明治二十八年 二十四歳
一月 国民之友に「霜夜の月」を寄せた。
二月 大捷軍歌第三篇に「勇敢なる水兵」を寄せたが、大いに世に行われて、二十七八年戦役の軍歌の代表的作といわれた。それについてここにくだくだしいが、記しとどめておく。ある朝の読売新聞の三面にあった三四行の記事、「まだ定遠は沈みませんか。」と問いながら息が絶えたという一水兵の逸話に感激して、自分は長い詩を作り、「太陽」に寄稿したが、すぐに、これは軍歌とする方がよいと思いかえして作り改め、「大捷軍歌」に送った。それが奥好義君のよい曲が附いて有名になったのであった。さてここに、書かずものことであるが書き添える。それは数十年後のこと、某という海軍の主計大尉が官金を費消して英国に逃れ、時効になってから帰国して死去したという記事が時事新報に掲げられていた。それに、尾佐竹猛博士の文が掲げられてあった中に、この某という軍人は「勇敢なる水兵」の作者であると書かれてあったので、大いに驚いた、平素親しくない人を訪問することを好まぬ自分ではあったが、尾佐竹君とは時好倶楽部の会で顔見知りであったので、その朝、君を新宿の伊勢丹の近くに訪問した。自分は、「他人の執筆ならば一笑に附するのであるが、明治史の権威であられる貴君の文章に出ていることゆえ、今朝うかがったのである。あの頃は海軍の人に知人もなく知識もなかったので、大捷軍歌に載っているのには、『その玉の緒を勇気もて、つなぎとめたる水夫あり』とした、恥かしいことではあるが、当時、自分は水夫と水兵との分ちをよく知らなかったのである。また『副艦長の過ぎゆくを、いたむ眼(まなこ)にみとめけむ』としたが、海軍では、副長であって、副艦長といわないということも知らなかった。それで、後に、『つなぎとめたる水兵は』『間近く立てる副長を』と改めたのである」と語ったのであった。
五月十日、三国干渉により、遼東還付に関する詔勅が下った。終日悶々、夜に入って新橋駅前の麻屋に赴いた。独逸協会を卒え法律に精しく陸軍に勤めておる親友中村健一郎君が、運輸に関する勤務で滞在中なるを訪うたのである。顔を見るや涙がはふれ落ちた。この時に際して止むを得ない理由を諄々と説いてくれられた。一二時間後麻屋を出ると、新橋駅前の広場は人影なく、空には月が朧げである。じっと仰いでいると、中村君がうしろから来て肩をたたいて、帰りたまえ、車を雇ってすぐ帰りたまえというてくれた。
空仰げば月曇らへり今宵のこの月の光の忘らるべしや
この年、詞林に歌文を、少年世界に童謡を発表した。
明治二十九年 二十五歳
三月 森鴎外氏のめざまし草巻三に歌を寄せた。(巻二十三まで十五回にわたった。)
ある日の夕べ、森氏を訪うたに、雲中語のつどいの日で、篁村、露伴、思軒、緑雨氏等が、批評すべき書を中において、或は語り、或は筆を執り、或は盃をとっておられた。その後、毎月、日時をしらされたので折々赴き、磯辺千浪等の名で書きもした。また、めざまし草の中の自分の歌の用語について、同誌と帝国文学との間に筆戦五回に捗った。それは森氏の執筆である。
五月 めざまし草巻五に「笛」一篇十二章(連作)を発表した。爾来しばしば連作を詠じた。
せめはたる人さへ今は来ずなりぬわが笛一つわれにのこりて
山の端に月はのぼりぬわが笛を今こそ吹かめ月はのぼりぬ
花かげに袖うちたれて聴きし人いづちいにけむ笛はあれども
人は世はわれを捨てたりしかはあれどわれに笛ありこの笛あるを
童べよこち来て聞けやわが笛を何をか笑ふわれやをかしき
われは唯ひとりぞ吹かむわれ知らぬ人にきかせむわが笛にあらず
雷(かみ)もおちよ龗(おかみ)もいでよわが笛をいかなるものか敢へてとどめむ
わが身をも世をも忘れて吹く笛のすみゆくままにすむ心かな
笛の音はすみこそのぼれかくながらのぼりやすらむ天つみ空に
笛の音はいづこぞ誰ぞなつかしき声はもひびく雲のはたてに
