一一 詠嘆と慨嘆
一 信生法師日記
作者は鎌倉の将軍源実朝に仕へた塩谷五郎兵衛尉朝業である。承久元年正月廿七日、実朝が不幸にして公暁の弑害に遭つたので、御台所は落飾し、親近の御家人百余人も亦哀傷の情に堪へないで出家した。朝業は単に御家人としてのみならず、和歌の道に於ても実朝に親近してゐたので、当然出家の人数に加はる筈であつたが、故郷下野国塩谷の館には母の無い八つの女の子、七つの男の子が父の帰国を待ち佗びてゐるので、一旦在俗の姿で帰館した。愈々出家の決心を心の内にきめると、その気色がおのづから顔色にも現れ、二人の子供は「母なきだにわびしきに、父さへ打ち捨てて無くば、いかにせんなどいひて、持仏堂の内に姉弟入りて、仏に、父とどめ給へ」と祈るのである。之を見て朝業は恩愛の絆も断ちがたく、あはれに心細く覚えるが、勇を鼓して家を出た。一日の行程を行つて泊つてゐると、八つの女の子から、
恨めしや誰をたのめて捨ててゆく我を思はばとく帰りこよ
といふ歌を送つて来た。朝業は
はぐくみし母もなき巣のひとり子を見捨てていかが帰らざるべき
の歌を返したが、決心を翻すこともなく、京に上つて本懐を遂げ、信生法師と号した。
それから六年の歳月が流れて、嘉禄元年(元仁二年)二月十日頃、信生法師は修行の為、京を立つて東海道を下つた。二月廿九日鎌倉に着いて実朝の菩提を弔ひ、信州に出て姨捨山のほとりに謫居してゐる旧友の伊賀光宗を訪れ、善行寺に詣で、再び鎌倉に入つて二位の尼の新しい喪にあひ、それより故郷に帰つて見ると、今年は妻が亡くなつてから十三年になり、女の子は十四男の子は十三になつてゐた。二人の子供は自分たちもさまを変へ、父と共に京に上り、お傍で給仕したいと泣いて訴へるので、流石にあはれに覚えたが、之を振り捨てて、今は「此の世にて又見ることもあるまじきぞかし」と思ひ、恩愛の絆を断ち、心強く出で立つたのである。
日記は元仁二年、修行の旅に出で立つた事から記し、先づ小野の宿に泊り、遊君どもの有様を見て、
殊にあはれ也。世をわたる道、いづれも苦しきならひなれば、ただうはの空なる世をたのみ、契らぬ人を待つより外のことなく、かくしつつ罪のつもりもいとほしう、
と宗教家的な同情を示し、又世間の無常を説いて、
大方、仏の説き給へる事は、万づ疑ひなき中にも、世の中の有様、老少不定なるならひ、かくものがれぬ無常ども、昔より今にいたるまで、目の前にたがはぬにこそ、いとどまこともあらはれて、まだ見ぬ地獄極楽の事も思ひ知らるれ。
といひ、又後世をはげむべき事を説いて、
たまたま受け難き人界をうけて、極めてあひ難き仏教にあひながら、かくしつつつ空しくあかし暮して、又三途のふるさとに帰りて、諸の苦を受けん時、天に仰いで悲しび、地に伏して嘆くとも、誰か助くる人あらん。
といつてゐる。これは平家物語・祇王に「人身は難受、仏教には遇ひがたし。この度泥梨に沈みなば、他生曠劫を隔つ共、浮び上らん事かたかるべし。老少不定のさかひなれば、年の若さを非可頼、云々」とあるのと同じ思想である。宮路山を過ぐるにも、昔は何とも思はなかつたが、今は昔にかはる身の有様なれば、何となく物さびしく、松風も身に沁むのである。池田の宿、小夜の中山を過ぎ、菊川にて行宗中納言を忍んで袖をうるほし、泊を重ねて鎌倉に着き、二位殿の持仏堂に入りて念仏を唱へた。春雨のどかなるタ暮に、思ふことなげに咲きたる花を見るにも、過ぎにし方が思ひ出され、月の夜実朝の墓に通夜すれば、面影は只今も向ひ奉りたる心地がするが、昨日今日と移り行く夢を数へてみると、はや七年となる。今更ながら実朝のなさけが沁々と回顧されて、
君となり臣となる契り、世々に深しといひながら、殊に忘れ難きは、花、郭公、月、雪の折々の御なさけなり。あまねきまじはり、冬の雪よりも積りにしものをや。
といひ、信濃に伊賀光宗を訪れる所は、
沈むらん心の内もいとほしう、かかる折こそ、心のなさけはと思ひてまかるに、その所に尋ねいたりて見れば、あやしげなる萱屋の、昔の有様思ひ出づるに、門の辺にあるをのこいかなる乞食やらんと思ひつるさまにて、かくとも思ひよりげなきに、見知りたるをのこ出で来て、急ぎ入りてかくといへりければ、あるじ出て、かたち驚けるさまにて出であひたり。先づ涙のみ先だちて、うち出づべき言も覚えず。あるじ、かかる古屋の内にて、短き春の夜もあかし難う、秋の日も暮しがたくて、思ひ過ぐす心の内、ただおぼしやれ、身にそふ物とては、昔の面影も、今はましていかでかと思ひつるに、憂きに堪へたる命のつらさも、今こそうれしうなんといふ。誠にさこそはと、あはれにおしはかる。幼き子の、かかる事も思ひも知らず、まづは遊ぶに泪ぐみつつ、同じ様にて立ちも出でぬべき心地して、羨しけれど、この身にて世の恐れも多く、またかかるほだしさへ振り捨て難くて、心の闇はさこそまどふらめと、あはれ也。命あらばとて、後会をたのめて出でて、
と記してゐる。二位の尼の薨去にあふにつけても、無常の痛感せしめられて、
有為無常のことわり、これに驚くべきにあらねど、秋必ず修行と仰せられし事思ひ出でられてまどひの涙、一たび苔の袂をうるほして乾き難し。市にまじはり、山に隠れても、終にのがれざりける道なれば、神に祈り仏に憂ふるも甲斐なし。なかにも矛の先を退かず、盾の面に身を捨てむと、かへりみた(さ?)る物のふのたぐひ、その数仕へ奉れども、無常の仇をば、靡かさざりけるならひなれば、空しき屍をのみ送り奉りて、富士の高嶺の雲と見なし奉りし事こそ、あはれに悲しく侍りしか。
と記してゐる。命を惜しまぬ武士も、無常を防ぎ得ないといふのは、もとが鎌倉の武士であつた作者だけに面白い。
此の日記に示されてゐる感情は、今更ながら感慨に堪へぬといふ詠嘆の驚きである、それは知識を羅列し、古典を引用し、歴史をなつかしむ態度であり、対句を用ゐ七五調に綴り漢語を用ゐるといふ表現が、最も適してゐる所のものである。これは思想的感情ともいふべきものであつて、鎌倉時代の文学一般に通ずる傾向であらう。此の日記に示されてゐる情的要素は、主従・朋友の情であるが、それも強い詠嘆の心で押し包まれてゐる。又鎌倉滞在中の記事に「漢才をもて和才をやはらぐることわり」といふ文字が見えてゐるが、この和漢調和の文化意識の如きも亦、ああといふ詠嘆的色彩を濃厚に帯びてゐるのである。かくて平安朝の作者に見るやうな個人的な気分は、此の時代に至つて詠嘆にまで進んで来たと見られよう。(本文は、新潮社の日本文学講座の中に収められ、佐佐木信綱博士の解説が附せられてゐる)
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