明治二十一年 十七歳
一月 巌本善治氏に初めて逢って頼まれたので、女学雑誌二月号に「歌のはなし」を発表した。その文中、萩野氏の和歌改良論について一言した。
六月 女学雑誌に三回にわたって「詠歌論」を寄稿した。
七月 古典科を卒業し、故郷石薬師に母と墓参に赴いた。松阪では、久保の乾氏{一八頁参照}を訪うたに、惟聡(これふさ)翁は大層喜んでくれられ、「これは秘蔵の掛物であるが、記念にあげよう」と、宣長翁が谷川士清(ことすが)翁に贈られた書簡の幅をくださった。宣長翁は古事記伝の草稿を津へ、士清翁は和訓栞の草稿を松坂に、互にみせあわれた事実などもわかり、尊い書簡であるから、後年印行した「金鈴遺響」の中に収めた。《注:一八頁は明治14年》
幸いに齢若くて古典科を卒業したので、新たに一高の試験を受けて東大の本科に入学したく、英語をはじめ徐々に準備をしていたに、はやくからの六度の近視眼がいたむので眼科医にいったところ、今から六七年間の勉強は無理だろうとの意見に、絶望して家に帰り父に話したところ、それならば、自分の常にいう民間にあって歌道の弘布と、歌学の研究につとめるがよいと励ましてくれた。
<古典科時代>
八月 井上甲子次郎君を飯田橋の近くに訪うて二階へあがったに、先客がおられて、当時発行された雑誌「日本文学」を片手に持ちつつ、東北なまりの交った詞で、滔々と議論のつづきを述べておられる。一くぎり話がすむと、井上君が、「古典科の先輩落合直文君です。僕と同窓の佐々木信綱君です」と紹介された。孝女白菊の歌も読んでおり、その文名はよく知っておったので、ねんごろに、「父が古典科第一期の歌を見ておった時、落合亀次郎君(直文君の前名)の歌はすぐれているというたことを記憶してます。」などいうと、「僕の家はすぐここの近くだよ。遊びに来たまえ、井上君のここで逢ってもよい」と親切にいわれた。これが落合君との初対面であった。
明治二十二年 十八歳
二月 高崎先生から、御歌所へ入るようにと慫慂を蒙った。恩命はありがたかったが、上述の決心で御辞退した。
去年の九月、父は雑誌「筆の花」に「長歌改良論」を発表した。十九年に、末松謙澄氏が「演劇改良意見」を発表されたのが口火となり、上述の「和歌改良論」も出た。父は足代先生の教に従って今様を作っておった。長歌も詠みはしたが、万葉時代の五七調が平安朝時代の七五調に移ってから千年にもなるという現実に立って、七五調の長篇を作るべきであるという意見であった。この論文は当時の旧い歌風の人々には非難されていたが、今年五月、海上胤平氏は、「長歌改良論弁駁」を出版し、父は六月の読売新聞に「長歌改良論弁駁弁」を発表、十月に石丸忠胤氏は「長歌改良論をよみて」を明治会叢誌に掲げ、自分は「長歌改良論余論」を十一月の読売新聞に書いた。二十三年に福住正兄氏は「雅調論」を大八洲学会雑誌に、父も同誌に「雅調論を駁す」を寄せ、さらに同誌に田所千秋氏は「駁雅調論を読む」、大貫真浦氏は「駁雅調論を駁す」をかいた。かくのごとく四面楚歌ともいうペき包囲攻撃にあうた中に、唯一人山田美妙氏は、読売新聞に父への賛成論を書かれた。自分は父が痛ましく、若い血をたぎらせていたので、当時駿河台の坊城邸の長屋におられた山田君を訪うた。
金港堂の「都の花」、春陽堂の「新小説」に対して博文館で「大和錦」を発行し、歌の選を頼まれた。ある時谷中にいったついでに編輯者の広津柳浪君を訪うたに、「先客はあるが」というてにぎわしい一室に通された。尾崎紅葉君を初め、石橋思案、川上眉山、巌谷小波氏らと逢った。初対面ながら我楽多文庫を読んでいた自分は、親しく語りあい、紅葉君、小波君とは爾来ずっと交わり、後、紅葉君の紹介で山岸荷葉、小栗風葉君も竹柏会の同人となられた。
