年、月頃のことも覚束なかりければ、さてもありぬべき事なん、多かりける。
これは冒頭の小序であるが、実に難解である。句読は小さく切つて見た。始の「かく」は自分の過去の全生活を指してゐるのである。「ありし時すぎて」とは、前半生を過してとの意。「ことわりと思ひつつ」とは、形もわるく、心魂もない自分が、かく兼家にも捨てられて、人並でない晩年を過してゐるのは当然であると思ひつつ、との意。「世の中におほかた」は解環の説の如く「世の中に多かる」の誤で、恐らく次の「世に多かる」は衍文であらう。世の物語には虚言が書いてある、自分は事実を書かうとしてゐる。定めし珍しいものになるであらう。これは物語的目的で日記を書かうとした意図を示すものである。「人にもあらぬ」とは、他人のことではなく、自分の身の上を書きつける、との意。「品高きやと云々」とは残した日記によつて作者はどんな人であつたかと、世の人の尋ねてくれる例にもなれかし、との意であらう。「さてもありぬべき事」とは、よい加減の事、の意。此の小序の文調は含みが多くてゆつたりとしてをり、随つて自己反省の幅も広く遥々としてゐるやうに思はれる。
我が頼もしき人、陸奥へ出で立ちぬ。時はいと哀れなる程なり。人はまだ見なるといふべき程にもあらず。見ゆるごとに、たださしぐめるにのみあり。いと心細く悲しき事物に似ず。見る人もいと哀れに忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれに従ふべきかはと思へば、ただひとへに悲しう心細き事をのみ思ふ。今はとて皆出で立つ日になりて、行く人もせきあへぬまであり。とまる人はたまいていふ方なく悲しきに、時たがひぬるといふまでもえ出でやらず、また見泣き、硯に文をおし巻きて打ち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。暫しは見む心もなし。
これは天暦八年十月、作者の父が陸奥に下る時である。父には別れ、兼家とはまだしつかりと結びついてゐない。それで心細く悲しいのである。「人の心はそれに従ふべきかは」とは、人の心はその言葉通りにならないもので、兼家は決して見捨てないといふが、軽々しく信じられないといふのである。
我が家は、内より参りまかづる道にしもあれば、夜中暁と打ちしはぶきてうち渡るも、聞かじと思へども、打ち解けたるいもねられず。夜長うしてねぶる事なければ、さななりと見聞く心地は、何にかは似たる。
これは天暦十年、しはぶきをしながら作者の家の前を通り、一向立ち寄つてくれないといふのである。腹立たしさ、悔しさ、切なさ、いらだたしさ、かなしさ、凡そ女性の身として味はふべき不快の感情のすべてである。
かうやうなる程に、かのめでたき所には、子産みてしより、すさまじげに成りにたべかめれば、人憎かりし心、思ひしやうは、命はあらせて、我が思ふやうに、押し返し物を思はせばやと思ひしを、さやうになりもて出で、はては産みののしりし子さへ死ぬるものか。
町の女の寵が衰へ、剰へ生んだ男の子が死んだのである。作者はかくも町の女を呪ひ、かくも凱歌をあげ、之を偽り飾ることなく告白してゐる。さうして町の女が「我が思ふには、今少し打ちまさりて嘆くらん」と思ふと、胸がすつとするといふのである。
此処なる人、片言などする程になりてぞある。出づとては必ず「今来んよ」と言ふも、聞きもたりてまねびありく。
兼家が家を出る時には必ず、「今来んよ」といふ。それが毎度の事なので、四つになつた道綱が片言でまねをするといふのである。如何にもいぢらしい光景である。
日頃なやましうて、しはぶきなどいたうせらるるを、物の怪にやあらん、加持も試みむ、せばき所の、わりなく暑き頃なるを、例も物する山寺へ登る。十五六日になりぬれば、盆などする程になりにけり。見れば怪しき様に荷ひいただき、様々に急ぎつつ集るを、もろともに見て哀れがりも笑ひもす。
これは応和二年七月、兼家と諸共に盆の風景を見て哀れがり、又笑ひもする、作者としては最も幸福な一時である。
足手など、唯すくみにすくみて、絶え入るやうにす。さいふいふ、物を語らひおきなどすべき人は、京にありければ、山寺にてかかる目は見れば、幼き子を引き寄せて僅かに言ふやうは、我れはかなうて死ぬるなめり。彼処に聞えんやうは、おのが上をば如何にも如何にもなしり給ひそ。此の御後の事を、人々の物せられん上にも、とぶらひ物し給へ、と聞えよとて、如何にせんとばかり言ひて、物も言はれずなりぬ。
