一二 吉野朝室町時代の日記紀行
吉野朝室町時代の日記紀行としては、次の如きものがある。
竹むきが記 二巻 日野資名女 史籍雑纂第一に収む
都のつと 一巻 宗久
大神宮参詣記 一巻 坂士仏
小島の口すさみ 一巻 二條良基
道ゆきぶり 一巻 今川貞世
なぐさめ草 一巻 正徹
室町殿伊勢参宮記 一巻
伊勢紀行 一巻 堯孝
藤河の記 二巻 一条兼良
筑紫道記 一巻 宗祇
北国紀行 一巻 堯恵
回国雑記 一巻 道興 准后
東路のつと 一巻 宗長
宗長手記 一巻 宗長
高野参詣日記 一巻 三條西実隆
東国紀行 一巻 宗牧
吉野詣記 一巻 三條西公條
富士見道記 一巻 紹巴
九州道の記 一巻 細川幽斎
此等の日記紀行に著しい傾向は古典主義がはつきりと現れてゐる事で、物語文を模倣し、古歌を引用し、「あはれ」「物さびし」を常套語としてゐる。対句を用ゐた雄健な文章で詠嘆・慨嘆・感激を記してゐる点は、鎌倉時代の文章の遺風であると考へられるが、宗祇以後の文はなだらかになつて一種のおちつきを示してゐる。日記が少くて紀行が多いのは、戦乱を避けて公卿・連歌師が四方に遊んだ事が一つの原因となつてゐるであらう。鎌倉時代の紀行は京と鎌倉との往復を記してゐたのに対し、この時代の日記は京を中心として四方に旅行してゐる点が変つてゐる。
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坂士仏の大神宮参詣記は(実はその父十仏の作とされてゐる)興国三年十月、大神宮に参拝し、神域の神々しさ、参拝の感激などを記し、又度合家行に会つて口づから神道を伝授され、其の要旨をかいつまんで記し、又丹後国佚文風土記に見える奈具社の伝説を記してゐる。北畠親房が同じ家行の類聚神祇本源十五巻を借覧抄出したのは延元二年九月、興国三年はそれより五年の後である。
外宮にては五百枝の杉と申す霊木のもとにて拝み、内宮にては二の鳥居の内まで参りて拝み奉り、神域の神々しさに就いて、
参宮の道すがら、更に人間とは覚えず、あらぬ境に生れかはれる心あり。古松老檜の年をへたる、かげ森々としてものさびしく、瑞花異草の霜に残れるよそほひ、茸々としていとあはれなり。
と記し、又、
山田より内宮へ参る道すがら、賎しき筆のはしにて述べがたし。或は水煙山を浮べて影を重溟にさかさまにせる処もあり、或は雲気みちを埋みて峯を山嶺にかくす処もあり。
と記し、歩々感激を加へて、
檜原がくれのこぶかき陰を、遥かにわけ入る程に、道は人煙を離れて、忽ちに有漏の境を遁れぬるかと覚え、山仙雲に隣りて、既に無河の里に至れるかと疑ふ。二の鳥居の内まで参りて拝するに、山下松くらくして、百枝の梢は何れともわきまへがたく、宮中の杉いよやかにして、千木のかたそぎもさだかに拝まれ給はず。
と記し奉つてある。又、荒れ果ててゐる斎宮の御跡に参りて、
斎宮と申すは、絶えて久しき跡なりしを、近頃再興あるべしとて、花やかなる風情などありしかども、芳野山の桜、常なき風にさそはれ、嵯峨野の原の女郎花、あだなる露にしをれしかば、野宮の名のみ残りて、斎宮の御下りにも及ばず、神慮のうけおぼしめさぬ政なりけりとは、此の時こそ思ひ合せ侍りしか。
と、強い慷慨の情を示してをり、又、風の宮へ参りて、
莓(こけ)ふかき、岩ね伝ひの道をしのぎて、真木の葉のおくなる宮居にまうづ。造替あるべき月日も過ぎぬれば、甍破れて雨殷栢のもとにしたたり、軒傾きてあらし夏松のかげをはらふ。天下の兵革は王道の衰微なりと嘆き侍りしに、世上擾乱は宗廟の荒廃にも及びけれと例の涙袖にあまる程なり。
と、ここでも慷慨の涙を流してゐる。さうしてかかる慷慨の情は、甍破れて……軒傾きて……といふやうな対句によくうつるのである。(群書類従二七)
室町殿伊勢参宮記は、応永卅一年十二月十日余り、室町殿の参宮に扈従したものの歌日記である。坂の下といふ所にて、「此所よりは既に伊勢の国にて侍るぞかしと、いつしか神に近づき奉るをたのもしき心地」し、十七日参宮、まづ御池の水を結び、瑞籬の外にて二拝、御裳濯川の流れに心も澄みわたり、楠木のもとにて二拝、風の宮に参り、神馬など拝見して云々とある。(続群書類従五二四)
