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天禄三年、兼家は四十四歳、道綱は十八歳、作者も老い過ぎた心地で、甲斐なき独り言も出ないやうになつた。正月廿五日の司召に兼家は大納言になつたが、作者は別に嬉しいとも思はない。道綱はロには出して言はないが、心中ではうれしく思つた。
さながら八月になりぬ。朔の日雨降り暮す。時雨だちたるに、未の時ばかりに晴れて、くつくつぼうし、いとかしがましきまで鳴くを聞くにも、我だに物はと言はる。如何なるにかあらん、怪しうも心細う涙浮かぶ日なり。たたん月に死ぬべしといふさとしもしたれば、此の月にやとも思ふ。
曽てのやうに、悔しさ、腹立たしさはなく、嵐の後の静けさで、気抜けしたやうに一点を見つめて涙を垂れ、段々と終末の気持といつたやうなものに近づくのである。
物もいはれねば、などか物もいはぬとあり。何事をかはといらへたれば、などか来ぬ、訪はぬ、憎し、あらかしとて、打ちもつみもし給へかしと言ひつづけらるれば、聞こゆべき限りの給ふめれば、何かはとて止みぬ。
超越的な態度でだまりこくつてゐる。兼家はそれが不思議な変りやうに見えるのである。
我は春の夜の常、秋のつれづれ、いと哀れ深き眺めをするよりは、残らん人の思ひ出にも見よとて絵をぞかく。さるうちにも今や今日やと待たるる命、やうやう月たちて日もゆけば、さればよ、よも死なじものを、幸ひある人こそ命はつづむれと思ふに、うべもなく九月もたちぬ。
寂しさをこめて絵をかくのである。然も死を待つ用意がこめられてゐるのである。この作者が琴を弾いたことは既に記したが、総じて此の作者は芸事に心を寄せてゐるやうではない。
天延元年、兼家が来ても、老いて恥しと思ひ屈し、身なりはいたくしをたれ、鏡に向ふ姿は憎げである。これでは愛想をつかされるのも無理はないと思ふ。天延二年二月の頃にや、作者は或る山寺に物詣をして、早春の山道を面白く叙景してゐる。
何ばかり深くもあらずと言ふべき所なり。野焼きなどする頃の、花は怪しうおそき頃なればをかしかるべき道なれどまだし。いと奥山は鳥の声もせぬものなりければ、鶯だに音せず。水のみぞ珍らかなるさまにわきかへり流れたる。いみじう苦しきままに、かからである人もありかし、憂き身一つをもて煩ふにこそはあめれと思ふ思ふ、入相つぐる程にぞいたりあひたる。
憂き身一つを扱ひかねながらも、段々と客観の中にはいつて行くやうである。
作者はかねて養女をしてゐたが、この年右馬頭なる人がその養女に求婚してきた。日記にはその次第を委しく記し、七月の所に「見る人は猶うら若くて、如何ならんと思ふ事しげきにまぎれて、我が思ふ事は今は絶えはてにけり」と記してゐる。養女はまだうら若くて、右馬頭の求婚をどうしたものだらうと思ふ心遣ひの繁きにまぎれて、我が身の物思ひはすつかりなくなつたといふのである。丁度その頃右馬頭の身持ちがよくないといふ話を聞き、ことわるによき理由であると思つて安心した。八月疱瘡が流行して道綱が煩ひ、既に「こと絶えたる」兼家ではあるが、その由を告げてやると、返事の言葉は「いとあららか」であつたので、作者は心外に思つた。九月朔日漸く道綱は癒えたが、前少将挙賢、弟の後少将義孝は九月十六日朝夕の間に身まかつた。之を聞くにも道綱の場合も危険なことであつたと恐しう思ふ。臨時の祭に、俄かに道綱が舞人に召され、兼家からも珍しく文があつて、装束など皆してよこした。祭の日はいかでか見ざらんとて物見に出ると、兼家の車には四位五位のものが沢山とりまいてきらきらしう、作者に対しても上達部が大納言兼家の思ひ人であるといふので手毎に果物など差出し、父の倫寧も特別に盃をさされ、その時ばかりは作者も満足に思うたのである。正月の朔日、白馬に道綱の着る装束をしたためながら年の果てになつたとあつて、日記の全部が終る。(本文は喜多義勇氏著、蜻蛉日記講義による)
三 批評
以上見来つたやうに、此の日記は感情の昂揚の激しいことが特色である。其の最も著しい感情は「悲し」「哀れ」「心細し」などで、いつも涙もろいのである。よよと泣き、ほろほろと涙を流し、又さくりあげて泣くのである。既に引用した文で、涙とか泣くとかいふ文字の無いのは殆んどない。それほど此の作者は涙にぬれてゐる。さうして感極まれば物もいはれないやうになる。かういふ感情は和泉式部のそれとよく似てゐるが、式部のは静かな流れであるのに対しこれは激流のやうにわきたぎり、作者の胸はつぶれ、さけ、はしり、ふたがり、こがれ、いたむのである。又その反面には心が平静になつて此の上もなく寂しさを味はひ、堪へられなくなるのである。時たま物詣に出て自然の風景に触れるとすつかり解放されて、悩ましい日頃の感情は客観物をおし包み、山川草木禽獣が目にしみるやうな刺激を与へるのである。一言にしていへば此の日記の作者の生活は苦悩の二字につきるので、遺憾なく個性を苦悩したといふことにならう。
最後に日本精神史の発展の上から、作者の位置を考へて見よう。先づ此の時代の物語として宇津保をとつて見るに、中に出てくる人物は実にのびのびと、思ふままに振舞ひ、苦しみ、悩み、つつしみといふ側の批判的な精神をもつものは極めて稀である。大部分は自由奔放、度を越え極端に走つてゐる。かういふ生活態度が生活内容を豊富にし、感情の発達を促した点は著しいが、粗野・無秩序・散漫たる事を免れない。かういふ膨張した文化は是非とも批判を加へて引き緊めなければならぬ。又此の時代の歌集として後撰をとつて見ても、集の全面に漂ふ感情は自由豊満の四字につき、宇津保物語と同様な生活態度が示されてをり、其の代表的歌人は兼輔・実頼・師輔などであるが、師輔の子である兼家がかういふ文芸思潮の背景のもとに成長したことは想像に難くない。かう考へてくると、此の作者の嘗めた苦悩は、やがて批判さるべき此の時代の文芸思潮が、夫婦の関係に於て批判された為の精神葛藤であつたと見られ、此の日記の作者は個性を苦悩すると共に、時代をも苦悩したものといへるのである。
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