九 建春門院中納言日記
此の日記は最近発見紹介されたものである。今その研究の次第を記すと、昭和七年五月玉井幸助氏は宮内省図書寮の御本により、書名を「たまきはる」と題して、大体の内容を岩波講座(鎌倉時代の日記・紀行)の中に紹介した。書名の「たまきはる」は開巻の歌、
たまきはる命をあだに聞きしかど君こひわぶる年は経にけり
によつたのであるが、作者自身のつけた本来の名称ではないらしい。次いで昭和八年九月佐佐木信綱博士は「金沢文庫本建春門院中納言日記」と題する論文を、東京朝日新聞に(十三日より三回)載せ、金沢貞顕自筆本の発見を報告し、合せて其の内容をかいつまんで紹介し、翌九年同博士は新発見の金沢貞顕自筆本により、「建春門院中納言日記に就いて」と題する論文を史学雑誌(第五号第六号)に寄せ、その詳細なる内容を紹介すると共に、その文学的歴史的価値に論及した。貞顕自筆本は乾元二年の書写校合に係り、金沢文庫旧蔵で、現在は有馬秀雄氏の所蔵に係る。有馬氏には別にその模写本もあつて、図書寮の御本はその模写本を更に転写したものである。次いで昭和九年十二月に至り佐佐木博士は貞顕自筆本によつて、これを教科書風に編纂し、書名を「建春門院中納言日記新解」と題して刊行(明治書院)した。之により全文が始めて世に広く読まれた。猶、桜井秀博士は「たまきはるに於ける女装上の疑惑」と題する論文を、雑誌「文学」(昭和九年七月)に寄せ、此の日記に「かけおび」とあるのは鎌倉中期以後の女装であることを考証した。
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建春門院中納言は八條院中納言とも呼ばれ、俊成の子、定家の姉で、玉葉集に女郎花の歌が一首入集してゐる。明月記では健御前といはれ、定家より五つ年上である。仁安三年十二歳にして、建春門院に奉仕したが、安元二年七月八日、門院崩じ給うたので一旦宮仕を退き、姉の許に身を寄せた。時に作者は二十歳である。治承四年世の中が騒がしくなり、それが作者の身の上にも影響する所があつた。かくて寿永二年二十七歳にして再び出でて、八條院に奉仕したが、建暦元年六月八條院崩じ給ひ、次いで同年十一月八條院の御猶子春華門院(作者も御養育に奉仕してゐた)御年十七にして身まからせ給ひ、作者は涙の乾くひまとてはなかつた。時に作者は五十五歳である。猶、作者は建永元年五十歳にして尼になつてゐた。
日記は右のやうな奉仕の次第を記したもので、次々に仕へ奉つた御方々を忍び奉る追慕の情が切々と記されてゐる。執筆は建保七年三月に至り、ありし日を回想して記したものである。日記は前後の二部に分れ、前半は作者が自ら整へておいたもの、後半は作者に縁ある人が遺稿を整理したもので、その中間に作者の奥書と定家の奥書とがある。
此の日記の特色はほぼ讃岐典侍日記と等しく、(イ)宮中の御模様を委しく記し奉つてゐる事、(ロ)仕へ奉る御方々の御寵愛を蒙つた感激がよく現れてゐる事、(ハ)作者が真心を以て奉仕した心情のよく現れてゐる事、(ニ)仕へ奉つた御方々を追慕し奉る心情が遺憾なく現れてゐる事、(ホ)女房の服飾を細々と記してゐる事などである。殊に寿永二年皇位御継承のことに就いて、後白河法皇と八條院と御会談あらせられた御模様を記し奉つてゐるのは、畏い極みである。此の日記を通してみる作者の性格は、細かく心遣ひのはたらく女性で、その為に文章も書かうとする所が多岐にわたり、事実を重んずる精神と感情を重んずる精神とが、うまく調和してゐないやうである。即ち作者の性質は余りに気がつき過ぎる方で、又何でも心配事を我が身一つに背負うてゐるやうな気持を常に持ち、人がうつかりしてゐる場合でも、人に先んじて心配するやうな性質であつた。作者は自らの事を「身のうへ顧みぬ心の癖」をもつてゐると記してゐるが、一心に真心をこめて何事にも当つたやうである。讃岐典侍のやうに、物事を印象鮮明につかむといふ暢びやかな所はなくて、心の隈が多かつたやうである。
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