明治十六年 十二歳
わが家に塾生のように泊っておった羽後大館の館忠資君に伴われて、四月に湘南に遊んだ。横浜から汽船で横須賀に、造船所を見、金沢に出、雨中を八景の一覧所金蔵院にゆき、瀟湘の八景によって水戸西山公が名づけられたことなどを聞き、千代本に一泊、翌日雨中、朝比奈峠の坂路を歩きなずみ、鶴が岡八幡に詣でた。頼朝公の墳墓では、
奥つきの文字さへみえずむす苔の緑の上に桜花ちる
の一首をたむけた。次の日は、七里が浜、江島(えのしま)をめぐって藤沢に一泊、次の日帰京した。三泊の小旅行ながら二十余首の歌を得たので、文詞をつづり清書して「鎌倉日記」と名づけ、初めに「十二童源信綱」とかき、模様のある黒い表紙をつけて一冊の本とした。前に随筆は書いたが自分の処女著作なので、大事にしまっておいたのに、誰かに貸して貸しなくしでもしたろうか、見えなくなったので、実に残念であった。――数十年後、西村郁郎君が、博文館発行の「日本之文華」の明治廿三年一月から三月までの合本三冊を贈られた。見ると二号と三号に鎌倉日記の上と中がある。夢のように喜ばしく、四号は上野図書館の芝盛雄君に請うて写してもろうた。いつ又どこかに黒表紙の幼い文字の鎌倉日記の原本が残っておるかもしれぬと、ここにくだくだしく書きつけておく。
この年、父の歌の教え子の石原信明先生について一週に四度漢学の教授を請うた。先生は上州小幡の藩士で、神田今川小路の安中家の邸内に住んでおられた。物やわらかなお声、温厚なよい先生で、八家文を初め種々のお講義を聞いた。時としてはこれこれの国書の第一巻を持ってこいといわれるので携え行くと、漢文の序を教えて下さった。また漢詩をも作るがよいとのお詞で、たどたどしい詩をも作って雌黄を請うた。翌年であったか、「秋日過古戦場」という題で作っていった、
秋風蕭瑟草芊芊 懐昔戦場南北天
古木鳥啼人不見 碑文苔滑已千年
起承は少し加筆して下さって、転句の「古木鳥啼人不見」という句を、褒めていただいた。先生のお蔭で、その後も折々は韻字の本などを繙いて、作り試みたこともあり、また詩文の深い味わいをさとることが出来た。
家では、毎週三回、父に国書の講義を聞いた。平素(ふだん)はやさしい父であったが、講義の際にはちゃんと羽織を着、自分も袴をつけ、きびしい教を受けたことであった。
明治十七年 十三歳
一月 父につれられて鈴木重嶺翁の歌会の発会に出た。翁(おう)はもと佐渡奉行をつとめられた幕末の役人であったので、勝海舟先生が毎年の発会に出られるとのこと。この日「与信綱子」として陶淵明の訓誡の詩をかいて下さった。{短冊凌寒帖に掲げてある。}
三月 父が高崎先生にあがった時、この秋の古典科の第二期の募集の試験をうけさせて見たいと申上げたに、それならばその準備が大事ゆえ、こちらの稽古はやめたらばよかろうとの仰(おおせ)であったとのこと。それで御辞退することになったが、一年と数ヵ月のお教が有がたく、その後、毎年中元と歳末にはお伺いした。
古典科入学の体格試験は心配していたが、年齢よりはずっと大きかったので幸に通過し、学科も無事にとおった。
わが前に今ひらけたるひろき道斯(こ)の道をゆかむわが力の限
九月から、去年よりわが家にとまっておった埼玉県の須長(すなが)(後、佐藤)球(たまき)君と一緒に、お茶の水橋はまだ無かったので小川町から水道橋――壱岐殿坂へのコース、又は万世橋から明神下、明神前をとおってのコースであった。当時の大学正門であった赤門を入ると一面の原ともいうべく、左に法文科の赤い煉瓦造りの大きな建物があり、その右に日本造りの古典科の国書課(左)漢書課(右)が池に近い樹蔭にあった。授業の始まる前は、広場で本科生も別科生も入りまじって、フランスゴッコという無邪気な鬼ごと遊びをしたこともあった。
入学式の日には、総理の加藤弘之先生が出席せられ、主任の小中村清矩先生の訓辞は、心に深く刻みつけられた。
