七 成尋阿闍梨母日記

 此の日記は延久年中、成尋阿闍梨が「唐に五台山といふ所に、文珠のおはしましけるあとのゆかしく拝ままほしく」思つて入宋し、後に残つた母が年八十を過ぎて我が子に別れた悲嘆を縷々と記したものである。母は夫に死にわかれた後は、二人の子供をたよりに世をすごしてゐたが、二人とも出家して、兄は律師、弟は阿闍梨となつたのである。上下二巻にわかれ、上巻は治暦三年十月から延久三年三月に及び、下巻は再び延久三年正月に立ち返つて筆をとり、飛んで四月の事から記して上巻につづけ、やがて延久五年五月に及んでゐる。両巻はその文勢が異るから、その執筆は一定の時を隔ててゐるのではないかと想像される。延久三年正月の記事が両巻に繰返されてゐるのは、正月晦日阿闍梨の門出に先立ち、母は阿闍梨の石倉を出て律師の仁和寺にうつつたのであるが、折ふし仁和寺では梅の花がいみじう咲いてをつて、この日は母にとつて感銘が特に深かつたからである。
 この日記の内容は、下巻の終の方に「同じ事を、うち返しうち返し嘆き侍る」とあるやうに、母の子を思ふ情、阿闍梨の入宋を恨めしく思ひ、長命をうとましく思ふ事、早く死んで極楽に行き度いと願ふ事、泣いて入宋を思ひとまらせる事ができなかつたといふ後悔、老衰を嘆き、目もきりふたがつて悲しいといふ事、よろづに物のあはれを感ずるといふ事などを、繰返し繰返し述べたものである。別に名文型の文章でもなければ、更級日記のやうに精神生活の発展が指摘されるといふわけでもないが、八十を過ぎた高齢者の手になる文章であること、老の繰言も交へてゐるが母性愛が強く現れてゐる点、弥陀の信仰で一貫してゐる事などを以て特色とすべきである。又、日宋交通を反映してゐる点は、何等かの資料的価値をもつであらう。
 此の日記の精神内容は比較的単純なものであるが、繰返し繰返し何度も同じことを書いてゐる為に、深い心情が現れてゐるやうである。随つてこの日記に現れてゐる年老いた母の心情を、理づめの方法で把握することは困難であるから、やむなく梗概の形をとり、文章も原文の面影を伝へるやうに工夫し、幾らかでも作品の実感を示さうと思ふ。上巻は、

  はかなくて、過ぎ侍りにける年月の事どもをかしうも、あやしきも数しらずつもり侍りにけれど、それを記しおきて、人の見るべき事にも侍らぬを、年八十になりて、世にたぐひなきことの侍れば、心ひとつに見侍るかたはし、書きつけて見侍らまほしうて。子は二人ぞ、律師、阿闍梨にて、心ばへよりはじめ、めでたく、たぐひあらじと覚えて物し給ふ。

といふ風に書き記し、治暦三年十月、後冷泉天皇宇治の平等院に行幸あらせられた御事、四年四月天皇崩御あらせられた御事などを記し奉つてゐる。それから二年ばかりありて、阿闍梨は入宋の志を告げ、若し命あらば帰り来ん、失せなば極楽で必ず相見んといふので、母はものもいはれず、浅ましう胸ふたがりていらへもせられず、涙もとどまらずむせかへるのである。この事仁和寺の律師のもとに告げやると、律師もおはして、思ひたつた事であるから、止めやうもないといひ、予め母を仁和寺の方へ迎へとることにした。母はこれが最後かと思ふので、せめて阿闍梨の「顔をだに見むと思へど、涙にきりわたりて、息のある限り泣かまほしけれど、年頃、ものも高くいひて聞かせぬ僧どもの並みゐたる折しも、悲しきことといひながら、今更にさまあしき声もきかせじ、ただ我失せて別れねるなり。阿弥陀仏に、救ひ給へと念じ」ながら、車にかき乗せられた時の心地、ただ「おしはかるべし」と訴へてゐる。
 やがて阿闍梨は門出したと聞き、母は「いみじげに泣き妨けずなりにし」事を悔しく思ひ、唯「とく死なせ給へ」と、仏のみ念じ奉る程に、律師おはして、向ひゐ給へる程ぞ、少し慰む心地がするのである。暫くして阿闍梨は備前から文をよこした。急ぎ見れば「今日なむ筑紫の舟に乗りぬる」とあつた。「日ごろ風の音も荒らかにすれば、いかがとのみ耳立てて聞かれつるに、無下に遠ざかりておはしぬるにこそ」と、珍しげなき涙がこぼれまさるのである。嘆きくらしたる夕暮、常よりも面影に浮ぶので、阿闍梨のおはしたる心地して、

  恋ひわたるタ暮がたの面影をたそがれ時といふにやあるらん

 母の愛といふものがいかに苦しいものか、一度阿闍梨に話したかつたが、出立のころは心地いとあしう、息苦しうて物もいひにくかつたので話さなかつた。又わが命の余り久しうありて阿闍梨の念願を妨げるやうに思はれたくないので遠慮もし、又年頃は、やがて絶え入らん折は律師と阿闍梨にとりまかれ、その唱へてくれる尊きことや念仏を聞き入りながら大往生を遂げたいと思うてゐるのに、ことの違ふのも前世の因縁で、どうせかく末が悪いのだから何事も我慢すべきであると考へ、遂にいはなかつたが、せめて心の内を書きおいて、若し帰りおはしたら、母がかく思ひけるとも見給へかしとて、母の愛の父に異ることや、阿闍梨の幼時のことなど記してゐるが、恐らくこの部分は日記中での大文字であらう。

  高きも賎しきも、母の子を思ふ心ざしは、父には異なるものななり。腹の内にて身の苦しう、起き臥しも安うせねど、我が身よくあらんと覚えず。これを見る目より始めて、人よりよくてあれかしと思ひ念じて、生まるる折の苦しさも、物やは覚ゆる。生まれ出でたるを見るより、人の之を憐れび思はずば、物になるべき人の様やはしたる。その中にもはかなかりけるにか、この闍梨のいみじう悲しかりしかば、わが心の苦しきもしらず、之をまつ、人にもわれも扱ふ程に人に抱かすれば泣き、われ抱けば泣きやみ給ふを、暫しも泣かせじと覚えつつ試みれど、猶ほかにては泣く。わがもとにては泣かず。おましなどに臥すれば泣くに、夜もうしろめたくて膝に臥せて、高杯を灯台にして、膝の前にともして、障子にせなかをあてて、百日までぞ乳母にはあづけ侍りし。

 昔、釈迦は花園に遊び、四門に出でて生老病死の四苦を見て出家したのであるが、我が子は母の身に老病の二苦あるを見ながら入宋して了つた。日を延べてもよかつたのにと愚痴も出るが、之を怨みに思うてはかの人の為に悪いと思へば、身も苦しうて、とく死なましと思ふより外の事はないのである。(以上、上巻)

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