これは康保元年の秋、作者の母が身まかつて、中陰のほど山寺に籠つてゐる内に、作者も病気をし、幼き道綱を引き寄せて、遺言を兼家に伝へよといふのである。自分の後は放つておいてよいから、ただ母の追善を、人々もそれぞれするであらうが、その上にも弔うてほしいといふのである。誠に哀切を極めてゐる。物はいへないが目は見えて、人々が泣き迷うてゐると、父の倫寧が来て、「親は一人やはある、などかくはあるぞ」といつて湯をむりに飲ましてくれ、それで身も直つて行き、亡くなつた母が作者の身の上を案じて、「あはれ、いかにし給はんずらん」と、苦しい息の下から言つてくれた事など思ひ出すのである。病がよくなつて猶山寺にあつたが、
夜、目も合はぬままに、嘆き明かしつつ、山づらを見れば、霧はげに麓をこめたり。京もげに誰がもとへかは出でむとすらん。いで猶見ながら死なんと思へど、生くる人ぞいとつらきや。
今は母もない京、誰の許へ帰らうと思ひ、このまま死にたいと願ふが、なかなか死なないといふのである。
来し時は膝に臥し給へりし人を、如何でか安らかにと思ひつつ、我が身は汗になりつつ、さりともと思ふ心添ひて頼もしかりき。こたみはいと安らかにて、あさましきまでくつろかに乗られたるにも、道すがらいみじう悲し。おりて見るにも、さらに物覚えず悲し。もろともに出で居つつ、つくろはせし草なども、煩ひしより初めて、打ち捨てたりければ、生ひこりて色々に咲き乱れたり。
山寺から里に帰る、ここに来た時は母は作者の膝の上に臥してゐた、我が身は汗になりながら母をいたはり、万-を頼む心もあつた。今は唯-人乗つた車の中が、がらんとしてゐて、道すがら悲しいといふのである。
四十九日の事は兼家が面倒を見てくれたので、人々が繁く出で入りしたが、其の日が過ぎておのがじし行き別れた後は、心細うなりまさり、いとどやる方もなかつたが、兼家は同情して曽てよりも繁く通つてくれた。康保二年母の一周忌をかの山寺にてするに、ありし事どもが思ひ出され、いとど哀れに悲しく、導師の唱へる言葉に、
うつたへに、秋の山辺を尋ね給ふにはあらざりけり。まなこ閉ぢ給ひし所にて、経の心解かせ給はんとにこそありけれ。
とあるのを聞くと、物も覚えずなつて、後の事どもはわからないやうになつた。忌日など過ぎて、「例のつれづれなるに、弾くとはなけれど、琴おしのごひて、かき鳴らしなどする」に、哀れに儚きながらも心のおちつきを得てやすらふのである。九月十日あまり、頼もしき人が遠き任地に下ることになつたので、出発の日行つて見たが、我も人も目を見合せず、ただ向ひ居て涙をせきかね、家に帰つてからも、まがまがしいと咎められるまで泣き伏し、今頃は関山を越えてゐるだらうと思ひやり、月の哀れなるを眺めやるのであつた。
康保三年三月の頃、兼家が俄かに苦しがりそめ、幾何もあらぬ心地がするといつて泣くので作者も物を覚えずなりていみじう泣くと、兼家は「泣き給ひそ、苦しさまさる」といひ、作者の家では十分なる処置もできないので帰る事にし、人によりかかつて車に乗せられ乍ら、作者の方を見おこせて、つくづくと打ちまもりて、いと悲しと思ふ様子、作者はもう再び会ふこともあるまいと思ふのである。毎日二度も三度も文をやつて容態を聞き、段々悪くなると聞いて胸を痛めるのであるが、もうその時には日頃の怨みも片意地もないのである。その後大分快方に赴いて、作者に「夜の間にも渡れ」といつてよこし、作者から「車を給へ」といつてやると、車をよこしたので乗つて行く。いと暗うて入らん方もなくて迷うてゐると、兼家が出て来て自ら手を取つて導いてくれた。まだ魚なども食はなかつたが、今宵もろともに食べようといひ、作者もその夜は泊り、翌朝になつて帰らうとすると、まだ暗いからとて引きとめ、蔀をあげてから兼家は作者に、庭の草はどうかと尋ね、粥などすすつて昼になり、さて諸共に作者の家に行かうといつたが、それでは私がお迎へに来たやうで人聞きが悪いとことわると、兼家も聞き入れて、
さらば男ども車寄せよとて寄せたれば、乗る処にもかつがつと歩み出でたれば、いと哀れと見る見る、「何時か、御歩きは」などいふ程に、涙浮きにけり。いと心もとなければ、明日あさての程ばかりには参りなん、とていとさうざうしげなる気色なり。少し引き出でて牛かくる程に見通せば、ありつる処に帰りて見おこせて、つくづくとあるを見つつ引き出づれば、心にもあらでかへり見のみぞせらるるかし。