八月 国民之友に「土曜日の夜」を寄せた。
十月 歌誌「いさゝ川」を創刊した。当時住んでおった小川町の名に因んだのであった。鴎外氏は鍾礼舎(しぐれのや)主人の号のもとに、短歌は五行にかくべしとの説を、学海翁は題詠不可論を寄せられた。
この春、与謝野鉄幹君が朝鮮から帰った歓迎会をするからと落合君より招かれて、上野摺鉢山の下の三宜亭にいった。浅香社の久保猪之吉君、尾上柴舟、金子薫園君と知った。
国民新聞に磯辺千浪の名で評林体の歌を寄せた。
明治三十年 二十六歳
三月 大町桂月君の発起で、落合、与謝野、正岡君らとともに新詩会をおこし、合同詩集「この花」を刊行した。不忍池畔の長駝亭で会合のあった日、正岡君に初めて逢ったが、人力車をまたせて早く帰られた。
五月 音楽学校同声会春季演奏会に、自分の作詞「朝の歌」(メンデルスゾーン作曲)が演奏された。
九月 「少年歌話」刊行。詩集「藻かり舟」を附録とした。
十一月 新体詩集「心の緒琴」第二集に、「戦友」を寄せた。
下野足利の同人に招かれて赴いた。まず足利文庫のあとを訪い、古鈔本の残存せるに見入った。茸山にいった。とめ山といって、その日とった茸の代価を帰りに払うとのこと、しかし人出のわりに獲物は少く、あっここにといってとろうとするに、似た色の石や落葉であることが多かった。
小石(さざれ)ふむ小鳥の声も秋たけてわたらせ川の音の寒けさ
明治三十一年 二十七歳
一月 「続日本歌学全書」第一巻を刊行した。先人の志を嗣いで苦心し蒐集した近世の歌集歌論の書を、後世に伝え得られると思うと喜びに堪えなかった。
時事新報の選歌をした。(後に、万朝報、報知新聞、読売新開、国民新聞、新小説等の選歌にもたずさわった。)
二月 既刊の「いさゝ川」は七号を以て終刊とし、石榑千亦、井原義矩の二君と謀って「心の華」を創刊した。(後、「心の花」と改めた。)第一号に「我らの希望」という自分の文のはじめに、「花てふものなからましかば、春秋の眺めもいかに寂しからまし。歌てふものなからましかば、人々の思ひをいかでかやらむ。歌はやがて人の心の花なり。」と命名の来由をかかげた。
四月 吉野に遊んで、その紀行を心の花に掲げた。車中作、
夕づく日菜の花畑にかたぶきぬ名古屋の大城(おほき)遠く霞みて
京都に渥美契縁(あつみかいえん)師のもとにやどった。師の女竹屋雅子夫人が、亡父以来の社友であられたからである。その夜は東本願寺造営の苦心談を聞いた。翌日嵐山に案内され、大井川を舟で川上にのぼった。
底までもすきとほりたる青淵に二ひら三ひら花ちりうかぶ
次の日、大竹老人と同行して奈良鉄道で吉野へゆき辰巳屋に宿った。翌朝早く花見に出て、
吉野山千本(ちもと)の花の下蔭をわれおほけなく一人しめたる
喜蔵院を訪うた。院主は大峰行者のものがたりをして、行者が吹いた古い法螺貝を贈られた。案内者をやとい、まず金峰神社に詣でたに、社頭の桜が風に誘われようとしている。
大峰やなも当来の大導師いま此の花を守らせたまへ
愛善の茶屋からなつみ川を見、苔清水にいった。幼くから山家集に親しんでおった身とて、なつかしさに堪えられない。
吉野山ひじりの言葉しをりにてまだ見ぬ花も今日しわが見つ
水乞鳥が鳴く。この鳥がなくと雨がふるという。
谷にひゞく水こひ鳥の一声に峰の柴人空あふぐなり
苔清水の帰途の文詞を原文のまま挙げる。『西行庵に上人の像ありしを、今は金勝明神の社務所に収めありと聞き、茶店の家刀自にしひて頼みて、人すまぬ社務所の戸ざしたるをあけさせぬ。像は左の膝をたてて、右手に数珠を持ちませり。うらに、「奉納、天明五乙巳春、願主江戸南鍛冶屋町大井八右衛門定恒、細工人同中橋益田慶運」とあり。定恒とは、いかなるすき人なりけむ。ゆかしうおぼゆ。雲井の桜の茶店に帰り、あづけおきしわりごをひらく。大竹老人は瓢をとうでて、此の花にむかひ、此の酒をのむ味ひはとて、ゑらぎをり。足もとまらぬ坂路を下り下りて上(かみ)の一目千本にいたる。「雲をふみて」とは、まことにこのさまなるべし。山添をめぐりて、延元の陵(みささぎ)に詣づ。こだかき所に石の玉垣をめぐらし、白砂子(しろすなご)を敷きたる御(み)前にをろがみて、
