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日記が「たまきはる」の歌で始まることは既に記したが、歌の次は、
あるかなきかの身の果てに、時の間も思ひしづめむ方なき悲しさの、身に余りぬる果々はまことに忍びもあへぬ、うつし心もなき心地のみすれど、数ふれば長らへにける程も心うし。
とある。これは建保七年六十三歳にして此の日記を記した時の心境である。あるかなきかの、はかなき晩年になつて、時の間も鎮めがたい悲しみで胸が一杯つかへ、その果々は気も顛倒して了ひさうで、現し心とも思はれない。それでも猶かく生き長らへてゐるのは、我ながらうとましい限りであるといふのである。
建春門院の御上に就き奉つて、
朝夕の御言ぐさに「女はただ、心からともかくもなるべきものなり。親の思ひおきて、人のもてなすにもよらじ。我が心を慎みて、身を思ひ腐たさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ」と仰せられし御いさめに、わかき限り、まして親などたち添ひたるは、各々心の中やいかなりけむ。
誠に勿体ない御いさめである。定めし作者も身に沁みて深く感じ奉つた事であらう。若き女房殊に親などが立ち添うて力を入れてゐるやうなものは、この御いさめを拝して心中がどのやうであつただらう、定めし恐懼し奉つたことであらうといふのである。
門院の御美しさに就き奉つて、
かりそめに、御とのごもりたりし御様などまで、有難く、美しうもおはしまししかな。よそに推しはかりしは、ことごとしく、よそほしかるべき程の御身ぞかし。夏などうち驚かせ給ひて、暑やとて袷の御小袖の御胸をひきあけて、ふたふたとおふがせ給ひし御姿などまで、誰もする事の、あな好ましと見えしは、唯、人による事なめり。愛敬こぼるばかりとかや、物語などに書きつけたるは、かやうなるにや。あながちに、匂ひ美しげなる御側面の、いふよしなく白きに、御額髪の、はらはらとこぼれかかりたりしひまひまに、御色あひの映えて見えしなどは、此の世に又さるたぐひをこそ見ね。
ただただ美しき御面影を思ひ出し奉るのである。いふ由なく白き御顔、はらはらとこぼれかからせられる御髪、その御髪の間から見まゐらする御装束の色あひ、実に印象鮮明に思ひ出し奉るのである。
承安四年春、法住寺殿へ御方違の行幸の折に、作者は(時に十八歳)ゆくりなくも、平家物語に見える小督の殿と親しくなつたのである。
山吹のにほひ、青き単衣、えび染めの唐衣、白腰の裳着たる若き人の、額のかかり、姿よそひなど、人よりはことに花々と見えしを、未だ見じとて、人に問ひしかば、小督の殿とぞ聞きし。此の度より物いひ初めて、局のそなたざまなれば、下るとても具してなどありしが、其の後行く方も知らで、二十余年の後、嵯峨にて行き遇ひたりしこそ、あはれなりしか。
作者より一つ年下であつたと思はれる小督の殿の運命も、よそ事には考へられないで、深い哀れを感じたのであらう。
此の行幸の折に蔵人が大変な失策をし、後白河法皇が御腹だちになつたのを、天皇が御宥め申上げさせ給うたのである。
還御の日、内侍の里にある迎への車を、蔵人が忘れて遣はさぬとて、二所、ことも宜しからぬ御気色にて、御簡削れなど仰せらるる御声聞ゆ。蔵人、身をだにえ動かさで、西の縁にさぶらひしこそ、いとほしかりしに、内の御方の仰言に、未だ院宣をかへし参らせたる事は覚えねども、此の度の行幸、今一日延べまゐらせたるは、よろこびいはんずるぞと言へ、と仰言ありしこそ、何となくさぶらふ人の心地も嬉しくめでたかりしか。院も限りなく愛くしと思召したる御気色あらはれて、また御声も聞えざりしは、まして身の上にて承りけむ蔵人いかにおぼえけむ。