誠にこまやかな情が見られるが、然しかういふ状態は永続きしないで、すぐ不和になつて了ふのである。
心のどかに暮す日、はかなき事いひいひのはてに、我も人も悪しう言ひなりて、打ち怨じて出づるになりぬ。端の方に歩み出でて、幼き人を呼び出でて、我は今は来じとすなど言ひ置きて出でにける。即ち這ひ入りて、おどろおどろしう泣く。こはなぞこはなぞと言へど、いらへもせで。論なうさやうにぞあらんと推し量らるれど、人の聞かむも、うたて物狂ほしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五六日ばかりになりぬるに音もせず。
「幼き人」は道綱で、既に十二歳であつた。父はもう来ないといつて帰る。子供の心にはそれが悲しいのである。道綱の泣くわけはわかつてゐるから、母も深うは尋ねないで、とかうこしらへて過すのである。
五月にもなりぬ。十余日に、内の御薬の事ありてののしる。程もなくて、廿余日の程にかくれさせ給ひぬ。春宮即ち代り居させ給ふ。
康保四年五月廿五日、村上天皇崩御あらせられ、冷泉天皇践祚あらせられたのである。明くれば、安和元年、九月作者は年頃の願を果す為に、初瀬詣をした。此の時の紀行は実に名文で、深い哀感と観照が示されてゐる。
午の時ばかりに、宇治の院に到りつつ見やれば、木の間より水の面つややかにて、いと哀れなる心地す。忍びやかにと思ひて、人数多もなうて出で立ちたるも、我が心の怠りにはあれど、我ならぬ人なりせば、如何にののしりてと覚ゆ。(中略)行き交ふ舟ども数多、見ざりし事なれは、すべて哀れにをかし。しりの方を見れば、来こうじたる下衆ども、あやしげなる柚や梨やなどを、なつかしげにもたりて、食ひなどするも、哀れに見ゆ。(中略)贄野、泉川など言ひつつ、鳥どもゐなどしたるも、心にしみて哀れにをかしう覚ゆ。かい忍びやかなれば、よろづにつけて淚もろく覚ゆ。其の泉川も渡りて橋寺といふ処にとまりぬ。酉の時ばかりに下りて休みたれば、旅籠所と覚しき方より、切り大根、物の汁してあへしらひて先づ出したり。かかる旅立ちたるわざどもをしたりしこそ、怪しう忘れ難う、をかしかりしか。あくれば川渡りていくに、柴垣し渡してある家どもを見るに、何れならん、よもの物語の家など思ひいくに、いとど哀れなる。今日も寺めく所にとまりて、又の日は椿市といふ所にとまる。又の日霜のいと白きに、詣でもし帰りもするなめり。脛を布の端して引き回らかしたる者ども歩きちがひさわぐめり。蔀さしあげたる所に宿りて、湯わかしなどする程に、見れば様々なる人のいきちがふ。おのがじしは思ふ事こそはあらめと見ゆ。(中略)それより立ちて、いきもて行けば、なでふ事なき道も、山深き心地すれば、いと哀れに、水の声も例に過ぎ、霧はさしも立ち渡り、木の葉は色々に見えたり。水は石がちなる中よりわき返り行く。夕日のさしたるさまなどを見るに淚もとどまらず。(中略)かたゐどもの、つき鍋など据ゑて居るも、いと悲し。下衆近なる心地して、入り劣りしてぞ覚ゆる。眠りもせられず、忙しからねば、つくづくと聞けば、目も見えぬ者のいみじげにしもあらぬが、思ひける事どもを、人や聞くらむとも思はず、ののしり申すを聞くも哀れにて、唯淚のみぞこぼるる。
木の間から見える水の面、行き交ふ舟、柚や梨など食ひ歩く下衆、泉川の鳥、大根あへ、柴垣し渡したる家、脚絆をはいてゐる旅人、蔀あげて湯をわかしてまつ旅籠、水わきかへる山川、道の傍に鍋を据ゑてゐる乞食、大声に祈る盲人、何れも深い哀れを感じさせ、涙もろにするのである。「心にしみて哀れ」といひ、「いと悲し」といひ、如何にも感動の深いことが思ひやられる。
それから御禊や大嘗祭の事などあつて、次に
かく年月は積れど、思ふやうにあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるも喜ぼしからず、なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する、かげろふの日記といふべし。
とあつて、わが身の境遇を「物はかなき」ものと観じ、それによつて書名も「かげろふの日記」と名づくといひ、それにて上巻を終つてゐる。
校訂者注)康保三年三月の「涙浮きにけり」、底本は「涙浮にきけり」。誤植と見て訂正。
コメント