明治十三年 九歳
一月 学校から帰るとすぐ父の書斎へいって、日本の歴史や、すぐれた人の話、それに伴った歌、弟橘媛の「さねさしさがむの小野に」、義家の「なこその関と思へども」、正行の「かへらじとかねて思へば」というような歌を日に一首ずつくわしい話を聞いた。そうしてそれを歌に詠む「詠史の歌」という、むつかしい歌をも教わった。「いま話しておるのはすぐれた人の歌ばかりであるが、万葉集の東歌には、百姓やその女たちのよんだ歌もある。人の命は長くはないが、よい歌は千年以上も命がある。よむ時には心をこめてよまねばならぬ」と教えられた。
三月 父は福井の三崎玉雲(ぎよくうん)さんから招かれて越前加賀にゆくとのこと、自分は、一緒にゆきたいと無理に頼んで、とうとう行くことになった。それは、父と共に一日二日の旅にゆくと、どこでもそのところどころの歴史や伝説、草や木や鳥や虫の名を教えられ、歩き疲れると連歌をしたり、歌ぐさりをしたり、幸いに歌ができると小さな手帳にかいて直してもらったり、いわば移動学校の教育を受けるようなので、父との同行はこの上ない喜びであったからである。ある時は二人乗の人力車にも乗ったが、歩くことが多かった。津では芝原音信(おとずれ)氏を訪うた。寛居門の生川春明翁の弟子で、おもしろい歌をよみ、おもしろい字をかく人であった。その夜は関に宿った。旅宿の主人は父の門人であった。父の日記に、「西尾利重のもとに宿る。あるじは古き弟子なれば、さまざまの饗応(あるじまうけ)し、大津までの休泊はわが会合の時まかなふべしとて、神風講社の帳に消息そへて与へくれぬ」とある。当時の旅はこんなのんきなものであった。鈴鹿山を越えるとて自分は、
六つに越え九つにして鈴鹿山ふたたび今日はのぼりけるかな
敦賀では気比神社に詣でたに、広前の糸桜が盛りであった。旧神官石塚資梁氏を訪うた。父資元翁は、敦賀誌七冊を著した学者である。金が崎城の跡に登って、父から太平記の話を聞き、武田耕雲斎の刑せられたという松原へもいった。旧家打它(うだ)氏の海荘なる観瀾亭で歌の会があった。父が若い頃、足代先生のお伴をして来た時に宿った家である。老いたる家刀自は自分を可愛がってくれられ、水晶の玉を自分に与えられた。足代先生は水晶の玉を愛でて旅中にも小さな数個を携えられたそうであるが、これは其の中の一つで、当時若かった刀自に贈られたものであった。自分の喜びはたとえん方なく、その夜三国へ渡る三国丸という小蒸気船の中でも、小さな手さげ袋の中に入れ、大事に身に添えて、玉をいだきつつ罪なく眠ったことであった。{この水晶の玉は八十年ぢかい今も、熱海へ持って来て、座右の箱にしまってある。}建てて間もない三国小学校の西洋風の立派さ、藤島神社へ詣でて大館尚氏祢宜に案内された義貞戦死の蹟は、殊に目に残った。
福井に着いた。三崎さんは小児科医で、九十九(つくも)橋に近い三階建の家、その奥の間に、とめてもらった。藤井千熊さんへも、弟子の一人なのでよばれていった。橘曙覧(あけみ)が酒をのみにいったという風月亭などでも歌の会があった。川津直入(なおり)翁の家へも何度かいった。翁は曙覧の門人で、曙覧が苦しい生活の中で歌を詠んだこと、しかも松平侯から召されても、自分には自分の考があるというてお断りしたこと、歌よみになるには苦しまねばならぬというような教訓を聞き、志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集をもらった。去年、山室山の妙薬寺で父から聞いた曙覧の歌のことを話したに、「よくおぼえているね」とほめられた。ある日、川津さんの家の夜の歌会に父と共にいったに、翌朝目さめてみると、傍の父の寝床もなく、座敷の様子も変っておる。もじもじしていると、川津さんの奥さんが来られて、「坊ちゃん、昨夜うたたねをして寝てしまったので、うちにおとめしたの。朝飯をあがり、これを持ってお帰りなさい。送らせましょう」と庭の山吹の枝をくださった。三崎さんへ帰ると、王雲さんと父と記念の写真をうつされるので、自分も山吹の枝を持ってうつしてもらった。
うつくしい山吹の花いつまでもちる時なからう嬉しくもあるか
と父にいうと、王雲さんは「嬉しくもあるか、は驚いた」と笑われた。
