八 讃岐典侍日記

  一 概説

 作者は藤原顕綱の女で長子といひ、その輔の姉の兼子は、堀河天皇の御乳母にて、伊予三位といふ。作者は康和二年十二月三十日典侍に任じて讃岐典侍と呼ばれ、それから嘉承二年七月十九日、堀河天皇崩御あらせられる迄、五箇年半親しく天皇に馴れ仕うまつつたが、天皇崩御の後は素服(喪服)を賜はつて一旦里に下つた。素服を賜はるといふのは極めて親しい臣下に対し朝命によつて素服を着けるやう御沙汰が下るのである。

              -兼子
  師輔-兼家-道綱-顕綱|
              -長子

 作者の奉仕ぶりや心掛けのよい事は、白河上皇も聞召しおかせられてゐたので、十月になつて、新帝鳥羽天皇御つきの女房として出仕するやうにとの御沙汰があつた。しかし作者の心は先帝崩御の悲しみで一杯であつたので、すがすがとも思ひ立たなかつたのである。天皇は御歳僅かに五つに渡らせられたが、天皇の御陪膳を申上げるのは五位以上でなくてはならぬのに、御乳母たちがまだ六位であるからといふので、取り急ぎ出仕するやうにと仰せ下されたのである。やがて御即位の式も近づき、作者は「とばりあげ」の御役を仰せつけられ、除服出仕を命ぜられたのである。それから作者は、鳥羽天皇に奉仕することになり、なほ讃岐典侍と呼ばれて十余年に及んだのである。
 日記は上下二巻にわかれ、上巻には、堀河天皇御悩より崩御に至るまで親しく御介抱申上げた事、深刻沈痛の悲しみに堪へなかつた事など、その尊さ、勿体なさ、畏れおほさを生々と仰ぎ見るが如く描き出し、遺憾なくその感動と印象とを記しまつつてをる。下巻には幼帝に仕へまつつた凡そ一年間の事と、並に其の間事々に先帝の御事を御忍び申上げた次第を記し奉つてゐる。
 上巻の始には日記執筆の動機を記してゐる。五月の空もくもらはしく田子のもすそのほしわぶらんもことわりと見える頃、心静かに里居をしてゐると、常よりも思し出づること多く物あはれにて、花の春、紅葉の秋、月の夜、雪のあした御供にさぶらひ、前後八年にわたつて仕うまつつてゐた月日が忍ばれ、石灰壇にて、神宮内侍所を御拝遊ばされた毎朝の御事や、御笛をめでたく遊ばされた夕の御ことが、まざまざと思ひ出し奉られて忘れがたく、やるせない哀感で胸をしめつけられるやうなので、若しやこの思ひ出だし奉る次第を記しまつつて行けば慰められもし、まぎれもするのではないかと思つて筆をとつたけれども、眼は涙にくもつて筆の立ち所も見えず、愈々慰めかねると記してゐる。
 下巻の終に、作者はこの日記を二人の知人に見せた事を追記してゐる。一人は名をあげてゐないが、何れは関係者と覚しく、読後の感として、

  いかでかく書きとどめけん見る人の涙にむせてせきもやらぬに

といふ歌を作者に送り、作者は、

  思ひやれなぐさむやとて書きおきしことのはさへぞ見れば悲しき

といふ返歌を送つてゐる。他の一人は常陸といふ女房で、作者はこの日記を「同じ心に忍び参らせん人」と一緒に読み合つて見たいと考へ、その相手として誰がよいか、誰も先帝を忍び参せぬ人はないが、自分に好意をもつてくれる人でなくてはならぬし、好意をもつてくれる人でも「方人」の無いやうな人では張り合もない、正しくこの三つの條件を具へてゐる人は常陸殿ばかりであると思ひ定め、かくかくと招くと心やすくやつてきてくれたので、日記を見ながら二人でひぐらし語らひくらしたとある。かやうに此の日記は執筆の動機も、執筆後流布の端緒も文面にはつきりと書き記されてをり、首尾正しく承応してゐる。

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