明治二十三年 十九歳
興隆しゆく日本にとって避けがたい行きすぎや矛盾の数々に対し、一つの反動として国粋保存への反省が深まりつつあった。教育勅語が渙発せられたことも、こうした動揺の中に胚胎していた。この年は自分にとっても忘れがたい年である。――すなわち、四月には、萩野、落合、小中村三氏の協力によって博文館から日本文学全書が刊行され、十月には父と自分との日本歌学全書が出たのである。この十二冊の編著に、自分は父を援けて若い心血を注いだのであった。いまだ類書もなく、それだけに世に弘く用いられもしたが、顧みて、自分の長い学究生活への出発は、この叢書のための研究によって踏み出されたように思われるのである。しかるに、第八篇の校正中に父は世を去ったので、九篇以下は自分が標註もし校訂もした。(この年の一月と六月とに、「日本文範」上下二冊を博文館から出版した。自分の著書の世に公けになった最初のものである。)
なお、この年の夏、埼玉県松山の吉見の百穴を見、青山の根岸武香翁を訪うて、幕末に滞在しておった安藤野雁の著書を見た。本庄の森田氏を訪うたに、渋川の鮎簗を見にと主人に伴われていった。途上、先日の大雨のために簗がくずれたと聞き、伊香保に遊んだ。
湯の山の低き湯の宿高き宿戸を繰る音すほととぎす鳴く
明治二十四年 二十歳
自分には慈父であると共に恩師でもある父は、一月から病気にかかった。父の最後の述作は「足代弘訓翁家集」で、師の恩を常に銘肝していた父の生涯のとじめとして、まことにふさわしい仕事であった。不幸にも病気はしていたが、床の上でもこの集の校正の筆を措かなかった。集には仁孝天皇から三条実万公を経て賜わった硯の写真も、夙く三条実美公が執筆せられた序文も添い、翁の衣冠の姿の肖像をも揚げて、翁の和歌・長歌・今様・文章・消息の集一巻が成った時の父の喜びは、たとえようもなかった。
しかも此の書は五月二十五日に刊行されたが、翌六月の二十五日には、不帰の人となったのである。病床にあって、「吾のみか人の心も苦しむるこれ一つこそ悲しかりけれ」と詠んで痛嘆した父ではあったが、危篤になった数日前、床の上に正座して短冊をとりあげ、平常よりも力強い筆蹟で、「命あらば嬉しからましもしなくばそれもすべなし神にまかせむ」、「かきのこすことはさはなり月花はいまだ見足らず死なじ魂」と書いたのである。{命あらばのは短冊凌寒帖に掲げた。}
谷中墓地に葬送の当日、福羽美静翁の式場で読まれた祭文は、父の霊も深く感謝したことであろう。長い文の終の一節を掲げる。
{「……人と生るゝものは、何の道なりとも世のため尽すことありて世に仰がるゝ事、人の道にはありけり。佐々木の君の世に仰がるゝこと淵源あり。君若きより同じ国人なる、殊にすぐれ人たりし足代氏の教へ子となり、また天の下の物知り人を訪ひて頗る学徳を養ひ、世に信ぜられてこの東京に終れり。淵源ありて人の師となり、世に仰がるゝこと、これ人の名誉にて、友垣なるおのれらも誉ある事と思へり。猶おのれは、あまた年官に仕へたり。佐々木の君は、官に仕ふるにあらずして世に誉を得たり。官にありて誉を得るは、人あるひは易しといはむ。官にのぼらずして名誉を高くするは、難きところなるべし。その難きを経て徳ますます高し。また、君とおのれと身のおき所かはりながら、学の道もその心も同じ。官途の友垣ならずしてかゝる高徳の友垣ある、おのれこれを栄とす。……」}
天王寺の五重塔に近い墓域に葬り、後に、父に折々歌を示され、若い自分にも示された東久世通禧伯に執筆を請うて、碑を建てた。
父についての思い出は尽きない。ここにわずかにその一二をしるしとめておく。
