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下巻にうつり、嘉承三年正月朔日作者は、白河法皇の御仰によつて夕さり参内し、陣に入るより昔が思ひ出されるのであつた。局にはいつて見ると、何もかも昔のままであるので、自然自分の気持も昔に立ちかへり、唯、堀河天皇がおはしまさぬだけのことであるが、それもかりそめにどこか異所に渡らせ給うた場合のやうな心地がして其の夜はあけた。その次、
つとめて起きて見れば雪いみじく降りたり。今もうち散る。御前を見れば別にたがひたる事なき心地して、おはしますらん有様、事毎に思ひなされて居たる程に「降れ降れこゆき」と、いはけな御気はひにて仰せらるる聞ゆる。
と記し奉つてゐる。その夜作者は陪膳の御役を奉仕してゐると、天皇は走りおはしまして、顔のもとにさしよらせ給うて、「誰ぞこは」と仰せられたのである。かくて三月になると、堀河院の桜は昔ながらに咲き、四月の衣更、灌仏、五月の菖蒲、最勝講、事毎に昔を思ひ出で、六月になりぬ。暑さ所せきにも、まづ去年の此の頃は事もなく、御心地よげに遊ばせ給ひ、扇引などの行はれたことがまざまざと思ひ出されるのである。
「まづ引け」と仰せられしかば、引きしに、美しと見しをえ引きあてで、中にわろかりしを引きあてたりしを、上に投げおきしかば、「かかるやうやある」とて笑はせ給ひたりし事を、但馬殿といふ人の、「家の子の心なるや。こと人はえせじ」など興じあはれしに、そのをりは何ともおぼえざりし事さへ、いかでさはし参らせけるにかと、なめげに、けふはありがたく覚ゆる。
と記し奉つてゐる。七月になつて諒闇もあけ、去年より女房六人が宮の御方に残つてゐたが、今は散々になるのを互に悲しみ、又御前のしつらひが変り、摂政忠実を始め殿上人も女房も花の衣になるにつけて、作者は「きかへんともおぼえず。之をさへぬぎかふるこそ。院の御かたみと思ひつれ、これをさへねぎつればいと心細し」といつて、そぞろに僧正遍照の歌を忍ぶ。八月廿一日、天皇は小六條殿から内裏に渡御あらせられた。夜の御殿を見奉るにも、ありし世にかはらぬさまにて、ただ一所の御姿の見えさせ給はぬだけと思ふにも、悲しくて涙せきあへぬのである。清涼殿、仁寿殿いにしへに変らず、台盤所、昆明池の御障子、今見れば見し人にあひたる心ちし、御溝水の流になみたてる色々の花ども、いとめでたき中にも、萩の色こき、咲き乱れて朝の露玉をつらぬき、夕の風靡くけしきが殊に見え、これをみるにつけても御覧ぜましかは、いかにめでさせ給はましと思ふにも、
萩の戸におもかはりせぬ花見ても昔を忍ぶ袖ぞ露けき
といひつづけられるのであるが、同じ心なる人もなくて人にいはんすべもない。かくて九月になつた。
御前におはしましまして、「われ抱きて障子の絵見せよ」と仰せらるれば、よろづさむる心地すれど、朝餉の御障子の絵御覧ぜさせありくに、夜のおとどの壁に、あけくれ目なれて覚えんとおぼしたりし楽を書きて、押付けさせ給へりし笛の譜の、押されたるあとの、壁にあるを見つけたるぞあはれなる。
笛のねのおされし壁のあと見れば過ぎにし事は夢と覚ゆる
悲しくて袖を顔におしあつるを、怪しげに御覧ずれば、心得させ参らせじとて、さりげなくもてなしつつ、「あくびをせられて、かく目に涙のうきたる」と申せば、「みな知りてさぶらふ」と仰せらるるに、あはれにもかたじけなくも覚えさせ給へば、「いかに知らせ給へるぞ」と申せば、「ほ文字の、り文字のこと、思ひ出でたるなめり」と仰せらるるは、堀河院の御事とよく心得させ給へると思ふも、うつくしうて、あはれにさめぬる心地してぞ笑まるる。かくて九月もはかなく過ぎぬ。
十月大嘗祭の御禊、十一月大嘗祭にて五節・神楽は例のこと、神楽の夜、次のやうに記し奉つてゐる。
我が君のかくいはけなき御よはひに世をたもたせ給ふ、伊勢の御神も守りはぐくみ奉らせ給ふらむと、位たもたせ給はん年の数ぞ、たとへば長井の浦のはるばると、浜の真砂のかずもつきぬべく、みもすそ川の流いよいよ久しく、位の山の年へさせ給はん、まことに白玉椿八千代に、千代をそふる春秋まで、四方の海の浪の音静かにみえたり。
それから一旦里にさがり、十二月つごもりの夜、内に参るとて堀河院をすぐるに、二條の大路・堀河などかいすみ、物さわがしげに人の出で入りたる昔のけしきも見えず、ぬしなしと答ふる人もなけれども宿のけしきぞいふにまされる、といふ能因法師の歌がしみじみと思ひ出され、忍びまゐらせざらん人は何とかは見ん、我はただ一所の御心のありがたく、なつかしう忘らるる世なくおぼゆると記して、日記の本文を終つてゐる。(本文は玉井幸助氏著、讃岐典侍日記通釈による)
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