三 集の後半
寿永二年の思ひ出は、作者にとつて言語に絶するのである。「夢とも、幻とも、哀れとも、何ともすべてすべていふべき際にもなかりしかば、よろづいかなりとだに、思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ今までも覚ゆる」といひ、七月廿二日木曽義仲は琵琶湖を渡り、叡山まで押しよせてきたので、平家の一門は西海に落ちて行つたが、其の時の事は「とかくいひても、思ひても、心も詞も及ばれず」といつてゐる。資盛は忍びに逢ひに来て、かかる世の中の騒ぎになりぬれば、只今にもはかなき数にならんことは疑ひなき事である、さやうな場合、露ばかりの哀れはかけて下さるでせうか、たとひ何とも思はずとも、かやうに慣れ親しくしてきた年月の情として、必ず後世の菩提を弔うて頂きたい、若し今暫らくの命ありとも、あなたと親しくしてゐた身といふ事も忘れるやうに努めよう、その故は親しき人の事など思ひ立ちなば、心弱さも出て来て思ふ限りもはたらけないであらうから、いづくの浦からも文は送りません、なほざりにて音づれもせぬと覚すな、今より後は万に心を新たにしようと思ふが、ともすればもとの心になりさうであるのは、残念であるなどとかきくどくのである。作者はげにさる事とは思ひながら、涙の外にはいふべさ言葉もなく、夢の中の夢のやうな別離をつげ、誰もこの哀れを言ひ思はぬ人はないが、我が心の友もないからとて人にもいはず、ただつくづくと思ひつづけ、胸にも余れば仏に向つて泣き暮すより外はない。
いはん方なき心地にて、秋深くなりゆく景色に、まして堪へてあるべき心地もせず、月のあかき夜、空のけしき、雲のたたずまひ、風の音ことに悲しきを眺めつつ、行方もなき旅の空、いかなる心地ならんとのみ、かきくらさる。
夜のあけ、日の暮、何事を見聞くにも、片時の思ひたゆむ事なく、何卒して、せめては今一度かく思ふ事をいはんと思ふが、決してかなふまいと思ひ悲しむのである。源氏の大軍が西へ下ると聞くにつけても、いかなる事をいつ聞くかもわからないと悲しく、心憂く、泣く泣くねたる夜、資盛が、
常に見しままの、直衣姿にて、風のおびただしく吹く時に、いともの思はしげに、うち眺めて
ゐる夢を見て、今もげに風に吹かれて立つてゐるのだらうかと思ひやられるのであつた。余りに心を動かす事の多かつた名残にや、身もぬるみて心地もわびしければ、さらば命絶えなんと思ふが、つれなくて過した。
あくれば寿永三年、物詣のかへさ、梅の花のなのめならず面白き所に立ち入りて、あるじの聖の語るを聞けば、此の花を年毎に占め結ひて恋ひめでし人の、今年はなくて花も徒らに咲くのが哀れであるといふ。その人は誰かと問ふと、それと確かに名を告げるにも、かき乱り悲しくなるのである。その頃聞けば空しく討死した人の数も多く、捕へられて渡される人々の名を誰々といふのを聞くにも、現にや夢にやと迷はれるのである。一の谷で捕へられた重衡の三位中将は京へ上つて来たが、作者は親しくしてゐた事とて、いかなる報いぞと気の毒に思ひ、見た人の話では「御顔は変らで、めもあてられぬ」との事で、心憂く悲しく思はれた。又維盛の三位中将は熊野で身を投げたと聞き、あの美しかつた公達がまあと、作者は今更ながらありし日を思ひ出すのである。
かたち用意、誠に昔今みるなかに、ためしもなかりしぞかし。されば折々にはめでぬ人やはありし、法住寺殿の御賀に、青海波舞ひての折などは、光る源氏のためしも思ひ出らるるなどこそ、人々いひしが、花の匂ひもげにけおされぬべくなど、聞えしぞかし。その折折の面影はさることにて、見慣れし哀れ、何れもといひながら、猶ことに覚ゆ。
二人の兄弟を失つた資盛の心中を思ひやりながら、たよりを求めて文をやると、資盛からもしみじみとした返事をよこしたが、又の年(文治元年)の春には、哀れ二十八歳を一期として、壇の浦の藻屑と消えたのである。其の程の気持は、
なにとかいはん、みな兼ねて思ひし事なれど、ただほれほれとのみ覚ゆ。余りにせきやらぬ涙も、かつは見る人々にもつつましければ、なにとか人は思ふらめと、心地のわびしきとて、引きかつぎて、ねくらしてのみぞ、心のままに泣きすぐす。いかで物を忘れんと思へど、あやにくに面影は身にそひ、言の葉ごとにきく心地して、身をせめて悲しき事、いひつくすべきかたなし。
ただ胸をせきあげ、涙にあまる思ひばかりであるが、悲んでゐても甲斐なき事なればとて、故人の冥福を祈らうと、
