三 内容

 大体以上四つの観点に立つて此の日記の本文に聊か触れて行かう。
 天皇には嘉承二年六月二十日より例ざまにおぼしめされぬ御気色におはしましたが、七月六日より御心地おもらせ給ひ、月頃とても御悩みがちにおはしましたが、このやうに苦しげに見参らする事はおはしまさなかつたのに、この度はかやうにおはしますので、如何遊ばされるのであらうかと、作者たちは胸をつぶして御案じ申上げたのである。本文には、

  かくて七月六日より御心地大事に重らせ給ひぬれば、誰も月ごろとても例ざまにおぼしめしたりつる事はかたきやうなりつれども、これがやうに苦しげに見参らする事はなくて過ぎさせ給ひつる、かくおはしませば、いかならんずるにかと胸つぶれて思ひあひたり。

 日のくるるままに、堪へがたげに思召す御様を拝し奉り、その由を御父にあたらせられる白河法皇に申上げ奉ると、驚かせ給ひ、近くて御有様きかんとの御思召にて俄に北の院に御幸あらせられた。増誉僧正、頼基律師、増賢律師などが召されて御加持や御祈祷が行はれ、

  少し御かゆなど参らすれば、召しなどすれば、嬉しさは何にかは似たる。

と記し奉り、

  いみじう苦しげにおぼしたりければ、片時御傍離れ参らせず、ただわれ乳母などのやうに添ひ臥し参らせて泣く。あないみじ、かくてはかなくならせ給ひなむゆゆしさこそ。ありがたく仕うまつりよかりつる御心のめでたさなど思ひつづけられて、目も心にかなふものなりければつゆも寝られず、まもり参らせて、程さへたへがたく暑き頃にて、御障子と、臥させ給へるとにつめられて、寄り添ひ参らせて、ねいらせ給へる御顔をまもらへ参らせて泣くより外の事ぞなき。いとかう何しに馴れ仕うまつりけんと、くやしくおぼゆ。参りし夜より今日までの事思ひつづくる心ち、ただおしはかるべし。こはいかにしつる事ぞと悲し。

と記し奉り、次に、

  おどろかせ給へる御まみなど、日ごろのふるままに弱げに見えさせ給ふ。御とのごもりぬる御けしきなれど、我はただまもり参らせて、おどろかせ給ふらんに、皆ねいりてとおぼしめさば物おそろしくぞおぼしめす、ありつる同じさまにてありけるとも御覧ぜられむと思ひて見まゐらすれば、御目よわげにて御覧じあはせて「いかにかくは寝ぬぞ」と仰せらるれば、御覧じ知るなめりと思ふも堪へがたくあはれにて、

と記し奉り、次に、

  顔も見苦しからむと思へど、かくおどろかせ給へる折にだに物参らせこころみんとて、顔に手をまぎらはしながら、御枕上に置きたる御粥やひるなどを、もしやと、くくめまゐらすれば、少しめし、又おほとのごもりぬ。

と記し奉つてゐる。
 時の関白は藤原忠実で、夜昼たゆまず参内せられるが、いつも忍びやかに参られるので、作者が気づかずにゐると、天皇は御悩みにも拘らせられず、その事を作者に御知らせ下される。作者はもう有難さ忝さに感激して涙が一杯浮いてくるのである。即ち本文に、

  「おとど来」といみじう苦しげに思召し乍ら、告げさせ給ふ御心の有難さは、いかでか思ひ知られざらん、かく苦しげなる御心ちに、たゆまず告げさせ給ふ御心の、あはれに思ひ知られて涙うくを、あやしげに卿覧じて、はかばかしくもめさで臥させ給ひぬれば、又そひ臥し参らせぬ。

と記し奉つてゐる。かかる御やさしい御心づかひは作者の身に泌みて有難く忝く感じまつる所で、日記にはこの事を二度も繰返し記し奉つてゐる。
 中宮がお上りになつたので、女房達はお前をさがつたが、作者一人は「若し召すこともや」とて、御障子の許に侍らうてゐる。果してお召しがあつたので、作者は「よくぞ下りで侍らひける」と、我自らに説ききかせるのである。七月十八日、天皇には賢暹法印をお召しになつて御戒を受けさせ給うた。日記にはその時の御模様を委しく記しまつつてゐるが、中に、

  御手水まゐらすべけれど、起きあがらせ給ふべきやうなければ、紙をぬらして、御手などのごはせ参らせなどする程ぞ悲しき。御冠など持ちて参りたれば、するかせぬかの程におし入れて、御直衣ひきかけて参らせたる、御ひもささむとおぼしめしたるなめり、ささんとせさせ給へど、御手もはれにたれば、えささせ給はぬ、見るここちぞ目もくれて、はかばかしう見えぬ。

と記し奉り、又

  さて御戒うけさせ参らすれば「いとよく保つ、いとよく保つ」と仰せらるる。殿たち「保つと仰せらるるや」と申させ給へば、うなづかせ給ふ。

誠に勿体なく畏い極みで、恐らくかやうな文字はただ日本にのみ存在することであらうと思はれる。それから故右大臣源顕房の子定海阿闍梨を召され、

  「経誦して聞かせよ、定海が声きかむも今宵ばかりこそ聞かめ」と仰せられて、いみじう苦しげにおぼしめされたれど、御涙もえ出でず。それを聞かんここち、誰かはなのめなる心ちせん、誰もたへがたきここちぞする。阿闍梨ややもいらへなし。経の声も聞えぬは、あれもためらはるるなめりと聞ゆ。

と記し奉つてゐる。
 七月十九日、遂に崩御あらせられ、上達部、殿上人、御乳母子、君達、女房たち侍らふ限り声も惜しまず泣きとよみ、狂乱のあまり御障子を地震などのやうに引きゆるがし、中にも御乳母大弐三位は

  「我が君や、いかにして方々をば捨ておはしましぬるぞ。生まれさせ給ひしより方時離れ参らせず、あやしのきぬの中よりおほし参らせて、いづれの行幸にもはなれず、後に立ち先に立ち、病の、心ならぬ里居十日ばかりするにも、恋しくゆかしく思ひ参らせつるに、片時見まゐらせでいかでかさぶらはん、ただ具しておはしましね。今一度おどろかせ給ひて見えさせ給へ。あな悲しや、恋しさをいかにしてか侍らはん、ただ召してぞ」と御手をとらへてをめき叫び給ふ。

のであつた。之に対し、作者は、

  御汗をのごひまゐらせつる陸奥紙を顔に押しあててぞ添へゐられたる。あの人たちの思ひ参らせらるらむにも劣らず思ひ参らすと、年ごろは思ひつれど、なほ劣りけるにや、あれらのやうに、声たてられぬはとぞ思ひ知らるる。

といふのである。「あれらのやうに声たてられぬ」といふのは、わが悲しみの深刻沈痛味を我と我に説き聞かせてゐるのであらう。

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