二 浪漫的な時代
日記は、作者が父の任地上総にあつて、継母や姉から世の中には物語といふものがあるといふ話を聞き、何卒してその物語を読みたいと思ひ立ち、それにはどうしても京に帰らねばならぬので、秘かに薬師仏を造り、一日も早く父の任期が満ちて京に帰れるやうにと祈つたといふことから書き始められてゐる。幸にも彼の女の念願はかなひ、寛仁四年九月父の任期が満ちて京に上ることとなつた。
年頃遊び馴れつる所を、あらはに毀ち散らして、立ち騒ぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨て奉る悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
それから東海道を旅するのであるが、作者の乳母は道にて子を生み、穢れたといふので一行とは別に旅をした。作者は之を見舞つてやりたく思ひ、兄(定義)に抱かれて行つた。苫といふものを一重ふいただけの旅寝であるので、
月残りなくさし入りたるに、紅の衣、上に着て、うち悩みて臥したる、月影さやうの人にはこよなくすきて、いと白く清げにて、めづらしと思ひてかき撫でつつ、うち泣くを、いと哀れに見すてがたく思へど、急ぎ率ていかるる心地、いとあかずわりなし、面影におぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。
足柄山の麓にやどりたるに、月もなく暗き夜であつたが、遊女三人いづくよりともなくいで来て、歌をうたつて旅情を慰め、又さばかり恐しげなる山中に立ちてゆくのを見て、人々あかず思ひて皆泣いたが、作者は、
幼き心地には、まして此の宿りを立たむ事さへ、あかずおぼゆ。
逢坂の関近くなりて、山づらに、仮そめのきりかけといふものをした上から、丈六の仏の、いまだ荒造におはするのが、顔ばかり見やられたので、
哀れに人離れて、いづこともなくておはする仏かなと、打ち見やりてすぎぬ。
継母はもと宮仕へしてゐたのが後妻となつて任地に下つたのであるから、一地方官の妻として止まるには余りに花やかで、世の中を恨めしげに思ひ、京に上つたのを機会に離別することとなり、作者にわかれを告げて、
あはれなりつる心のほどなむ、忘れむ世あるまじきなどいひて、梅の木のつま近くて、いと大きなるを、これが花の咲かむ折は来むよといひおきてわたりぬるを、心の内に恋しく哀れなりと思ひつつ、忍び音をのみ泣きて、その年もかへりぬ。
治安元年疫病が流行し、頼みに思ふ乳母は三月朔日なくなり、いみじう悲しく物語のゆかしさも覚えなかつた。又きけば侍従大納言行成の姫君もなくなつたが、作者はこの姫君の手跡を手本として手習をしてゐたので、追慕の情もふかい。かたがた思ひ屈してゐるのを見て実母は心苦がり、聊かでも作者の心を慰めようとして物語をもとめて見せたが、なるほど心が慰められ続きの巻を見たく思ひ、母が太秦にお籠りをした時にも、作者が母に頼んで仏に祈つて貰つたことは、外の事ではなくて、ただ物語を手に入れたいといふことであつた。丁度そのころ田舎から上つてきた伯母を尋ねると、かねての希望の源氏物語五十余巻その他を作者に与へた。作者の喜びは譬へやうもなく、一の巻から、人も交へず、几帳の内に打ち臥して読み、昼はひぐらし、夜は目のさめたる限り、火を近くともして、之を耽読するより外はなく、物語中の人名などが空に浮ぶほどであつた。処が夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるがあらはれて、法華経五の巻提婆達多品を習へ、女人は罪深いものであるが、此の経の功徳によつて成仏する事ができようといふ主旨のことをいつたが、その夢を人にも語らず又習はうとせず、ただ物語の事のみ心にしめて、今はまだ美しくもないが、やがて女盛りにならば、容貌もよくなり髪も長くなつて、丁度あの光源氏の夕顔、さては宇治の大将の浮舟のやうな、しみじみとした物語の世界が我が身に展開するであらうと、空想の胸をとどろかしてゐたが、今から考へてみると実にはかなくあさましかつた事であると、晩年の気持からは反省するのである。又ある夜の夢には「天照御神を念じませ」と人にいはれると見たのに、そのまま過ぎて了つたが、晩年の気持から考へると、我身ながらいふがひないことであつたと後悔されるのである。