反故えり出して、料紙にすかせて経かき、又さながら打たせて、文字の見ゆるがまばゆければ、裏にも物おしかくして、手づから地蔵六体、すみがきにかき、
心ざしばかり営むが、それも人目をつつむのである。
流石に積りにける反故なれば、多くて、尊勝陀羅尼、なにくれ、さらぬ事も多く書かせなどするに、なかなか見じと思へど、さすがにみゆる筆の跡、言の葉も、かからでだに昔の跡は涙のかかるならひなるを、目もくれ心も消えつつ、いはん方なし。
流石に積つた文柄、筆の跡も言の葉も鮮かで、討死などいふ事がなくても、交はした文は涙の種であるのに、これはましてと目もくれ、心も消えるのである。
夏深き頃、常にゐたる方の遣戸は、谷の方にて、みおろしたれば、竹の葉は強き日によられたるやうにて、まことに土さへさけて見ゆる、世のけしきにも、わが袖ひめやと、又かきくらさるる日ぐらしは、繁き木ずゑにかしがましきまで鳴きくらすも、ともなる心地して、
観察の細かさ、感情移入の深さを見るべきであらう。北山のあたりに風流な資盛の山荘があつて、花の盛り秋の野辺など見には常に通つたが、今はある聖のものになつてゐる。
忍びてわたりてみれば、面影はさき立ちて、又かきくらさるるさまぞ、いふ方なき。み垣つくろはれし庭も、浅茅が原、蓬が杣になりて、葎も苔もしげりつつ、ありし景色にもあらぬに、植ゑし小萩は繁りあひて、北南の庭に乱れ伏したり。藤袴うちかをり、ひとむら薄もまことに虫の音しげき野辺と見えしに、車よせておりし妻戸のもとにて、ただひとり眺むるに、さまざま思ひいづる事などいふも、なかなかなり。
既に人手に渡つてゐる事さへあるに、庭は秋の野らの如くに荒れはててゐる、すべてが廃滅、空虚に思はれるのである。又物へまかりし道に、昔の跡の煙になりにしを見れば、礎ばかり残りたるに、草深くて秋の花ところどころに咲き出て、露うちこぼれつつ、虫の声々乱れ合ひ、まざまざと廃墟を見せつけられるのである。それから、大原におはします、建礼門院をお尋ね申上げる。
やうやう近づくままに、山道の景色より、先づ涙はさきだちていふ方なき、御庵のさま御すまゐ、ことがら、すべて目もみあげられず、昔の御有様見参らせざらんだに、大方のことがら、いかがこともなのめならん、まして夢うつつともいふ方なし。秋深き山おろし、近き梢にひびきあひて、筧の水の音づれ、鹿の声、虫のね、いづくもの事なれど、ためしなき悲しさなり。都ぞ春の錦をたち重ねてし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へ果てたる墨染の姿にて、僅に三四人ばかりぞさぶらはるる、その人々にもさてもやとばかりぞ、我も人もいひ出でたりし、むせぶ涙におぼれて、すべて言もつづけられず。
かかる御有様を見参らせては、いかでか都へ帰られようかと世を厭ひ、心ばかりは山深くとどめおきてやがて、住むべきしるべとするのである。扨も心の悲しさは慰めん方もなきままに、遠き所を思ひ立ち、比叡の坂本わたり、雪はかきくらし降りたるに、都は遥かに隔りぬる心地して、心細く夜ふくるほどに、雁の一つら、居たる屋の上を過ぎ行く音のするにも、すずろにしをしをと涙こぼれるのである。ここにてつくづくと行ひあかし、ただ一筋に亡き人の後世をのみ祈るにも、甲斐なき事のみ思はれるのである。
そともを立ち出でて見れば、橘の木に雪のふかくつもりたるを見るにも、いつの年ぞや、大内にて雪のいとふかくつもりたりし朝、宿直姿の、なへばめる直衣にて、この木にふりかかりたりし雪を、さながら折りてもちたりしを、などそれをしも、折られけるにかと申ししかば、我たちならす方の木なれば、契りなつかしくてといひし折、
ただ咋日今日の心地がして悲しさはいひやうもない。十二月一日ごろにや、夜に入りて雨とも雪ともなく打ち散り、むら雲さわがしく、衣うちかつぎて臥したが、丑二つばかりにやと思ふころ、空を仰いでみるとよく晴れ渡つてゐて、
あさぎ色なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなくいでたる、なのめならず面白く、花の紙に箔をうち散らしたるによう似たり。今宵始めて見初めたる心地す。
如何に華麗なる感覚の現れであらうか。日吉に参るに、雪は輿の前板にこちたく積り、通夜をすまして帰る曙の道にも、簾垂をあげたれば袖にも懐にも横雪に入りて、袖の上は払へども、やがてむらむらと氷る面白さ、何事も見せばやと思ふ人のないのを悲しむのである。さるにても此の美的感受の仕方は、正に新古今的な妖艶さをもつてゐる。外面なる鳴子の音、氷りがちなる谷川の水、志賀の浦も氷りつつ、寄せくる波は再び立ち返らぬ心地がする。水海の面は深緑に黒々と恐しく、
