安和二年三月、安和の変が起つて、西宮左大臣は左遷に遭はれる。

  廿五六日の程に、西の宮の左大臣流され給ふ。見奉らんとて、天下ゆすりて西の宮へ人走り惑ふ。いといみじき事かなと聞く程に、人にも見え給はで、逃げ出で給ひにけり。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見えたまはで、逃げで給ひにけり。愛宕になんと聞きしほどに、などゆすりて、遂に尋ね出でて流し奉ると聞くに、あいなしと思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖をぬらさぬといふたぐひなし。(中略)その頃ほひ、ただ此の事にて過ぎぬ。身の上をのみする日記には、入るまじき事なれど、悲しと思ひ入りしも、誰ならねば記しおくなり。

身の上をのみ記さうとする日記には、書くべきではない公的事件ではあるが、ああ悲しいと思ひ入るのは誰でもなく我であり、我が心に起つた現象であつて見れば、やはり記しおかねばならぬといふのである。此の年閏の五月の晦日から作者はそこはかとなく煩ひ、いと苦しいが命を惜んでゐるとは兼家に見られたくないと意地を張るのである。その頃兼家は東三條の新邸を造るとてそこに通ふついでに立ち寄つてゐたが、心地弱く覚えて物悲しい夕暮、例の如く兼家が立ち寄つて蓮の実を一本、人をしてさし入れさせ、これは彼処のであるといふ。作者はその返事を、生きてをつて生きてをらぬといはせて思ひ臥し、東三條邸はをかしい所であるらしいが命も知らず、人の心も知らねば、いつか連れて行つて見せようといはれたが、とてもだめであらうと、はかなく思ひつづけ、

  日を経て同じやうなれば心細し。よからずはとのみ思ふ身なれば、露ばかり惜しとにはあらぬを、ただ此の一人ある人、如何にせんとばかり思ひつづくるにぞ、涙せきあへぬ。

ただ道綱の行末のみ案じて涙にくれるのである。病状は一向にはかばかしくないので死を覚悟し、臨終になつて俄かには思ふ事もいはれまいと考へ、脇息に推しかかつて遺書を書いたが、多くは道綱の将来に触れて、

  唯この幼き人の上なん、いみじく覚え侍るものは。ありける戯れにも、御気色の物しきをば、いとわびしと思ひてはんべめるを、いと大きなる事なくて侍らんきはは、御気色など見せ給ふな。

戯れにても御気色の悪い時は小さき胸を痛めるから、大事でない場合は御気色に現さないで頂きたいと願ひ、又私のなくなつた後では、学問を励めと申し置いたと伝へ給へと書き添へるのである。
 天禄元年六月、心のむすぼほれるままに、涼しき所もあると心を延べがてら、浜づらの方に祓へもせんと思ひ立つて、作者は辛崎へ小さき旅をした。

  鴨河の程にてほのぼのと明く。打ち過ぎて山路になりて、京にちがひたるさまを見るにも此の頃の心地なればにやあらん、いと哀れなり。

郊外の風景は作者の心を慰めるに十分であつた。むすぼほれた心もさばさばと打ち解けるのである。

  関の道あはれあはれと覚えて、行くさきを見やりたれば、行方も知らず見え渡りて、鳥の二つ三つ居たると見ゆる物を、強ひて思へば釣舟なるべし。其処にてぞ、え涙はとどめずなりぬる。

湖のはるかに見やられた光景、鳥のゐるかと思はれる釣舟、もう作者は感極まつて涙さへ流すのである。走り井にて、

  手足もひたしたれば、ここち物思ひ、はるけるやうにぞ覚ゆる。石どもに押しかかりて、水やりたる樋の上に、折敷ども据ゑて、物食ひて手づから水飯などする心地、いと立ちうきまであれど、日暮れぬなどそそのかす。

かうして胸の晴れるのは、やはり旅なるが故である。其の後兼家はとだえ勝ちであつたので、作者も自棄的な気持になつて、死んで了ひたい、それができなければ尼になりたいと考へ、然もさういふ気持を幼い道綱にかぶせかけるので、道綱は悲しくなつて泣くのみである。