元来古典科は、加藤先生が明治の初年に、極めて新しい考えで国体新論をも刊行されたが、東洋には東洋の道、日本には日本の道があるから、国文漢文をうちすておくべきでないというようにお考がかわり、小中村先生に相談せられ、明治十五年に国書課第一期生三十人、十六年に島田重礼先生に相談になって、漢書課第一期三十人を募られ、今年国漢ともに第二期生が三十人ずつ募集されたのである。
国書課の先生方は、第一期では哲学の井上哲次郎先生、第二期では倫理学の坪井久馬三先生だけがお若く、他はみな老先生であった。先生がたは、国学の衰えた今の時代に、自分たちの跡つぎに種子(たね)を残そうとの御考で、どの先生も実に熱心なお講義であった。自分は木村正辞(まさこと)先生の萬葉集の講義を特に傾聴した。小中村先生の令の講義には、鼻がおわるかったとみえて、よく「くふんくふん」とおっしゃるので「くふん先生」、飯田武郷先生の日本紀の講義には「どうもそのくしびなことで」と、「どうも」とよく仰しゃるので「どうも先生」、本居豊穎先生は、江戸のお生れとのことで、源氏物語の講義に、「そうでげして」と仰しゃるので「げして先生」など実に失礼千万な、しかし愛称をささげたことであった。
小杉榲邨(すぎむら)先生は温和で、内藤耻叟(ちそう)先生は水戸風の力づよい風丯であった。漢学の岡松甕谷(おうこく)先生は脱俗風のかた、ある朝、講義の前に、教室に近い樹にいた梟を誰かがとって教壇の上に置いておいた。入って来られた先生は、だまって梟を教室の隅において講義をすませ、帰られる時に「これをもって帰ってよいか」とのお詞。「どうぞ」と誰かがいうと、風呂敷に包んで帰られた。次の週の講義の前に、「あの梟はどうなさいました」とたずねたに「何々の羹(あつもの)という事が漢籍にあるので煮てたべてみたが、うまくはなかった」と仰しゃったので驚いた。国文の同窓生には、和田英松、井上甲子次郎、赤堀又次郎、黒川真道、鹿島則泰、西田敬止、大沢小源太、大久保初男、宮島善文、佐藤球、その他すぐれた人たちであった。
十一月 木下幸文(たかぶみ)の「貧窮百首」を読んで、深く感激した。
牛込の川田剛先生の邸に、老先生がたの国文輪読会があって、父が出るので、傍聴の許しを請い席の隅に謹聴しておった。先生は若い頃、国文に志しておいでであった為、こういうつどいをなさったのであるという。
明治十八年 十四歳
古典科の講義に、先生の二時間の休みのある時は、図書館へ勉強にゆく者もあり、気のあったそれぞれが、本郷三丁目のしるこ屋に行く者、本郷座が大阪の鳥熊(とりくま)の興行になって安価なので立見にゆく者、不忍池などにゆく者もあった。自分は大抵は図書館にいったが、此の年の春のこと、二時間のやすみを利用して数人で上野の花見にいった。池の端から東照宮の石段をあがる辺は込みあうていて、井上甲子次郎君が早足でゆかれるので、自分は当時の書生風に、「井上! 井上!」と大声で呼んだ。その翌朝、井上君から厚い手紙が来た。何かと思うてひらくと、「君は年が若いせいもあろうが、平素生意気でいかない。同級には黒川真頼先生や大沢清臣先生、鹿島大宮司の子息など立派な方々があるから見習わねばならぬ。昨日の井上! 井上! は何ごとである。今の書生仲間(なかま)にはやってはいるが……」とのきびしい手紙。自分はその夕方、飯田橋に近い井上君の家を訪うて、二階の君の書斎で深くあやまったに、井上君は、自分でわるいと思うならばそれでよいとやさしくいうてくれられたので、それから折々訪問した。
秋から池の端の貸席の二階で、土曜日の午後土曜会を開くことになった。演説風にのべるのも、読んだ本に就いて話すのも各の自由であった。
明治十九年 十五歳
古典科の日々の講義は欠席しなかったが、四月から国民英学会にイーストレーキ先生に就いて英語を学んだ。先生は講義がたくみでおもしろかったが、生徒間ではあまりに日本語を多く用いられるというていた。そのうち母堂のマダム・イーストレーキが米国から来られたが、これは一語も日本語を知られなかったので生徒は困りもした。また東京英語学校の夜間部に入って学んだ。後にきくと、上田敏君も同じ夜間部に学ばれたとのことであった.
