一〇 建礼門院右京大夫集
一 輪郭
此の集の作者は藤原伊行の女で、家は代々能書を以て知られてゐた。伊行には書道に関する夜鶴庭訓抄の外に源氏釈の著がある。此の集の作者は建礼門院に奉仕し、右京大夫と呼ばれたが、其の期間は承安四年以後の四五年と推定される。その間に平重盛の子資盛を愛人にもつたが、寿永二年資盛は一門の人々と都落をし、ついで文治元年には壇の浦の藻屑と消え去つたので、涙の生活がつづく。其の後再び出でて大内に奉仕し、七十歳位までは長命してゐた。
此の集は其の形式からいへば歌集であるが.普通の家集の如く、歌その物を中心とするのとは聊か異り、其の歌を作つた時の事どもを回想する叙事が中心となつてゐる。集の始に、
家の集などいひて、歌よむ人こそ書きとどむる事なれ。これはゆめゆめ、さにはあらず、ただ哀れにも悲しくも、何となく忘れがたく覚ゆることどもの、その折々、ふと心に覚えしを、思ひ出でらるるままに、我が目ひとつに見んとて、書きおくなり。
とあつて、自分は専門の歌人でないことをことわり、謙遜の意をのべてゐるが、同時に内容そのものも、普通の家集と異ることが語られてゐる。集の終に「徒らに、あかし暮す程に、思ひ出でらるる事どもを、少しづつ書きつけたるなり」とあつて、自ら漸々に書きつづけたものであることがわかる。集の内容は自ら前後の二部に分れ.前半は宮仕中のこと、平家の公達のこと、資盛のこと等を記し、後半は寿永二年以後の悲しい思ひ出を記してゐる。
此の日記の特色は、思ひ出に終始し、悲しみに貫いてゐる事である。悲しみは如何なる日記にもあるが、此の集の悲しみは、ただ悲しみに心を据ゑ、そこに没頭し、そこに集中し、誠に純一なものがある。悲しみながら喜びを待つとか、悲しみの底に意欲をもつとか、又悲しみの情に圧倒されて了ふとか、大袈裟に悲んで後は忘れるとか、さういふ不純な、激情的なものでなく、実に美しい思慕の情そのものである。此の日記の背景となるものは平家物語であるが、かういふ悲しみの情は同時に平家物語の基調でもありうる。又平家物語の史観ともいふべきものは、諸行無常、盛者必衰、奢れる者久しからず、猛き人も遂には滅びぬ、等であるが、之に相当するものを集から求めると、
山里なる所にありし折、艶なる有明に起きいでて、前近き透垣に、咲きたりし朝貌を、ただ時のまの盛りこそ哀れなれとて見し事も、只今の心地するを、人をも花はげにさこそ思ひけめ、なべてはかなきためしにだにあらざりけるなど、思ひつづけける事のみさまざまなり。
とある。槿花一朝の夢といふわけであるが、花の方から見れば人の世もはかないであらうといふ考へ方には、十分客観的なところが示されてゐる。諸行無常、盛者必衰は大体仏教思想であらうが、これに易経の消長変化といふ思想や礼記の思想などが加味されてゐるであらう。其の始は冷静な宇宙観人生観であつただらうから、さとる、あきらめるといふ批判に進められ、それと共にはかなむ、悲しむといふ感情にも進められ、この二つの方向に展開したものが相寄つて平家物語を構成してゐると考へられるが、この点は此の集に於ても同様であらうと考へられる。
此の日記はすらすらとしてゐて難解の所は殆んどない。これは作者が文章が上手であつた為とも、本文が乱れずに伝はつた為とも考へられるが、少し穿つて考へてみると、此の集は溢れるやうな感情とほぼ同程度の理性が感情との調和を保ち、自然文章に論理性が現れてきたものといへよう。日本文化史を発展の順序のままに辿つて下るならば、平安朝的なものは室町時代に至つて完成し、新しいものは近世に始まつてゐると考へられるが、逆に歴史を遡つて考へるならば、我々の考ヘ方は定家・実朝・法然・親鸞・日蓮・栄西・道元などに対する親近性をもつに対し、清少納言・紫式部などに対してはその生活・思想・感情の著しく異るものを考へるので、近代的なものは鎌倉時代に始まると考へられるのである。近代的なものの一つの特色は理性的といふことであるが、此の集の表現はその理性的なものを十分に含んでゐるのである。建春門院中納言日記とても、近代性を帯びてゐるわけであるが、それは観察と感情とがお互ひにすくみ合ひ、うまく融け合はないといふ未完成さを示してゐるやうに思はれる。
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