  さなり給はば、まろも法師になりてこそあらめ、何せんにかは世にもまじろはん、とていみじうよよと泣けば、我もえせきあへねど、いみじさに、戯れに言ひなさんとて、さて鷹飼はでは、いかがしたがはむずると言ひたれば、やをら立ち走りて、し据ゑたる鷹をにぎりはなちつ。見る人も涙せきあへず。

母が尼になるならば、自分も法師になるといつて泣く。作者も堪へかねて、我ながら余りに悲しい気持に陥つたので、戯れ言に導かうと思ひ、あの鷹を飼はないではをられないでせう。だから私に従つて法師になることはできまいといつて、愛翫の鷹に注意を向けると、道綱もまぎれて、やをら立ち走つて行つて、し据ゑてあつた鷹を握り放つたのである。如何にもいぢらしい又あどけない場面である。かくて盆がくると兼家は供物など調じて送り、文も添へてあつたが、どうも兼家のそぶりが怪しく、珍しい人に心を移したのではないかと疑はれる。周囲のものも失せ給ひし小野宮(実頼)の召人であらう、近江といふ人が怪しいといふ。作者も気を回して兼家は新しく通ふ女に自分の事を知らせては都合が悪いのだらうと考へる。明け暮れこんな事ばかりに心を費してゐてもしやうがないとて、暑い折ではあつたが、十日ばかり石山寺に籠ることとした。

  高欄に押しかかりて、とばかりまもり居たれば、片崖に、草の中に、そよそよならしたる物のあやしき声するを、こは何ぞと問ひたれば、鹿のいふなりと言ふ。などか例の声には鳴かざらんと思ふ程に、さし離れたる谷の方より、いとうら若き声に、遥かにながめ鳴きたなり。聞く心地空なりといへば愚かなり。思ひ入りて行ふ心地、物覚えで猶あれば、見やりなる山のあなたばかりに、田守の物追ひたる声、いふ甲斐なく、情なげに打ち呼ばひたり。かうしも取り集めて、肝を砕く事多からんと思ふぞ、はてはあきれてぞゐたる。さて後夜行ひつればおりぬ。

如何に悩ましさの反映した客観であらう。誠に肝を砕き腸を断つの思ひがある。かういふ文章は源氏にも枕にもあるまい。

  夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいと長閑にて霧立ち渡り、川のあなたは絵にかきたるやうに見えたり。川面に放ち馬のあさり歩くも遥かに見えたり。いと哀れなり。二なく思ふ人(道綱)をも、人目によりてとどめ置きてしかば、出で離れたるついでに、死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、先づこの絆おぼえて恋しう悲し。涙の限りをぞ尽しはつる。

外界の風景が美しければ美しいほど物思ひが増し、道綱を残して来たから、この間に死んで了ふ法もがなと思ふのである。

  空を見れば、月はいと細くて、影は湖の面にうつりてある。風打ち吹きて、湖の面いと騒しう、さらさらと騒ぎたり、若き男ども、声細やかにて面やせにたる、といふ歌をうたひ出でたるを聞くにも、つぶつぶと涙ぞ落つる。いかが崎、山吹の崎などいふ所々見やりて葦の中より漕ぎ行く。まだ物たしかにも見えぬ程に、遥かなる楫の音して、心細く歌ひ来る船あり。(中略)瀬田の橋のもと行きかかる程にぞ、ほのぼのと明け行く。千鳥うちかけりつつ飛びちがふ。物のあはれに悲しき事、更に数なし。

帰路の湖上舟行、誠にあはれに悲しく、象徴的な輝きさへ見えて、日記の白眉である。かやうに作者の心は、自然と自己との間に感動の一致を見出して落着きを示して来たが、兼家と自己との関係に於ても、自己を反省して諦めに近づかうとしてゐる。

  古へを思へば、我がためにしもあらじ、心の本性にやありけん、雨風にも障らぬものと習はしたりし物を、今日思ひ出づれば、昔も心のゆるぶやうにもなかりしかば、我が心のおほけなきにこそありけれ、あはれさらぬものと見しものを、それさて思ひかけられぬと眺め暮さる。