雲路に漕ぎ消ゆる小舟の、よそめに、波風荒らく、なつかしからぬ景色にて、木草もなき浜べに、堪へ難く、風は強きに、いかにぞ、波に入りにし人の、かかる渡りにもあると、思ひのほかに聞きたらば、いかに住みうきわたりなりとも、とどまりこそせめとさへ、案ぜられて、
あの人の亡き後、自分はこんな寂しい景色を眺めてゐる、若しこんな事が仮にもあの世にゐるあの人に、思ひの外に伝はる事もあらば、いかに住み憂き此の世なりとも、こんな寂しい目を見せるには忍びないとて、いつまでもあの人の魂がこのわたりにさ迷ひとまり、往生の妨げともりなんと案ぜられるのである。
あくれば文治二年、二月十五日の涅槃会に誘はれて参り、釈迦仏入滅の折のことなど、僧の語るを聞くにも、物哀れに覚えて涙もとどまらない。さほどの事はいつも聞きしかど、此の頃聞くは、いたく沁々感じられて物悲しく、涙もとまらぬのは、命ながらふまじきにやと思はれるが、それはさして嘆かしくもない。三月廿日あまり、資盛の水の泡となつた日であるから、心一つに後のわざを営むにつけても、わが亡き後は誰がこれ程にあの人の事を思ひやるであらうか、我が身の亡くなる事の悲しさよりも、あの人を思ふ人の無くなる事が悲しいと、しくしくと泣くより外はない。五月二日は昔の母の忌日にて、心地悩ましかつたが手を洗ひ、念仏を唱へ経をよみ、法師をよびて説経を聴聞するにも、来年の営みは到底できないだらうと思ふと、流石に哀れにて袖もぬれるのである。
四方の梢も、庭の景色も、みな心地よげにて青緑なるに、何となき小鳥どもの囀る声々も思ふ事なげなるにも、先づ涙にかきくらされて
羨しく、晴れたる空もかきくらされるのである。
〇
かくて心より外の命をいとはしく思ひながら過してゐる内、建久六年の頃にや、再び出でて大内に奉仕することとなつたが、思ひ出の数々はつきないのである。
藤壺のかたざまなど見るにも、昔住みなれし事のみ思ひ出られて悲しきに、御しつらひも、よのけしきも、変りたる事もなきに、ただわが心の内ばかり、くだけまさる悲しさ、月の隈なきを眺めて、覚えぬ事もなくかきくらさる。昔軽らかなるうへ人などにて、みし人々重々しき上達部にてみなあるにも、とぞあらまし、かくぞあらましなど思ひつづけられ、
高倉天皇の御気色に、いとよう似まゐらせさせおはします上の御有様にも、数ならぬ心の内ひとつ、堪へがたく、来し方恋しくも思はれるのである。とにかくに物のみ思つづけられて、見出したるに、斑なる大の、竹の台のもとなどしありくが、昔御使などに参りたる折々、呼びて袖をうちきせなどすると、見知りて慣れむつれ、尾をふつてゐた犬に、よく似てゐる犬を今見るのも、そぞろに哀れを催すのである。又、
人の愁へ申す事のあるを、さるべき人の申し沙汰するを聞けば、後白河院の御時、仰せ下されけるなどして、さめやらぬ夢と思ふ人の、蔵人頭にて、書きたりけるとて、その名をきくに、いかが哀れの事もなのめならん。
「さめやらぬ夢と思ふ」資盛が、後白河法皇の仰を奉じ、蔵人頭として手づから書き与へた券が、今や訴訟の証拠として持ち出されたのである。建久九年五月には宰相中将源通宗が身まかられ、正治元年七月には中納言平親宗が薨じたが、何れも親しい人々であつた。さて建久三年十一月廿三日、後鳥羽上皇は藤原俊成に九十賀を賜はつた。その折の袈裟の歌は師光入道女宮内卿に召され、作者は之を紫の糸にて縫ひとりにして参らすべき由仰せ下された。作者は「道の面目なのめならず」感激を深うするのである。
かくて「返す返す、憂きより外の思ひ出なき身ながら、年は積りて、徒らにあかし暮す」程に、思ひ出でらるる事どもを、少しづつ書きつけたのが此の集であると記し、さて老の後に民部卿定家が歌集むる事ありとて、書き置きたる物やと尋ねられ、人数に思ひ出でられたる情を有難く覚え、あまつさへ作者名はいかに掲ぐべきかを問はれた思ひやりを、いみじう嬉しう思ひ、猶ただ隔て果てた昔の事が忘れ難いので、建礼門院右京大夫としてほしいと申入れたのである。これは文暦元年定家が新勅撰集を撰んだ時で、作者は既に七十の高齢に達してゐたであらう。
校訂者注)「親しき人の事」、底本は「親きし人の事」。誤植と見て訂正。
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