治安二年七月十三日、作者はもう十五歳になつてゐたが、月いみじう隈なくあかく、姉と二人縁に出て空をつくづくと眺めてゐると、姉が突然「ただ今ゆくへなく飛び失せなば、いかが思ふべき」と問ひかけたので、作者は空恐しい予感に戦いた。姉は悪いことをしたと思つて、何でもないといひなして笑つてすませたが、とかく作者の心は傷つき易かつたのである。翌年四月夜中ばかりに火の事があつて家が焼け、五月朔日には姉が子を生んで身まかつた。幼い時からいみじく哀れに暮してきただけに哀れに悲しきこと限りなく、
母などは皆なくなりたる方にあるに、形見にとまりたる幼き人々を、左右に臥せたるに、荒れたる板屋の、ひまより月の洩り来て、ちごの顔にあたりたるが、いとゆゆしく覚ゆれば、袖を打ちおほひて、今一人をもかきよせて、思ふぞいみじきや。
万寿元年正月、司召に父は任官すべきやうに見えたが、選にもれて一家失望し、作者もそこはかとなきことを思ひつづくることを役にして日を過ごし、物詣を僅かにしても、世間並の人の幸福を願ふやうな気にもなれず、この頃の世の人は十七八から経をよみ、行ひもする、自分も万寿二年は十八の春を迎へるが、さやうなことをしようとは思ひかけられず、僅かに思ふ処は、やはり物語の世界が我が身に実現せんことで、
いみじくやむごとなく、かたち有様、物語にある光る源氏などのやうにおはせむ人を、年に一たびにても通はし奉りて、浮舟の女君のやうに、山里に隠しすゑられて、花、紅葉、月、雪を眺めて、いと心細げにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめとばかり思ひつづけ、あらましごとにもおぼえけり。
長元五年二月、父は再び常陸介に任じたが、この度は妻子を京に止めて単身赴任することとし、これが今生の別れになるかもしれぬと嘆き悲しむので、作者は心細くなつて、花紅葉の思ひも皆忘れ、七月十三日門出したが、かねて別れを惜しむは、却つて悲みを加へるのみと考へたので、父母の室にも入らず、当日となつて、今はとて簾をひきあげて打ち見た時は、涙がほろほろと出て、やがて出で立つのを見送る時の心地、目もくれまどひ、その後は家の内もひつそりとして心細く、あけくれ東山の空を眺めて、今頃はいづこばかりであらうと思ひやり過した。かうして徒然と眺め暮すよりは物詣をした方がよいと、多少宗教的な気持にもなつたが、母が古代の人にてどこにも連れて行つてくれない。誠に物はかなき心であつたが、人から常に天照御神を念じ申せといはれ、伊勢の国までは思ひ立ち難いし、内侍所にもまゐり拝み奉ることができないから、空の光を念じ申すべきであると考へるに至つた。
長元九年秋、父は任期が満ちて京に帰つてきたが、老い衰へて世に出で交らふのは、をこがましいものだから、我はこのまま隠居するといひ、憂世には未練も執着もないさまなので、作者は心細さに堪へない。母は尼になりて、同じ家ながら異方に住み、父は作者を「おとなにしすゑ」て、自分は世にも出で交はらず、蔭に隠れたやうなさまなので、作者は頼もしげなく、心細い限りにて、年既に二十九になつたとはいへ、かうして一家の責任を身に負ふやうになつて、少女時代のやうに夢を追ふわけにも行かず、次第に現実的な考へ方になつてくるのである。あけて長暦元年関白頼通の御女嫄子入内せられて女御となられ、やがて中宮に立たせ給うたが、作者は召されて始めて宮仕に出で立つた。
上には時々、夜々ものぼりて、知らぬ人の中にうち臥して、つゆまどろまれず、恥しう物のつつましきままに、忍びてうち泣かれつつ、暁には夜深くおりて、日ぐらし、父の老い衰へて、われを子としも、頼もしからん蔭のやうに、思ひ頼み向ひゐたるに、恋しく覚束なくのみ覚ゆ。母なくなりにし姪どもも、生れしより一つにて、よるは左右に臥しおきするも哀れに思ひ出でられなどして、心も空に眺めくらさる。
偶々里にまかでると、父母は炭櫃に火などおこして待ち迎へ、車からおり立つのを見て、おはする時こそ人目も見え、さぶらひなどもありけれ、この日頃は人声もせず、前に人影も見えず、いと心細く佗しかりつる。かうてのみも、まろが身をばいかがせむとかする。
といひながら、打ち泣くのを見ると実に悲しくなり、翌朝は、今日はかくておはすれば、内外に人が多く、こよなく賑はしくなつたといつて喜ぶ、かうして作者は身近い現実の中にしみじみとしたものを見出し、涙ぐましい気持になるのである。
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