兼家のとだえは、何も自分に悪い所がある為ではない、あの人の本性からであらう、大体男といふものは雨風にも障らずやつて来てくれるものと、すベては甘い考へ方がもとになり、自分本位に考へ過して来たが、今日にして思へば、よかつた昔も油断がならないやうであつたからこれはやはり自分の望みがおほけなく分に過ぎてゐるからであらう、こんな事とは思はなかつたが、実にあてのならぬものだと、つくづく眺め暮されるのである。
 天禄二年、元旦には毎年見えてをつたからとて待つてをると、前追ふ声がしたが、ふと引き過ぎて了つた。二日の朝、縫物をとりがてら文をよこし、昨日はもう日が暮れてゐたからといふ。返事をするのもいやであつたが、「年の始めに腹立ちそめそ」といはれ、少し言ひくねつた文を書いた。三日は元日よりも一層ののしりながらやつて来るが、又ゆき過ぎるのであらうと思ひながら、流石に「胸はしり」した。召使のものは中門をおし開き、跪いてゐると、又引き過ぎて了つた。次の日は右大臣伊尹の邸で大饗があつて、今度は近いから見えるかもしれないとて、車の音がする毎に胸をどきどきさせて待つたが、空しく過ぎて了つた。其の後兼家はふと文をよこして、「心の怠りにはあれど、いと事繁き頃にてなん、夜さり物せんに、如何ならん、怖しさに」などいひ、つれなく見えて、からからと朗かに串戯をいふ。作者が腹を据ゑかねて、日頃の怨みをいふと、ねたるさまをして返事もしない。時々目をさました風で、「早やね給へる」といふ。
 去年の春呉竹を植ゑようと思ひ、或る人に株分を頼んでおいたところ、この頃になつて差上げようといふので、

  いさや、ありも遂ぐまじう思ひにたる世の中に、心なげなるわざをやし置かん、と言へばいと心狭き御事なり。行基菩薩は行く末の人の為にこそ、実なる庭木は植ゑ給ひてけれなど言ひて、掘らせたれば、あはれにありし所とて、見む人も見よかしと思ふに、涙こぼれて植ゑさす。

「あはれにありし所とて、見む人も見よかし」は、冒頭の「天下の、品高きやと問はんためしにも、せよかし」と同じく、限りなく寂しさの中から不定の相手を呼びかけて、そこに或る慰めとあきらめとを感じるのである。
 その後作者は長い精進を始め、かはらけに香を盛つて脇息の上におき、やがて脇息に押しかかりながら仏を念じた。

  唯極めて幸ひなかりける身なり。年頃をだに、世にゆるびなく、憂しと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ。疾く死なさせ給ひて、菩提かなへ給へとぞ、行ふままに涙ぞほろほろとこぼるる。

今はどうにも行きつまつて仏にすがるのである。さうして昔の不信仰が後悔されるのである。曽て、この頃の女はみんな珠数を手にし経を引き提げてゐると聞かされた時、尼になつたら丁度似合ふ顔、そんなものはきつと寡婦になると軽蔑してゐた心、今はどこに消え失せたであらうか、昔の自分の言葉を聞いてゐた人、今の自分を見てどんなにをかしいであらう、ああ世は実にはかないものだと涙に暮れるのである。

  廿日許り行ひたる夢に、我が頭を取りおろして額をわくと見る。悪しも善しもえ知らず。七八日ばかりありて、我が腹の中なる口縄、歩きて肝を食む、これを治せん様は、面に水なむ入るべきと見る。これも悪し善しも知らねど、かく記し置くやうは、かかる身の果てを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや、用ゐるまじやと定めよとなり。

随分と凄い気味の悪い夢であるが、まるきり懐疑的な態度である。かうまで夢を信じない人は平安朝には例が無いであらう。性格の強さの為であらうか、自棄の気持からであらうか。かくて六月、暫く身を去りなんとて、兼家の反対をおしきつて、鳴滝に籠つて了ふ。