「この書斎にかけてある「竹柏園」という斎藤拙堂先生の額を、信も生涯書斎にかけておくがよい。国学者や歌人には言霊舎(ことだまのや)とか柳園とかの号がある。自分も若い頃に然るべき名をと考えていたに、菰野に近い桜村の神官の家に大きな梛があり、その若木をもらったので培うた。梛は常磐木の一種で甚だ強く、その葉を二枚かさねて曳くと力士も裂くことができず、弁慶泣かせという名もある。あたかも師弟共研の意義があるから梛園とつけたところ、大坂の中島広足翁から、梛または那木はいわゆる和字であるから竹柏園とかくがよいと示された。その当時、藤堂侯に国文を講じていたので、大儒拙堂先生にかいていただいたのである」と諭された。(後年自分が会を興した時も会の名としたのであった。)
父は晩年に碁をたしなんだ。自分も見真似で折々父の相手をしたことがあった。ある時同じ小川町一番地に、五段か六段の中根某という有名な棋士が移転して来られた。伊勢の人であったかと思う。ある日のこと、父に伴われていったに、中根氏は「坊ちゃんも碁をなさるなら一手教えてあげよう」と云われるままに教わりながら一局打って貰うた。打ち終ってから、「大層手筋がよい。少し習って見てはどうです」と、お世辞であったろうがいわれた。さて帰宅したところ、その夜、父は自分にむかって、「わしは、年寄の慰みにまずい碁を打っておる。しかし、信(のぶ)は、一心に学問を学ばねばならぬ身ゆえ、これからは碁石を持ってはならぬ」と、固く言い渡されたのであった。以後、無名会の席上や他を訪問した折などに、たまたま一二番うったことはあるが、父が自分の心に刻みつけた誡めの詞は守りつづけた。
十二月 日本歌学全書十二巻が完成した。
明治二十五年 二十一歳
三月 城南評論に「近世歌学評論」を七月まで寄稿した。
四月 「歌の栞」を博文館から出した。古典科の卒業論文とした歌の歴史をやさしく書き改め、作歌法その他和歌の百科全書ともいうべきもの、干数百余頁、革綴の四六判で、当時としては豪華版ともいうべきものであった。この書は大いに流布した。――何十年後のことであるが、石川啄木君の父君は村人に歌を教えておられたが、座右に「歌の栞」をおいてあったということを啄木君の妹君が啄木伝にかいておられる。
歌学第三号以下に、「国歌流派の変遷を論ず」を連載した。
晩春の頃、安房北条在の小原氏に招かれてゆき、北条の歌会に列なり、沖の島、鷹の島に遊び、奈古から帰った。
奈古寺の春の夕ぐれ順礼がさびしき唄をうたふ夕ぐれ
六月以降、「校註徒然草」等七種、「標註十六夜日記読本」「標註庭のをしへ」(この二種は木版本)を刊行した。
ここに唱歌及び詩について一言する。
明治十五年に、井上哲次郎先生や、外山正一先生の「新体詩抄」、十八年に湯浅半月君の「十二の石塚」が出た後、いわば近代詩の少年時代には、いろいろな人が、いろいろの立場から作詩を発表された。さらに、小学唱歌の普及と、軍歌の流行とが、この機運を促し、新しい西欧風の音楽と共によろこび迎えられつつあった。
こうした機運の中に少年期から青年期をすごした自分は、巌谷小波君の編輯しておられた博文館の少年世界に童謡や、小山作之助君の作曲にかかる唱歌集に唱歌を寄せた。外山先生の「抜刀隊の歌」は随分早く出たのであるが、今年明治二十五年には、風雲の急を告げはじめた世情の反映もあったろうか、納所弁次郎君が「日本軍歌集」を出すから「凱旋の歌」を作ってほしいと依嘱された。「あな嬉し、よろこばし、戦勝ちぬ」の歌はこの時の作で、これは次に述べる明治二十七八年戦役に広くうたわれたのであったが、後、三十七八年戦役の時も、満洲で日本兵士がうたっておったということがロシヤ人の書いた戦記の中に記されていた。