民間の歌人としては鈴木重嶺(しげね)、橘道守(ちもり)、網野延平氏、鶴久子(つるひさこ)、中島歌子、大野定子刀自等の歌会があって、-月を発会、十二月を納会といった。父は学校の時間の都合のつく日は自分の代りに出るとよい。当座の競点や歌合で競うのはいわゆる他流仕合(じあい)であるからとのことで出席した。鈴木翁歌会のことは前に一言したが、例月は今川小路の玉川堂、発会、納会は九段の万亀(まんかめ)楼であった。
本所の橘さん(はじめ割下水(わりげすい)、後、回向院の近く)の会では守部翁の逸事などを聞いた。当時大学を出てまもない真野文二君も出席しておられた。日本橋の網野さんの歌会では林甕臣さんに逢って話を聞いた。林さんは後に言文一致の文が行われた時、歌も亦言文一致でよむべきものであると口語歌を表された初めの人である。小石川の中島さんの会では田辺竜子(花圃女史、後、三宅雪嶺氏夫人)さんを知り、樋口夏子(-葉)さんに久々で逢うた。夏子さんが幼い時裁縫を習いにいった和田さんの主人の重雄さんが父の教え子なので、自分も前に逢ったことがあったのである。下谷の大野さんの会では、大槻文彦先生が甥であられるというので出席されたのであった。
自分の家の裏側で筋向にあたる広い家は岡田さんという尾去沢鉱山の持主の家であったが、時に遊びにいった。やがて米国に留学されるとのこと。自分は英語学校の夜学で学んだ、クヮッケンボスの米国史や、パーレーの万国史の話をした。君は新刊書をよく購って読み終ったから持っていって読みたまえとかしてくれられる。田口氏の日本開化小史、東海散士の佳人の奇遇、徳富氏の将来之日本等は最も感銘を与えられた書であった。老母の君は古い小説もお読みなさいというてかしてくれられたので、和本の八犬伝や弓張月を全部よみ終りもした。庭に葡萄棚があった。
をさなきは幼きどちの物語葡萄のかげに月かたぶきぬ
は岡田さんの庭での作である。
神保町の古本屋をもよく漁(あさ)った。これは専門の国文の古書をあさるためであった。中でも福井の老主人はおもしろい人で、これはやすい本でよい本だからとっといたのですと安価でよい本を売ってくれた。西鶴のこういう本は文章はおもしろいが今のあなた方のよむ本でない。日本永代蔵はよんでもよいから貸してあげようとかしてくれた。遠く浅草の浅倉屋にもいった。与兵衛鮨から養子に来たという老主人の時代であった。
明治二十年 十六歳
古典科は二十二年に五ヵ年で卒業すべきであったが、森有礼氏が文部大臣となって大学の制度を改められた際、古典科のごときは第一期生の卒業と同時に廃すべきであるとの考であったという。それを内藤耻叟先生が洩れ聞かれて文部大臣邸に森氏を訪い、極力廃止不可説を述べられたが、結局は第二期生を中途で廃学せしむべきでないという意見を容れられ、第二期生の学年を一年短縮して四年で卒業させ、同時に廃止して、第三回生は募集せぬと定まったとのこと、それを聞いた自分ら二期生は、内藤先生に対して感謝感激の涙をそそいだ。しかして諸先生は、この一年間に二年以上の学力をつけようと、講義の時間もふえ、熱意のこもった講義がつづいた。
卒業前年の九月からは、卒業論文作成のため図書館の内部に入ってもよいと許可が出た。図書館は法文科の建物の二階の左の隅で、これまでも時間があれば来たが、それからは日々館の内部に入った。内部には卒業生の学士が読書する大きな卓子があって、そこにいつも三宅雪嶺氏が読書されていたことが目に残っている。四庫全書など、漢籍の冊数の多い書の片鱗をも見た。しかし自分は、国書で書名の珍しい書は書架から引出してはひもといた。後年自分が国文学の文献学的研究に志したのは、この時に由来したものともいうべきであった。
また、学友相謀って、毎月の会以外に講演会を催して、各自の小研究発表会を開いた。
七月 萩野由之君が和歌改良論を発表されたので、訪問した。また古典科の先輩松本愛重、関根正直、市村瓚次郎君等を折々に訪うた。
九月 竜岡町の鱗祥院の内の一部で哲学館の授業が開始された。かねて哲学の名にあこがれていたので、今年の一月から赤門前に井上円了先生が開かれた哲学書院に立ちよって哲学書をあさったりしていたので、喜んで入学し、大学の時間の都合のつく限り、聞きたいと思う学科――哲学論の井上円了、社会学の辰巳小次郎、倫理学の嘉納治五郎、老荘学の内田周平等の諸先生の講義を聴いた。中でも辰巳学士のはたくみな講義ぶりであり、課外講師としての高島嘉右衛門翁の易の話はおもしろかった。しかし別掲のように古典科の年月がちぢまり、図書館へもゆきたいので、数カ月で中退したが、自分の歌学の底にささやかながら哲学思想が宿っていて、後年、詹詹録の一節に、「歌は、形の小さい芸術の一つであるが、そのすぐれた作品には、真、善、美、三つのいずれかを具えている。真と美とは説くを要せぬ。善とは、人間が互に結びあって社会をかたちづくる上にもつ博大な理想的精神が、凝って三十一字に成ったものをいう。所謂抒情歌には、真なるものと善なるものとがある。他の芸術も、真、善、美のそれぞれを持ってはいるが、歌は、殊に善のこころが直接にあらわされる芸術として著しい。」と書いたのは、この時の考のあらわれである。(後に、野口寧斎君に逢った折、君もこのからたち寺の始業式には列したが、一年未満で中退したというておられた。)
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