み吉野の山の雫のしげければあやのみ衣(けし)やかわかざりけむ
古への大み思ひや晴れざらむ雲こそかかれみ吉野の山
南ふき北ふきかはる山おろしに大御心もさわぎましけむ
くなたぶれ醜のをのこしなかりせばかかるみ山に行幸あらましや
吉水院にいたる。
いにしへの吉野の宮のあととへば花ちりしきて松の風寒し』
此の日の朝、あまりにもおかしいことがあった。次にかきそえるのは、さきに随筆にかいたその時の思出話である。『京都へ行った折、嵐山の帰りに、停車場で、東京の大竹老人に逢った。明日はどこへおいでですかと問うたので、吉野へといったに、私も行くつもりゆえ、御一緒にという。大竹さんは本郷の質屋の老主人で、娘さんが弟子であるから知っておった。翌日同行して、吉野の旅館に夜ついた。さて後悔した。自分は万事かまわぬ性分、老人は親切ではあるが綿密すぎて、車中でも種々注意してくれる。翌朝、まだ四辺(あたり)が暗いに起きて、曙の花を見たいと、そっと出かけようとすると、老人目ざとく、「どちらへ」「朝の花を見に」「それなら私もお伴を」「いや、あなたは歌を詠まないのだから、ゆっくりやすんでお出でなさい」。門口はまだしまって居るので台所へまわると、眠い目をこすりこすり竈の下をたきつけていた下女が、不思議そうに見る。日和下駄をかりて表へ出ると、町は何処(どこ)も戸が閉っていて、蔵王堂の辺から吉水院のあたり、道端の桜も朝露に眠って居る。谷を隔てた向うの山には、紫がかった雲がたなびいて、満山の花は今を真盛。歌興頻りに湧いて、例のように手帳を出しては歌を書きつける。書きつけては懐へ仕舞う。少し歩いては立ち留って又かきつける。書きつけては懐へ仕舞う。ところが、どうしたことか、手帳はパタリと地面へ落ちた。拾いあげて仕舞って、二三歩あるくと又落ちる。自分は手が不器用で、子供の時から角帯をしめた事が無く、いつも兵児帯のくるくる巻である。此の朝は山風が寒いので、二重まわしを着て居た。変だなと思って、見ると兵児帯が無い。見廻してもあたりには見えぬ。もとの道をすこし帰つて折れ曲った所へくると、道ばたの桜の木蔭に、蛇がトグロを巻いたように兵児帯がそっくりわだかまっている。木蔭で歌を案じつつあった間に、輪ぬけをしたのであった。しかし朝早いので人通りがなく、拾う人も無かったのである。拾い上げて帯を巻きつけて居る所へ、大竹老人が町の方から来て、「ヤ、先生、道ばたへ手帳を置いて何をしておいでです」。自分は、もし今二三分おくれて此の老人に輪ぬけの帯を拾われたら、どのように又やかましくいわれたことであろうと思いながら、「イヤ何ちょつと……」。』
九月 月のあかるい夜、神田五軒町の橘さんを訪うた帰さ、途中の古本屋に寄ったに、「草径集」という三冊の書があった。聞き馴れない名の本と思うて手にとり開くと、歌の集である。あけたところに、「梅の花おもふばかりの枝の樹を心に植ゑてみるねざめかな」、又ひらくと、「聞きすてて飯(いひ)たく親の見ぬ間にも声を限になくうなゐかな」とある。喜んであがない、月明りに拾いよみをしながら帰宅して、夜ふくるまで通読し、その清新の歌風に深く感じた。文久三年の自序に「おのれが筑紫には」「近比この難波に来りて」とあり、集中には、「久留米柘原信厚七草園の歌」という詞書の一首あるのみ、九州のいずこの人とも知られないから、よく調べたいと思うた。
熱海に遊び、日金山にのぼって、
雲の影ちがやの山を走りゆけばほじろ山がら空にむれたつ
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