明治二十六年 二十二歳
三月 歌学に「歌学管見」を寄せた。
四月 文海に、後撰集新古今集の講義を連載した。
七月 父が第一編第二編を出した「千代田歌集」の第三編を刊行した。
八月 この頃から従来の歌に慊(あきた)らず、次に述べるような長歌や、所謂新体詩をもつくり、短歌に新様の作風をもるべくひたすらつとめるようになった。
九月 国民之友に長篇「長良川」を寄稿した。序詞に曰く、「水清き長良の流に船を浮べて、鵜飼の奇観を看しは八月十六日の夜なりき。尾張の中村、興津、大磯等に立ち寄りて帰京せるに、其の夜かの地洪水の報を得て感殊に深し。直ちに筆をとりて、空しく底の藻屑と消え、土の下に埋もれはてし百余人の霊をとぶらふ。八月廿五日の夜」。本文、
うつろへる山の姿は、水の色に等しくなりて、並(な)み立てる峯より西に、三日月の影いと細し。
以下、長良川の鵜飼を叙すること五七を一句とした五十一句、帰途についてのべたこと二十句、聞き驚いてのべた句二十二句、濃尾の地は、一昨年の大震災にあったのに今再びこの厄にあったことをいたんだ五十五句、現代の貧富の差はげしく、富人は富み驕れるに、庶民生活、ことに災害後の生活のいたましさを思いやった百四十七句、川下の山村の悲惨をうたった五十六句、最後に家に帰った夜の月明に対して三十四句、「あはれこの月の光よ、あはれこのさやけき月よ、ぬれはてし人の袂に、いかさまに宿りかすらん、屋根もなき草の枕を、いかさまに照しかすらん、あはれこの月」ととじめてある。句々力よわく、冗長にすぐる作ながら、一篇三百八十五句。生涯において最も長い作品である。
明治二十七年 二十三歳
一月 国民之友春期大附録五篇(学海、直文、絃斎、桜痴氏及び予)の一として「花さうび」一篇を寄せた。スコットランドの且つ耕し且つ歌った農詩人バーンズの若き時の逸話をうつくしいやまとぶりにうたったのである。
九月 母が世を去った。神戸(かんべ)藩士の家に江戸の神田橋の近くに生れたので、神田上水を産湯の水に使ったということが誇の一つであり、武家の出らしい品格を持っていたが、きわめておだやかなよい母であった。歌をもたしなんで、光子詠草(未刊)をのこした。
十一月 親友逍遥中野重太郎君が世を去った。君はこの秋、帝大漢文科を第一回に卒業、宮本正貫氏と共に東洋史を編みつつあった。一方多情多感の詩人で、その熾烈の情は血と涙とを以て綴ったというべき多くの詩を世に遺した。君は狂骨、自分は残月と号したので、自分は狂残銷魂録を二十五年十月の城南評論に掲げもした。その学ぶ所は異なっておるが、生涯の心友である先輩の永眠は嘆かわしさに堪えなかった。
(――後、明治三十年島崎藤村君が若菜集を刊行するや、逍遥の秀才にして世を早くしたのを追慕し、哀歌十三章を掲げたので、その名が知られるようになり、昭和四年には、岩波文庫に笹川臨風君の訳文逍遥遺稿が収められた。}
嘆かはし君の詩巻(うたまき)とこしへに天地(あめつち)の間(あひだ)にのこりてあらむも
この年、明治二十七八年の戦役が起った。歌人は歌を以て御国に尽すべし、という心から、多くの歌を詠んだ。
父の子ぞ母の愛子(まなご)ぞ御いくさに弱き名とるな我が国のため
くれなゐに雪をそめたる丈夫(ますらを)が肌へにそへし老いし母のふみ
戦後の作には、
天つ日の光かしこみいやさきにまつろひよりし高さご島山
と詠みもしたが、その一方、
かちどきのとよみの底にまじるらむ若きやもめの児をすかす唄
のような作もあり、
亜細亜の地図色いかならむ百とせの後をし思(も)へば肌へいよだつ
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