四 和泉式部日記
一 哀れにして儚し
長保四年六月式部が御寵愛を受けてゐた弾正宮為尊親王が薨去せられ、式部は「夢よりもはかなき世の中」を、嘆きつつ明かし暮す内に、いつしか年を越えて五年四月の十日余り、再び帥宮敦道親王の御寵愛を受ける事となつた。弾正宮の御同母弟にあたらせられ、歌の道にすぐれて美しき御方におはした。日記は帥宮の御文を頂いた事から書き始められ、度々宮が式部の家においでになり、又屡々式部を御車に乗せてお邸におつれになつたが、遂に十二月十八日お邸に引きとられた。その間式部は宮の御寵愛の「懇ろにかたじけなき」をうれしう感じ、雨風につけて折過ごし給はぬやさしい御心づかひを有難く感じたのであるが、式部にいひよる仇し男もあつて、ひたすら宮の御懐にとけ入らうとする式部の純情を傷つけ、或はその為に中傷的な噂も立つて式部を苦しめた。式部の生活は心細くつれづれで、このまま朽ち果てて尼になつて終るには余りに浮世の執着が多く、又「しばし生きて侍らばや」と思ふと罪深く感じられ、唯宮の御寵愛に任せてお邸にひきとられたが、何となく北の方に相すまないといふ感じで一杯であつた上、お邸の女房などもとかく目をそばだてて憎むので心苦しく、「しばしまかでばや」と思ひながら、唯「ともかくも知らで、もてなさせおはしまさむままに随ひて」とて侍らうてゐた。北の方も又人げなく人笑はれに恥しう思召し、心づきなう物むつかしげに思召し、御姉の東宮の女御からの御すすめもあつたので、里にまかでられたのである。式部の一生からすれば日記に記されてゐる十箇月の生活は、波瀾多き式部の生活の一齣に過ぎないが、又一面には一生の内でも特に生き甲斐のあつた時機と考へられる。
この日記は一に和泉式部物語とも称せられる。これは世の普通の日記と異り三人称をもつてかかれてゐるからである。式部は自らを「女」とかき、又自らの文の文句を記した後に「とあり」と記してゐるが、猶、宮の御方に起つた出来事をも数々記してゐるが、推量を用ゐないで三人称を用ひ、客観的事実として記してゐる。それでは物語としての形態を備へてゐるかといへば、事件の変化、人物の個性、心理の変化、家庭生活、社会事件、思想趣味など、物語として必要なものの描写は、極めてほのかで鮮明でなく、そこに深く感じられるものはやはり気分に過ぎない。のみならず、四月十日、四月晦日、五月六日、七月七日、七月晦日、八月晦日、九月十余日、九月晦日、十月十余日、十一月朔日、十二月十八日と日附を掲げ、自己の身辺を綿々と書き記してゐる点から見れば猶日記とすべきである。されば歌集と物語との中間物として伊勢・大和があるが如く、日記と物語との中間物として此の日記があると理解すベきであらう。
九月十日(イ廿日)余り、有明の月に宮は御目さまして式部を訪れ給ひ、門をお叩かせになつたが、傍の女房がいぎたなくて門を開けるのが後れたので、宮は空しくお帰りになつた。式部はそのまま起きていみじう霧の深い空をながめながら、暁起きの叙景的な感想をはかなきものに書きつけてゐると、宮から御文があつたので、その手習のやうに書いたものをそのまま御返事として奉つた。その詞は、
風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きみだる、常よりも物あはれに覚ゆる。ことごとしうかき曇るものから、ただけしきばかり雨うち降るは、せむ方なくあはれに覚えて、
秋のうちに朽ちはてぬべしことわりの時雨に誰が袖をからまし
と嘆かしう思へど知る人もなし。草木の色さへ見しままにもあらずなりもてゆく、しぐれむ程の久しさもまだきに覚ゆるに、風に心苦しげにうち靡きたるには、ただ今も消えぬべき露の我が身ぞあやしう、草葉につけて悲しきままに、奥にも入らでやがで端に臥したれば、つゆ眠るべくもあらず。人の皆うちとけて寝たるに、その事と思ひわくべくもあらねば、つくづくと眼をのみさまして、何心なう恨めしうのみ思ひ臥したるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる、人はかうしも思はずやあらむ、いみじう堪へがたき心地して、
まどろまであはれ幾夜になりぬらむただかりがねを聞くわざにして
かくてのみ明かさむよりはとて、妻戸押しあけたれば、大空に西にかたぶきたる、月の影遠く澄みわたりて見ゆるに、霧りわたりたる空のけしき、鐘の音、鳥の声ひとつに響きあひて、更に過ぎにし方、今行末の事もかかる折はあらじと、袖の色さへあはれにめづらかなり。(下略)
この文は式部の生活感情をよく現してゐると共に、日記全体の気分も構成もこれによつて代表されるであらう。先づ此の文に著しい感情は「あはれ」「物あはれ」といふ切ない感動で、此の短い文章の内に「あはれ」の語は四回も繰返し用ゐられてゐる。文の終の方で、霧りわたりたる空のけしき、遠く澄み渡りたる月影、ひとつに響きあひたる鐘の音、鳥の声云々といふあたりは、曽て筆者の論じた所の「とりあつめたるあはれ」であり、それは即ち「物のあはれ」である。それで此の文は心の内に籠つてゐる「物あはれ」の情が外に動き、客観に触れて「物のあはれ」の感動にまで発展して行つた、暁の一時の心境を記したものといへよう。式部に於ける「あはれ」は感傷的なものか、浪漫的なものかといへば、前者であるといひたい。何となれば、式部の「あはれ」はその底に「はかなし」が裏付けをしてゐるからである。此の文には「はかなし」といふ語は一つも使つてゐないが、日記全体からみると、冒頭に「夢よりもはかなき世の中」とあるのを始め、七月晦日の條にも「あはれにはかなく頼む人もあらず、かやうのはかなしごとにて世の中を慰めてあるも、うち思へばあさましう」とあるが如く、式部の人生観は誠にはかないものと観じられてゐる。この「はかなし」といふ生活感情がどこからくるかといへば、この文に「ただ今も消えぬべき露の我が身ぞあやしう」とあるやうな、しみじみとした無常観が其の根柢にあるからである。更にかういふ感傷的な無常観はどこから出て来たかといへば、感受性の鋭い式部が、刹那の今の気分の内に価値のあるものを攫まうとし、然もすべてが価値の低くてはかないものに映る結果であると考へられる。概して平安朝の女流作家は思想的な放浪者で、そのゆゑに深い美を経験したのではある。式部のかういふ感傷は周囲のものから理解されない、自分の気分が周囲のものによつて絶縁されてゐることを考へると、一層その感傷のはかない程度を増し、この文にもあるやうに「堪ヘ難い心地」に追ひやられ、又四月の記事に「慰めずば堪へむやは、露を」とあるが如く、鋭く細く興奮して了ふのである。かういふ感傷は清少納言も紫式部も決して経験しない所で、「あはれにしてはかないもの」を徹底的に味はつたのは和泉式部一人であるといへよう。
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