堯孝の伊勢紀行は、永享五年三月将軍義教の参宮に扈従した時の紀行である。日は清くうららかにて、そこはかとなく霞みわたれる朝気の程のすがすがしさ、残月朧々として川音さやかに聞える道々の風光を叙し、廿日参宮の條に、
抑々御神、五十鈴の川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知り、下つ磐根に大宮柱広敷きたてて、しづまりまします事は、世を守り、国を保ち、人をはごくむ御ちかひなるべし。
と記し奉つてゐる。(群書類従三三四)
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二条良基の小島の口すさみは、正平八年七月廿五日京を立ち、後光厳院のおはします美濃国垂井宿小島に参つて奉仕し、まもなく京都へ還らせ給ふに供奉した次第を記してゐる。折ふし作者はわらはやみ(おこり)を煩つてゐたので、
いとど露の命もけぬべき心地して、物心細かりしかば、よろづにまじなひ、年老いたる大徳など語らひて、さるべき符つくり、加持などせしかど、猶怠らず、げにししこらかしぬるよと、思ひやる方ぞなかりし。
と記してゐるが、これは明かに源氏物語・若紫巻によつて文を綴つたものである。坂本に着いて、
山法師はかひがひしきものにて、殊の外に待ち喜ぶ。草のむしろ、露うちはらひて、今宵のおましは此の坊にと経営せしかば、その夜はかくてあかしぬ。
山法師に歓迎された様が躍如としてゐる。次の日は発作が起つて徒らに眺めくらし、あくる朝舟を出して向ひの岸についた。
この渡りは程なかりしかど、小舟のくりくりとするやうなるに、乗りたる心地、いとむくつけし。
小舟のさまが面白い。美濃に着いてから、折ふし、所のさま、取り集めて物あはれであつた。都より参れる殿上人などは、おのがさまざま打ち群れて、ここかしこの名所などへ行きて遊び侍りしかど、作者は、
なほ心に茂る八重葎の露けさに、さやうの友にだにさそはれず、あかし暮すも、ただ我が身ひとつの秋とのみ覚えて
慰めがたく、しんによ養老の滝などへ行きて、かの流れに触れぬれば、疾もやがて癒え侍る由人々申しあひしが、
さやうの所へもさし出でず、夜深き砧の音など聞えくるにぞ、人のすみかありとも覚え侍りし。ねざめの里とかやいふも、此のわたりぞかし。げにあかしかねたる草の枕は、ことわりすぎたる秋の夜なり。
といふ風に、平安朝の物語的な情趣を追ふのである。
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今川貞世(了俊)の道ゆきぶりは、建徳二年九州探題になつて下つた時の紀行である。二月廿日の夜京を立ち、陸路をゆるゆると下つて、十一月廿九日長門の国府を出て、赤馬の関に移つたとある。冒頭は、
如月廿日の夜深く、霞みつつ山の端近き月影に、中なる川うち渡す程、袖のしづくいと所せき旅の、衣の朝立ちそむるだに、かくしをれぬるに、まいて行末の八重の汐路の櫂のしづく、思ひしられたり。
とあつて、文調何となく情緒をこめてゐる。全篇また此の如くである。せ川、小屋野などいふ所にて、
下衆どもの物見侍るとて、思ふ事なく、忙がはしからぬけしきも、今は羨しく覚ゆ。
といつて、先づ旅情の寂しきを沁々と感じ、須磨の浦にて、
所さまは、あながちにこれぞと目とどまるばかりの節はなけれども、山かたかけなる家どもの、物はかなげなるに、柴垣うちしつつ、竹のすがきの臥しにくげに見えたるも、かの昔の御まし所のさま思ひよそへられたり。
といひ、地方の風景の目にしみるさまを記し、五月も半ばを過ぎて備後と安芸との境を出て、沼田川にて、
日暮れはてて、夕闇の端山の影も、いとどたづたづしきに、蛍幽かに飛びちがひつつ、何となく物心細きに、この里へ松の火などともして来向ふ火影、川波にきらきらとうつろひて、鵜川たつ心地ぞし侍る。
