五 紫式部日記
一 公私の日記
此の日記は紫式部が中宮にお仕へしてゐた時の奉仕日記で、記事内容は寛弘五年(一六六八)六年七年の三年にわたつてゐるが、寛弘六年七年の記事は極めて僅かで、大部分の記事は寛弘五年で占められてゐる。その寛弘五年の記事も一年中の事がくはしく記されてゐるわけではなく、中宮御産の御事が中心となつてゐるから、恐らく此の日記執筆の動機は中宮の御産に奉仕した感激であつたと考へられる。冒頭はあの名文とされてゐる「秋のけはひたつままに、土御門どののありさま云々」から始まり、中宮には御前近うさぶらふ人々が、はかなき物語するのを聞召しつつ、悩ましうおはしますであらうと拝せられるのに、さりげなくもて隠しておいでになる、その御有様の忝く勿体ない事、御加持御祈祷のおどろおどろしく、よりましに駆りうつされた御物の怪のねたみののしる声のむくつけき事、女房たちはさりともと思ひながら、いみじう悲しくて目も腫れたる顔を殿上人に見られるが、かかる場合なれば自ら恥も忘れてゐるといふ事、九月十日御しつらひが変り、御簾も御几帳もすべて白いものを御用ひになり、九月十一日中宮には御髪おろして御戒を受けさせ給うたが、その時のあさましく悲しかつた事、愈々御産も平かにせさせ給ひ、剰ヘ男御子にさへおはします嬉しさ類ひなく、昨日まではしをれ暮してゐたが、今日は朝日のさし出でた心地がするといふ事など、或は印象的に或は場面的に、何れも感激をこめて記し奉つてゐる。
それから御湯殿の御儀式、日々の御産養、行幸、御五十日、中宮の御入内の御事など、光り輝く御有様を記し奉り、下々まで歓びにあふれてゐる様をも書き現し、それから五節や臨時祭の使の事を記し、晦日の夜靫負・小兵部の二人の女房が引剥の為に衣服を剥がれた事など記して寛弘五年を終つてゐる。寛弘六年は正月の御戴餅の御事、十一日御堂にわたらせ給ふ御事を記し奉り、寛弘七年は正月の御戴餅、宮の大饗、二の宮の御五十日の御事を記し奉つてゐる。寛弘六年七年の記事は初めからこれだけであつたのか、それとも後に散佚したのか、其の点は明かでない。
以上の如く此の日記は公的日記としての性質をもち、それが本来の姿であるが、又半面には私的日記としての性質をも併せ有し、自己の心境、他から見られた自己の姿、女房としての生活態度、憂世の住みにくさ等を始め、中宮の女房や女流作家に対する批評などを記してゐる。この公的日記の部分と私的日記の部分とは、現存本に於て無秩序におかれてゐるので、錯簡だらうとか、消息文の混入であらうとか、諸種の説があつて、最近の新しい研究も数々あるが、ここではさういふ問題には触れないで、公的記事と私的記事とが、文学として如何なる調和を保つてゐるかを考へて見よう。先づ自己の心境を記した部分は、後述するが如く人生の寂寥感を訴へたもので、さういふ内面のさびしさの故に、宮仕してをりながら花やかに浮き立つことができないと式部は苦悶してゐるが、作品の上から見ると、此の寂寥感は公的日記の花々しさと明暗の調和をなしてゐる事は、宛も源氏物語が花やかなものと寂しいものとから成つてゐるのと全く同一の関係をなしてゐる。次に女房としての生活態度は、これも後述するが如く、つつましくする事と情なからずする事との二つの原理の上から理想的なものを示さうとしてゐるが、公的記事に於て奉仕の女房の容態もてなしを描写する場合、やはり此の理想に照らしながら描写し批判してゐるやうに見えるから、此の方面に於ても公的記事と私的記事とが密接に結びつくのである。次に女性に対する批評は宰相の君以下中宮の女房十人(実は大納言の君と宣旨の君とを加へて十二人)をとつてそれぞれ批評を加へ、又斎院の中将の高慢な態度から書き起して斎院の女房と中宮女房との態度を比較し、又女流作家として和泉式部・匤衡衛門・清少納言の三人を批評してゐる。かうして批評を加へられた女性の何人かは奉仕者として登場し、その容貌・態度・服装など一々記されてゐる。此の関係は丁度源氏物語の雨夜の品定めに於て論ぜられたやうな型の女性が、必ず物語の進行するに従つて実際に登場してくる趣と其の軌を等しうしてゐる。紫式部は女性に対してのみならず男性に対しても、その心ばヘや態度を批評してゐる。世の人は三位の頼通を軽蔑してゐるが、実際はしめじめとして恥かしげに見えるとか、右大臣の顕光が年甲斐もなく酒に酔うてはしたなく振舞うて笑はれたとか、右大将の実資は無風流に見えるがざれ今めく人よりはましであるとか、其の例である。かやうに式部が男や女の生活態度に対して批判を加へ、理想的なものを規定してゐるのは、確かに一つの文明批評であるから、日記全体の理解もこの観点からなされねばならぬであらう。
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