  遥かなる道すがら、涙もこぼれ行く。供人三人ばかり添ひていく。先づ僧坊におりゐて見出だしたれば、前にませ給ひ渡して、まだ何とも知らぬ草ども繁き中に、牡丹草ども、いと情なげにて花散り果てて立てるを見るにも、散るがうへは時、といふことを返し覚えつついとをかし。

牡丹の花が既に散つてゐるのを見ても、何事も思ふままにならぬ我が身がよそへられ、名も知らぬ雑草の上に、はらはらと花片の散りかかつてゐるのも、無残なはかなさをまざまざと目の前に見るのである。
 大門の方をみると、火を二つ三つともして人の来るのが木の間から見える。兼家が迎へに来たのである。道綱が出て取次をすると、兼家は「車ながら立ちてある、御迎へになん参り来つるを、今日まで此の穢らひあればえ下りぬを、いづくにか車は寄すべき」といふ。穢れてゐるから下りることもできない、他が穢に触れぬやうにと、車の中でも坐らないで立つたままでゐるのである。かやうに兼家は厚意を示したが、作者は帰らうとはしない。「夜更け侍りぬらん。とく帰らせ給へ」と、邪険にいふのである。これは道綱の取次が悪いからだと兼家の機嫌が悪く、不本意のまま帰つて行くので、道綱は車の尻に乗つて送つて行つたが、間もなくもどつて来た。どうしたのかと母がきくと、お前は呼んだ時に来いといはれたと告げて、ししと泣くのである。翌日兼家の様子を伺はせに道綱を京にやり文も送る。昨日は夜も更けてをつたので、御帰りの道もおぼつかなく、何卒平かにと仏に祈つてをつたなど、流石にやさしい言葉を綴つたのである。

  五六日ふる程、六月さかりになりにたり。木蔭いと哀れなり。山蔭の暗がりたる所を見れば、蛍は驚くまで照らすめり。里にて昔物思ひ薄かりし時、二声と聞くとはなしに、と腹立たしかりし時鳥も打ちとけて鳴く。くひなは其処と思ふまで敲く。いといみじげさ勝る物思ひのすみかなり。

山寺の静けさに澄み入るには、余りに情が多いのである。それで時鳥も水鶏もうとましく腹立たしくなるのである。ただ情のあこがれる時に於てのみ、自然は美しくなごやかである。

  タ暮の入相の声、ひぐらしの音、めぐりの小寺の小さき鐘ども、我も我もと打ち叩きならし、前なる岡に神の社もあれば、法師ばら読経奉りなどする声を聞くにぞ、いとせん方なく物は覚ゆる。かく不浄なる程は夜昼のいとまもあれば、端の方に出でゐて眺むるを、此の幼き人、入りね入りねといふ。気色を見れば、物を深く思ひ入れさせじとなるべし。

父母が不和の時、子が如何に苦労することか、さうして子は弱い母をいたはるのである。誠にいぢらしい限りである。兼家は何とかして作者を下山させようとして、あれこれと手をつくしたが、作者はなかなか頑固であつた。兼家は再び迎ひに来て、二言三言いつたかと思ふと、そのあたりに散らかつてゐるものを取りかたづけて包み、袋に入れて車に入れさせ、無理に連れて帰らうとしたが、作者は容易に腰をあげようとしない。申の時に来て火ともす程になつた。兼家もしびれをきらして諦め、「よしよし我は出でなん、きんぢに任かす」といつて立ち出でたので、道綱はおろおろして「とくとく」と、母の手を取つて泣きぬばかりに哀訴した。これには否む由もなく、言ひ甲斐なしとは思ひながら寺を出た。我にもあらぬ心地で、道すがら兼家は「打ちも笑ひぬべき事ども」を口数多くいふが、作者は夢路を辿る思ひであつた。家に帰つてからも兼家は何とかして作者を笑はせようとするが、作者は「つゆばかりも笑ふ気色」を見せなかつた。(以上、中巻)

校訂者注)「「夜更け侍りぬらん。とく帰らせ給へ」」、底本は「「夜更け侍りぬらん」とく帰らせ給へ」」。誤植と見て訂正。

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