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延久三年、四月五日をすぎて母はわらはやみを煩ひ、一旦怠るやうであつたが七月再発し、八月になれば風も涼しうなり、いと物哀れになりまさるのである。道芝の露の日影を待つよりもはかないわが身を嘆き、ただ片時ばかりの命であるに、憂き世を嘆かでもえあらでと、人しれず思ふのである。萩の葉のそよと音する方を見やれば、いと心よげにて物思ひ知るやうな様もなくて靡いてゐるが、これにかかれるささがには心細い。何の虫ともわかぬが草むらに思ひ思ひの声を立ててゐる。折ふしのあはれに心細いにつけても、心を痛め過ごすにつけても、阿闍梨のかく世にたぐひなき心が恨めしう、余りに命の長きも罪深う、今は、たとへ無事に帰りおはしてもそれまで世に生きて侍らじ、今日にても失せぬべしと、哀れにつきせぬ涙こぼれ落ちて目さへ見えない。「などて、ただいみじき声を出して、泣き迷ひても、ひかへとどめ聞えずなりにけん」と、それのみ悔しう、心うかりし別れを、夢と思ふにも、阿闍梨の無事に帰りきましていつかうつつの嬉しきを見んなど思ひ慰めるのである。昔のことを思ひいづれば、父もなくなつた二人の公達を、ゆかりのある人々の、「我知らん」(自分が世話をしよう)など、さまさまの給うたが法師になしてんと、思ひ定めたのである。又思へば我が身は三十に余りし時より、はかなく弱々しげにて、夜などは、寝入つてそのまま終るのではないかとも思はれたので、余りうちとけて他処にも行かず、暑い時にも、必ずひとへなど身にまとひ、まさかの時の恥なきやうにと心遣ひせられた程であつたのに、かく長命して今は月日のすぎゆくをいとふ身となつた。八月十五日夜、月いみじうあかきに、仏の御光おもひやられ、九月の菊、十月の時雨を見聞くに、いと物のみあはれに覚えてすぐすに、阿闍梨は母の「今一度来て見よ」とありし文の悲しうて、十月十三日火ともすほどに、京に帰りきて母を慰めた。母は「夢かとのみ」うれしきものから、明日は再び京を立ちて備中に下り、庭瀬に近き「にひやま」といふ所は「昔人の行ひて、極楽に必ず参りたる所」なれば、そこに百日ばかり行ひ、其の間に内に宣旨を乞ひ奉り、賜はば本意のやうに唐に渡らん、賜はずば渡宋を思ひとまらんといふ。いかで「鳥などの、人を見て飛び立ちぬけしきはし給へる」と怨めしく、なほ「この度は率ておはして、唐に渡り給はんをりに返らん」といへば、阿闍梨は打ち笑うて「修行者、親なりとも、いかが具し聞えん」といふ。帰りおはして驚かし給へるは嬉しきものから、却つて悲しく、出で立ちしあとも面影に覚えて、嘆きわぶのである。
明くれば延久四年、二月十四日の文、安芸より来り、渡宋の便船を待つてゐるとあるので、今度は愈々渡りなんと思ひ、いふべき方なき心地のみして、ただ阿弥陀仏ばかりは頼みまゐらすれど、いらへせさせ給はねば心もとなくわびしい。三月晦日になつて、雨いとおどろおどろしう、天もかきくもれば、阿闍梨は只今船にやおはすらんと西の空を眺め、障りなかれと仏をのみぞ念じ暮されるのである。日数もはかなく過ぎて、今は既に宋に渡つてゐるだらうと思ひ、類ひなき身の宿世をおしはかるにつけても、昔十五ばかりなりしほどに、三河の入道といふ人唐土にわたりしに、「いかなる人ぞと人のいひしに、親を捨てて渡る、哀れ」など人がいつたが、その時は「なにとても覚えざりし」事の、今は我が身によそへられるのである。六月十余日になつて阿闍梨の文がきて、「三月十余日、唐の船に乗りて渡りぬる。今は心安く、必ず極楽に参るべきと覚ゆるを、そこにも必ず逢ひ給ふべきなり」とある。極楽往生の本意に変りはないが、生きての世の覚束なさは慰む方もなく、蓮の上の一つの居所を待つ間の我が眼は、紅の涙にくもり、袖は池の堤に余り、蓮の光に満ちた極楽をいみじうゆかしう覚えながら、猶夢路に迷ふのである。七月もすぎて八月十一日の夢に「阿闍梨おはして、阿闍梨の讃と申す物の古きを書き改めて、之を見よとて、取らせ給へり」とみ、又十三日の夢には「無量義経をよめとて取らせ給ヘり」と見るにつけ、「この世に打ち捨て給へるはつらけれど、後の蓮の上と契らせ給ひし心ざしは、忘れ給はぬなめり」と嬉しいが、覚束なさはたとへやうもない。十月十一日に筑紫よりとて文をもつて僧がきた。阿闍梨の御文かと心騒ぎして見るに、御ともに行つた人の文で、渡海後の旅程は書いてあつたが、かの御文ならねば、覚束なさも慰まず、なかなかなる心地がするのである。十二月八日空かきくらし、霙といふ物が、雪の降るままに、且つ消えるのを見て羨しう、かやうにあと方もなく、消えて了ひたいと思ふのである。その八日、みかどおりさせ給ふと人々いひ騒ぎ、後三條天皇、御位を白河天皇に譲らせ給ふのである。
年たちかへつて延久五年、正月を迎へる毎に母は正月晦日石倉から仁和寺へ移つた延久三年の事を思ひ出し、今年はもう三年になると思ふのである。二月十四日、宋から筑紫なる人の許によこしてゐた阿闍梨の文を、律師がもつてきて母に見せる。渡海の旅程が書いてあつて「三月十九日、筑紫の肥前の国松浦の郡に、かへしまといふ所を離れて、同じ廿三日、明州のふくゐ山を見る。そこに三日の風なくてあるに、始めて羊の多かるを見る」などとあるにより「本意かなひて、心ゆき給へらんぞ」と、それにつけて少しは心もおちつくが、我が身のおぼつかなさを消す由もない。入日の折は西の方を眺め、うちなげきつつ月日をすごし、昔物語に「あはれなるも、をかしきもありし、そらごとにはあらざりけり」と、今こそしみじみと同感させられる。桜、つつぢを眺めて日数すぐ行く程に、漸くたちゐることをだに、やすくせずなりゆくのである。そのころ、上皇御悩とて立ちさわぎ、御祓への使がしげく行きちがひ、四月一日律師も御修法に参り奉つたのである。それから五月五日の事を記し、阿闍梨の不在はかなしいが、今一人の律師は、世にたぐひなき聖であることを満足に思ひ、今は「阿弥陀仏を心にかけ奉りて、とく死にて、極楽に参らむことをのみ、おもひ侍りてぞ、あけくれ西をみやりつつ」あかし暮し、常は心地のみあしく、顔もみな腫れ、例ならず苦しいので、愈々死ねるのであるかと思ひ、心地ともすればかき乱れる。かく乱れたる心なれど、泥の中の蓮の譬もあれば、極楽もたのもしく、朝の日が雲を払つて出づるのを見ては、日にそへて作りけむ罪を、露も残さず消やし給へと念じ、夕の月の光を見ても、にやせんまでさそひ給へと頼み、次のやうな二首の歌を記して文を綴ぢてゐる。
鷲の山のどかに照らす月こそはまことの道のしるべとは聞け
朝日まつ露の罪なく消えはてば夕べの月はさそはざらめや
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