「未だ院宣をかへし参らせたる事は覚えねども」との仰言には、御孝心の程も拝せられて勿体なく、蔵人の失念によつて、法皇の御所に一日だけ永く御滞在がお出来になるのは嬉しいと、御喜びになつた仰言は誠に勿体ない極みで、これによつて法皇の御腹立ちもお直りになり、侍らふ人々は嬉しくめでたく思ひ参らせたのである。まして本人の蔵人はいかに、天皇の御仁慈に感泣した事であらう。
仕へ奉る女房は六十人にて、其の内に三河といふのがゐた。幼い時から仕へ奉つて、御慈しみを蒙り、何事もかひがひしく振舞うてゐたが、どこに居ても「そぞろ言」のみを申し、上臈にも若い女房にもことさら交りを求め、下級の召使に対しては「悪しき事はやがていひ教へ、悪み、よきはほめ、しも台所の果てまで遊びいきて、此の盤は塵もなく美しう候ひけり」といひ、又「さらぬ折は、是はいかなる見苦しさぞ、かくて候ひけるかな」と、世に知らず恥ぢしめ、目に立つ事もよき事もいひちらしてゐたので、作者は「御所の中もいかがうちとけむ」とにがにがしく思ふのである。
法皇が今日吉(洛東にあり)に籠らせ給うて、門院が一所おはしました時、御所の寝殿の巽にあたる賀陽の御所に火の事があつた。
例の上に臥したるに、いふかひなく寝にけり。うち驚きたれば、うたてく、寝たりつる人一人もなし。端はあきたるに見れば、空にこまかなる火の、ひらひらと雪のやうに散るに物おぼえねど、思ひもあへず、縁にはひ出ぬ。
誰もねてゐるものはない。作者はどんなに悔しかつたであらう。端のあいてゐる所から見ると火が雪のやうにひらひらと空に散つてゐる。どんなに恐しく思ひ、あわてた事であらう。
御前の覚束なくて、東の台板所へ入りて、御所の帳帷ひきあけたれば、御前は暗し。御寝所のそばの衣架の間に、其の火はいかにや、と仰せらるる御声を聞きつけたる嬉しさに、そなたへ参りたれば、また人もさぶらはず。
嬉しさに、ほつと胸を撫でおろしたのである。やがて指貫の括を高くあげた男が、浅ましく騒ぎながら参り、「御前はやや」と問ふのを見れば親宗の弁である。平常は、門院を「御所」と申し奉つてゐるのに、その時は誤つて「御前」と申し奉つたのであつて、「騒ぎける程もしるし」と作者はいつてゐる。門院は南殿へ御避難になる。
やがて奉る処にて、思ひ出づれば、此の御車にえ乗るまじきにと思ふに、ここ迄は頼もしかりつる心弱さに、御袖をひかへ参らせて、やと申せば、御覧じかへりて、親宗、此の女房たち、とくとく車に乗せよと仰せらる。
お供を申上げてゐる間は心強かつたのであるが、お離れ申上げねばならぬと思ふと、それまでの頼もしかつた心も急に弱くなつて、御袖をひかへ参らせて、宛も弱児の慈母を恋ひ慕ふやうにお訴へ申上げると、親宗をお顧みになつて、此の女房達をとくとく車に乗せよと仰せられたのである、どんなにお親しみ申上げてゐたかは、これによつてわかる。「奉る」とは、御車にお召しになること。
安元二年三月四日から六日まで、法皇の五十の御賀が行はせられた。中の日の女房の装束は桜の衣に桜の散り花を織り浮かし、裳唐衣の腰にも、衣の褄にも桜の詩歌をかきつけ、袴、小袖、扇などまで「ただ春の花、めづらしく清らなる色ふしを、人に勝らん」と、心を尽したのであるが、やがて其の年の七月には、門院が花の散るやうに崩じ給うたので、桜ばかり昔も今も恨めしいものはなく、形見の色も匂ひもないとかこたれるのである。