大野にいっては、中島広足の門人なる布川正沖翁の家に、蕨生村では城地氏にやどり、うしろの山で万葉の歌にある堅香子(かたかご)の花を摘んだ。九頭竜(くづれ)川の鮎つりはおもしろかった。金沢に赴くとて、松任では加賀の千代の家や墓を訪い、金沢に着いては高橋富兄(とみえ)翁の客となった。翁は臼井憲成氏と共に金沢での学者であり、歌人であった。橘守部門の石黒魚淵(なぶち)、尾山神社宮司の加藤里路氏などにも逢った。尾山神社やその外でも歌会があった。平岡神社の会の時、夕食が出たに、大勢の人が前に来られて、持寄りの馳走を小さな皿に分けて下さる。皿の数があまりに沢山に並んだので、どれをたべてよいか、困ったことであった。その日の当座、山家時鳥、
ほととぎすなく声さむくきこゆなり雪なほのこる越(こし)の山里
途上、遠く見た白山つづきの山の残雪をおもって詠んだのであった。
かくて、山代、山中、浅水(あさうず)駅のあさむつの橋、余吾の湖(うみ)、賎が嶽、関の藤川などを過ぐるごとに、父からいろいろ教えられて、六月松阪に帰った。
この秋、東京の本居豊穎(とよかい)先生が、宣長翁御贈位の記念に松阪に来られたので、樹敬寺で盛んな歌会が行われ、宣長翁真蹟の展観などがあった。自分も末席につらなることを得た。――何十年後の話。ある日、阪正臣君が来訪された時、携えた書画帖を示された。「山田の皇学館の前身の学校に留学していたので、樹敬寺の会に出席して、この書画帖に人々に書いてもらった。小さな君がいたのを人にきくと、佐々木さんの子で、幼いながら歌をよむとの事で、かいてくれというたところ、すぐ筆をとってかいたので驚いた」といわれる。自分も驚いて見た。「安陪(マヽ)宗任 梅よりもまさる言葉の花の香に大宮人もにげていにけり 九才 信綱」。さきに父から教わって詠んだ詠史の歌の中の一首なので、阪さんに請うて、そこの二頁を切らせてもらい、所蔵しておる。
十月 父が三河の西尾にゆくに伴われて、山田に近い神社(かみやしろ)の港までいって、三河にゆく小蒸気船に乗ったに、三河に近づいて実にはげしい暴風雨にあい、船は沈みそうになった。かろうじて佐久島に着き、少数の乗客であったが、一同が漁師のささやかな家にとめてもらった。翌日幸いに風雨がやんだので、平坂港につき、西尾へゆき辻氏の客となった。――この時の船の動揺のあまりにもはげしかったその苦しさは長く忘られがたく、それ以来、河や湖の船は好んで乗りもしたが、大海を航することにはすっかり臆病になり、南清に一度、北海道に二度いったのみ、台湾に三度、満洲に一度、欧米に二度よい機会にめぐまれたに行かず、この三河行が生涯のマイナスになった。
明治十四年 十歳
松阪の日野町の角(かど)に、会所というておった洋館まがいの大きな家があって、櫛田の池部宗民さんが住んでおられた。父の歌の弟子で、歌をよむことの達者な人であった。父は、歌はじっと考えてよむものであるが、数よみというて、短い時間に多くの歌をよむのも修行の一つであるという教えで、隔週の土曜日の午後に、父から二三十の探題(たんだい)をかいてもらって池部さんへ行く。「信さん、今日も来たね」といって、探題の一つをひらいて、「庭落花という題だよ」といい、やがて帳面に歌をかかれる。「さあ出来た。信さんまだかね」と催促される。それがつらいので、何とか詠んで、家へ持って帰って父に見てもらった。父の感化で、幼いながら古い本がすきであった。父は手まめだったので、座右におく古今類句などは、二三冊を一冊の合本とした。西順(さいじゅん)の夫木集抜書は、とても大きな本二冊を一冊にして珍しい句の右には、父のひいた朱線がここかしこにあった。家(うち)一番の大きな本ゆえにほしくてたまらず、「くれ」というと、「どうせ皆、信にやる本だから」と笑っていてくれない。ある日、京都よりの来客が、父の側におった自分に、「京の菓子ですからあげます」とのこと。客の帰った後に見たに、扇がたの箱に扇がたの菓子が入っておる。父は、「これは珍しい。明日(あした)久保の乾さんにゆくから、あげよう」と取りあげた。自分は、「信がいただいたのです」、父は「外の菓子をあげよう」。自分はとっさに、「あの大きな本と取かえよう」というて、夫木集抜書は、信綱の蔵書になって、今も傍らの書架においてある。
隔週の夕方、上野貞利先生のお宅へ伺って、論語の文や、文選のやさしい詩のお講義を聞いた。父は、歌をよむにも漢文の力がいるとよくいった。また、愛宕町(あたごまち)の天神の境内のお寺に、父の歌の弟子の梅森月皎(げつこう)上人のもとへも折々いって、何というお経にはこういう話がある、何々上人のお歌にはこんな歌があるとのお話を聴いたりした。
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