二 集の前半
思ひ出はやんごとなき御あたりの御事から始めまつつてゐる。承安四年正月一日、
中宮の御方ヘ、内の上わたらせ給へりし、御引直衣の御姿、宮の御もののぐ召したりし御様などの、いつと申しながら、目もあやに見えさせ給ひしを、物の通りより見参らせて、
心に思ひし事、同じ春にや、
建春門院、内裏に暫しさぶらはせおはしまししが、この御方ヘ入らせおはしまして、八條二位殿御まゐりありしも、御所にさぶらはせ給ひしを、みくしげ殿の御うしろより、おづおづちと見参らせしかば、女院、紫の匂の御衣、山吹の御うはぎ、桜の御こうちぎ、青色の御唐衣、蝶を色々に織りたりしを召したりしかば、いふ方なくめでたく若くもおはします。宮はつぼめる色の紅梅の御衣、かば桜の御うはぎ、柳の御こうちぎ、赤色の御唐衣、みな桜を織りたる召したりし、匂ひあひて今更めづらしく、いふ方なく見えさせ給ひしに大方の御所の御しつらひ、人々の姿ことに輝くばかり見えし折、
心に覚えし事、建春門院崩じ給うて、御手づから御経書かせおはしまして、内裏にて御八講の行はれた事、いつの年にか、月あかかりし夜、上の御笛ふかせおはしまししが、ことに面白く聞えさせ給ひしをめで参らせた事などを記し奉つてゐる。
平家の人々に就いては、先づ維盛の美しい姿を、
ふた藍の色こき直衣指貫、若楓のきぬ、そのころのひとへ、常のことなれど、色ことに見えて、警護の姿、まことに絵物語にいひたてたるやうに美しく見えしを、
と記し、又、重盛は大臣の大将、弟の宗盛は右大将にて、「いきほひゆゆしく見えしかば」といつて、平家の全盛時代を忍んでゐる。
資盛との関係に就いては
朝夕、女どちのやうに交りゐて、見かはす人も数多ありしなかに、とりわきとかくいひしを、あるまじの事やと、人の事を見聞きもて思ひしかども、契りとかやはのがれがたくてや、思ひの外に物思はしき事そひて、さまさま思ひ乱れ、
それより夕日の梢を包むにも、きりぎりすの声も、尾花が袖の露も、物あはれに眺められるのである。資盛の美しい姿に就いては、
雪の深く積りたりし朝、里にてあれたる庭を見出して、今日こん人をと眺めつつ、うす柳の衣、紅梅のうすぎぬなど着てゐたりしに、枯野の織物の狩衣、蘇芳のきぬ、紫の織物の指貫きて、ただひきあけて入り来りし面影、我が有様には似ず、いとなまめかしく見えしなど、常は忘れがたく覚えて、云々。
と記してゐる。「今日こん人を」とは拾遺集に「山里は雪降りつみて道もなし今日こむ人を哀とはみむ」とあるのによる。又資盛と語らひそめた当初の初々しい気持を叙して、いみじうつつましく、朝夕見かはすかたへの人々にも、まして男たちにも知られなば、いかにとのみ悲しう覚えたと記してゐる。
其の他宮仕中の思ひ出は多いのである。太皇太后宮より面白き絵どもを、中宮の御方へまゐらせ給ヘりしなかに、昔父のもとにあつた時、人が言葉を作者にかかせた絵も交つてゐて、そぞろにあはれを感じたこともあり、花の盛りに月あかかりし夜、あたら夜を、ただにてやあかさんとて、権のす維盛朗詠し、笛ふき、つねまさ琵琶ひき、御簾の内にも琴かき合せなど、面白く遊んだこともある。又、宮のまうのぼらせ給ふ御ともして、帰りたる人々、物語せしほどに、火も消えぬれば炭櫃の埋火ばかりかき起して、同じ心なるどち、四人ばかりと、さまざま心の内どもを語つてゐると、宮のすけ重衡がやつて来て、例のあだ言も、まことしき事もさまさまをかしくいひて、我も人もなのめならず笑ひつつ、果ては恐しき物語どもをしておどされしかば、みな汗になりつつ、今は聞かじといひしかど、猶々いはれしかば、果ては衣をひきかつぎて聞かじといひてねたといふやうな、面白くをかしい事もあつたし、治承の頃にや、豊明のころ、上西門院の女房、物見にまゐられたりし、とりどりに見えしなかに、小宰相殿といひし人の、鬢・額のかかりまで、殊に目とまりしを、年頃心にかけてゐた人が、思ひの外に通盛の朝臣にとられて嘆くと聞き、げに思ふもことわりと同情して、その人に、歌を送つたこともある。
悲しき母の思ひ出もある。四十九日になつて母の着てゐた衣などとり出して、あるは籠り僧にとらせ、あるはあせう上人に奉りなどせしに、衣の皺までも、母の着てをつた時のままで、面影もいとど悲しかつたといふ。
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