その年の夏、作者は病気にて里に籠つてゐたが、六月のほどから門院には御悩み遊ばされ、天の下「おどろおどろしく言ひ騒ぎ、御祈など数しらず始まる」と聞いたが、年頃の御健やかな御有様といひ、御年の程といひ、さばかりの御事とは思ひかけ参らせられなかつた。ただ処せき御薬の事を、心苦しく覚束なく思ひ参らせて静心なく、日々御容態を御尋ね申上げると、却つてこまやかなる御返事を頂いて、病の有様を細かに言へとの仰せを蒙り、忝さ、勿体なさに堪へなかつたのである。六月廿六日の夕つ方、あからさまに参つて御見舞申上げると、御座所が変つてゐたがやがて御声が拝され、「まことにとく葫食して、よくなりたらんに、とくとく参らせ給へよ」と、誠に有難いお言葉を頂き、常にも変らせられぬ御声であつたので、「物はかなき心に、何事かは」とうち思ひ参らせ、聊か心を安んじて退出した。翌日から仰のままに葫を始め、日々消息を差上げ奉つてゐた。然るに、
七月七日、堪へがたく暑きに、此の事も果てにしむつかしさに、髪洗ふほどに、いかにしたりしにか、心地かぎりなくそこなひて、絶え入るなどいふばかり、人々も騒ぎたりしつとめて、あるかなきかの心地するに、日頃ただ同じ御事とのみありつる冷泉殿の返事に、はやくにておはしませば、申すばかりなし、とばかりあるを見る心地は、何にかは似たらむ。なべての世、誰かは思ひ嘆かぬ人あらむ。されど打ち向ひたる人々も、わが思ふばかり、誰かはあらむ。おき所なき心地ぞする。
「打ち向ひたる人々も、わが思ふばかり、誰かはあらむ」といふのは、讃岐典侍日記に「あれらのやうに声たてられぬ」とあるのと、その表現がうらはらで、此の作者は単的に自分ほど恋しいものはあるまいといひ、讃岐典侍の方は軽々しく泣けないといつて深刻悲痛をいひ現してゐるのである。
その後御所に参つてみると、萩・女郎花がわがままに所をえて、御縁の上まで咲きこぼれてゐる。「露きゆる憂き世」も知らで盛りの色に咲いてゐる女郎花が腹立たしく、これより女郎花がうとましくなつたと記してゐる。常陸とて、近く慣れ仕うまつつてゐた若い女房、いかにもえ堪ふまじき気色であつたが、作者が前を通ると、その髪のすそを見て、これは御手づから御そぎ下されたままであるなといひ、その髪を面におしあてて、うつぶし泣いた。作者も同様に堪へ難いのである。その程すぎて常陸は法花堂にまゐつて出家したが、年は廿二とか。
宮仕を退いた作者は、前斎宮に奉仕してゐた姉―自分を養ひ立てた姉の許に身を寄せ、つくづくと明かし暮してゐたが、治承四年ともなれば世の中が騒がしくなり、それが作者の身の上にも影響を及ぼしたのである。
大方の世に静かならず、浪のさわぎに風のみしきつつ、様々あわただしく、行きかはん春秋につけても、心うしと聞ゆる事のみ多かり。此のゐたる所も、人の心づかひ、いと苦しうなりゆくままに、さてもえあり果つまじき故のみ聞えしかば、母と頼む人も思ひ煩ひてわが身こそあらめ、流石に老いはてぬ人さへ、かくむつかしき世にまじらはせて、とかくいはれむも、あいなしなど思ひ乱れて、二十四になりし冬、今更にもとの所に帰りにしかば、あやにくにひきかへ見ならはぬ心地のみして、明かし暮す。
かくて十一月里に帰つたのであるが、宮仕に慣れた身には里住みは非常に変つたものに思はれ、よく年月を過ぐる程に、むげにいふ甲斐なく古りはててゐたが、寿永二年の春再び出でて、八條院に奉仕することとなつた。相当な年輩ではあるが、やはり今参りなので初々しく、つつましく、年頃さぶらひける人の中に、我よりまさる事あれど、「さしのきたる者とは思召されざりし嬉しさ」に、片時も局に居る事なくて御前にさぶらうてゐた。此の御所では「人に過ぎて、物のさきに立てられまゐらせ、事にふれてさかしく物おきてなどする者」になつたので、之を嫉妬し憎むものもあつた。
校訂者注)「讃岐典侍の方は軽々しく泣けない」、底本に「は」はない。脱落と見て補った。
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