と、物心細い旅の叙景を試みてゐる。物心細いといふのが、旅情として最も一般的なものである。十月長門に入り、一宮の住吉明神に四首の歌を献り、
願はくは、此の歌の心をみそなはし給ひて、あまがけりても守り給へ。この度かく愚かなる身に、二心なく君に仕へ奉る事、あきらかなる神の道を、一筋に頼み侍りてなるべし。
と、祈願をこめてゐる。(群書類従三三三)
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正徹のなぐさめ草は、応永廿五年三月美濃に下る、くろだといふ所に、ゆかりの人を尋ね、四月伊勢の方へ志して大神宮に参拝し、再びもとの所に帰つて馴染の優婆塞にゆくりもなく巡り遭ひ、五月を迎へ、宿のあるじに求められるままに源氏物語を講じてゐる。此の記の特色は一文の長さが非常に長いことである。例へば、
もとよりかかる世捨人は、いづくかはここと定むべき宿もあらましを、墨の衣あさはかにて、夷の姿にあらざるばかりにて、蝙蝠の鳥にも鼠にもあらぬが如くにして、或は玉のみぎりの貴きにのぞみ、或は民屋の賎しきに至りつつ、世のことわざに従ひ来ぬれば、四十年の波、身にかかるまで、都の内をさらぬことになりぬるなるべし。
これだけが一文である。又この日記の特色は物語的な場面を描写してゐる事である。例へば、
墨股河は美濃尾張の境とかや、岸に打ち望みたれば、船は向ひにある程にて、時うつるまで誘ひゐぬ。とばかりありて、里の子、芹か何か、筐に摘み持たる三四人、翁の老いかがまりたるなどぞ、乗り具して来る。童部の船よりおりかね侍るを、子にや、孫にや、助けおろしなどして、我もいみじう苦しげなるも、何となく哀れにぞ見侍りし。水鳥どもの河洲にむらがり居たる、いと面白し。
の如くである。此の二つの点は謡曲の文に似た趣向である。正徹の和歌は象徴的な歌風を以て知られ、何となく世阿弥に通ふ所があると見られる。(群書類従三三四)
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宗祇の筑紫道記は、文明十二年「都の中も波の音たえず侍れば、草の庵いとど住み難く」なつたので、六月の始め周防の大内政弘をたよつて山口に下り、そのついでを以て九月筑紫を旅行した時の紀行である。出発はあすといふ日の暮に、三條殿(やはり大内政弘の許に身を寄せてゐた三條公敦であらう)から思ひかけぬに使があつて旅衣を贈られ、「これや天の羽衣ならむと薫みちて、墨染に重ねんは身におはずなむ」と記してゐる。長門の住吉神社に参拝して、「文武を守り給へり。此の道は両輪の如し。国家を治めむ人は、此の御神の心を観ずべき事とぞ覚え侍る」と記し、赤間関の阿弥陀寺にとまり、安徳天皇の御影堂を拝し奉り、海を渡つて大宰府に詣で、博多・筥崎を経て香椎潟に遊び、
磯菜摘むあまの子ども、時ならねばや人影も見えず、物さびしき渡りなり。是より野山の中を分け過ぎ、又海際に出で、遥々と見渡したる程、千里の浜ともいひつべし。風烈しく浪高うして物心細きに、小ちき魚の心よげに飛ぶを見るに、これもまた波の下には我より大きなる魚の恐るる多からむと、見るに羨しからず。又貝の殻の浪に随ふを見れば、うち寄せられて海に離るるも愁なし。引かれて海に帰るも喜びなし。すべて生を受くるたぐひ程悲しき物はなし。世はただ苦楽ともに愁也、此のことわりよく身にしられ侍れば、羨しとはただ此の貝の殻をやいふべからん。
と人生哲学を述べ、十月十二日三十六日目に山口に帰つたが、
此の間に遥かなる境を経るに、山川の道難き所なきにあらず、然れども国治り人の心のどかなればにや、巫峡の水わたるに隙なく、大行の路過ぐるに恐れなくして、万に心を伸ぶる旅になん侍る。
と旅の感想を述べてゐる。(群書類従三三八)
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