二 十六夜日記
作者の阿仏尼は平度繁の養女で藤原為家の後妻となり、為相・為守を生んだ。建治元年為家に先立たれ、十三歳の為相と十一歳の為守とを抱へて寡婦となつた。為家は生前遺言して、播州細川の荘を為相に伝へることにしておいたが、前妻の子為氏が之を押領して渡さないので、東の亀の鏡にうつさば、曇らぬ影もやあらはるると訴訟を思ひ立ち、「よろづのはばかりを忘れ身をえうなきものになし果て」て、建治三年十月十六夜の月にさそはれ、ゆくりもなく京を立つて鎌倉に下つたのである。足掛け四年鎌倉に滞在したが、遂に目的を達しないで、弘安三年夏秋の頃、再び京に帰つたやうである。
日記の内容は、旅を思ひ立つまでの事情、京を立つて鎌倉に下り着くまでの紀行、鎌倉滞在中の事などを記し、最後に訴訟の勝利を鎌倉八幡に祈願した長歌を載せてゐる。女の身として鎌倉まで下つて訴訟を起すといふことは、それこそ万の憚を忘れ、身をえうなきものになし果てなければ出来ない所である。之を平安朝の日記作者に比較すると、よほど男まさりの、理智的な実行力のある女性であつたといへよう。
日記の冒頭は「昔、壁の中より求め出でたりけむ書の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上の事とは知らざりけりな」と記して為氏の不孝を慨嘆し、次いで「甲斐なきものは親のいさめなり」といつて、親の遺言の権威が行はれないことを嘆き、次に「賢王の人を棄て給はぬ政にももれ、忠臣の世を思ふ情にも捨てらるるものは、数ならぬ身一つなりけり」といつて、身の不運をかこつてゐる。かやうに此の日記が、慨嘆の情で文調を導いてゐる点は、信生法師日記と比較して、嘆きの対象こそ異れ、精神的態度そのものは全く同一で、詠嘆にせよ慨嘆にせよ、嘆くといふ事が、此の時代の新しい文学精神であつたと見られる。
次に日記には、訴訟に就いて、自分の側の正義といふやうなものを述べてゐる。即ち先づ和歌の道は「まこと少く、あだなるすさびばかり」と思ふ人もあるが、その起源は神代に遡るものであり、その機能は「世を治め、物をやはらぐるなかだち」となるものであると、此の道の聖たちは記してゐるといつて歌道の権威を説き、次に定家・為家は各勅撰の詔を一生に二度も奉じてゐるといつて、此の家が歌道の宗家であることを説き、次に「其の後にしも携はりて三人の男子ども、百千の歌の古反故どもを、いかなる縁かありけむ、あづかりもたる事」ありといつて、自分の子に宗家の伝統が伝はつてゐることを主張し、扨て次に「道を助けよ、子をはぐくめ、後の世をとへとて、深き契りを結びおかれし細川の流れ」といひ、細川の荘は一には和歌興隆の為、二には子供の養育のため、三には後世を弔ふ料として阿仏・為相の側に残されたものであるから、明かに自分たちの側に属すベきものであるのは勿論、之を主張するのは単なる私事ではなくて、歌道を興すといふ公事であると論じてゐる。此の秩序立つた正義観がか弱き阿仏を奮ひ立たせたのであるが、一面にはお家騒動たるの性質をも備へてをつて、母の子に対する真心は大いに認められるけれども、それと同時に継子いぢめの起る素地が十分に含まれてゐるのである。されば此の日記を単純に母性愛の側から特色づける事は躊躇されるのであつて、やはり男まさりの、理性的な、実行力のある女性の日記と見た方がよからう。
然しながら何をいふにも涙もろい女性のことであるから、いざ出立となると心細く悲しいのである。頃はみ冬立ち初めて、定めなき空なれば、降りみ降らずみ、時雨も絶えず、嵐に競ふ木の葉さへ、涙と共に乱れ散りつつ、事にふれて心細く悲しく、大人しい為相を見れば却つてしをたれて了ひ、幼い為守を見れば、之を振り捨てて去つた後、どんなに寂しがるであらうかと、あながちに思ひ知られるのである。
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猶この時代の日記紀行としては鴨長明の伊勢記、源家長の日記、海道記、東関紀行、弁内侍日記、中務内侍日記、阿仏尼のうたたねの記、飛鳥井雅有の峨峨のかよひ・都のわかれ・春のみ山路などがあるが、ただ書名をあげるに止めておく。
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