明治三十二年 二十八歳
一月 心の花は詞林と合同したので、石榑君、井原君の外に、岡麓、香取秀真、大橋文之の三君が編輯員に加わられた。
四月 皇后陛下音楽学校に行啓、幸田延子教授が、予の作詞「船出」(フランツ作曲)を独唱されるので、招かれて参列した。
竹柏会第一回大会を、四月六日、日本橋倶楽部に開いた。兼題春風、
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門を訪はばや
徳富蘇峰大人、巌谷小波君の講演。披講が終って、園遊会を催した。園遊会については遠山市郎兵衛君(光栄さんの父君)、会の全体については、石榑、印東、佐藤宗次、吉野、奥村岸子君等が尽力せられ、記事は吉田(後、片山)広子君が執筆された。数日後、野遊会を玉川に催した。
道の友心あへる友うらら春日玉川のほとり富士にむかふところ
八月 家族一同で大磯へ避暑にいった。谷あいの家であったが、近くに清い泉が湧き出ておったので、朝とくいっては静かに歌を思い、「大磯百首」をものした。
天地のかくろへごとをわが胸にささやくごとき水の音かな
海辺にて、
人いまだかよはぬ浜のまさご路をわれあとつけて暁をゆく
み越路の春のやよひの雪なだれそれおもほゆる波の色かな
白駒の白きたてがみ春風にみだるるなして波よせかへる
人の世のさかえおとろへよそにして波は千年のひびきなりけり
三浦守治君、石榑君らの訪われた日の探題に「声」と「百合」を、
声高にかたりあひつる舟と舟あひだ遠くなりて日は落ちにけり
順礼のおや子のすがた山に入りて青葉がくれの普陀らくの声
青雲をふみております神の手にとりもたしたる白百合の花
山百合の幾千の花をとりあつめ集めし中にひと夜ねてしが
小花清泉君と長寿吉君が訪われたので、相模川にいって、舟を浮べて魚をつり、帰途、花水川のほとりに、万葉用字格の著者花水庵春登のおった処を探しもした。二君のとまられた翌日、川田順君が一高へ入学したといいに来られた。喜びの記念に撮影しようと、近くの別墅におられる西升子刀自、幼い逸人文綱を雪子が伴い、八人で写真師にいった。刀自らは家に、小花君は海に、自分は長、川田二君と共に、かねて訪問したいと思っておった中島湘煙女史の邸を訪うた。玄関の壁に、病中ゆえ長座は断るとの張札がしてあった。突然であるがというて名刺を出すと、座敷に通された。「お目にかかって詩文の話をお聞きしたいと思うていたに、長三洲翁と川田甕江先生の子息の二人が来られたので同伴した」というと、喜ばしげに、自由民権説を主張された当時のこと、伊太利の風物、漢詩の話などをされる。自分は姻戚に当られる伊達千広翁の随縁集の歌がたりなどをしておると、母堂が庭の里芋であるからというて出された。「玄関の張札もあるに、長座してすまない」というと、「話のあうお客ならば、いつまでも話しております」というて笑われるに、女史もほほえんでおられた。帰途、松並木のほとりで、藤岡東圃君の来らるるに逢って、若い二人を紹介したことであった。
九月 修善寺に遊んだ帰途、熊坂に旧家竹村氏を訪うた。竹村茂雄は鈴屋翁の門下で、かの直毘霊を刻(ほ)って普く人々に頒った人。著書も門人も多く、韮山の代官江川英竜も教をうけたという。師友の送った書牘が多く保存されておる。当主五百枝君は、清水浜臣が庚子道之記の出版を報じたもの、鶴峯戊申が近く開版した語学新書をおくるという書状などを示されたが、文学史料としてすぐれたものが多いので、数通を写し、「伊豆の家苞」と名づけ、心の花十月号に掲げた。(学者文人の伝記を調べる資料として、書簡は貴ぶべきものであるから、他にも心の花に名家の書翰を多く載せた。)
十月、十一月の心の花に「みちのく百首」を掲げた。仙台に近い大河原の飯淵藤園、清水寅治二君に招かれていったのである。相馬の中村で二者に迎えられ、まず松川浦にものして、大河原にむかった。途中、実方朝臣のおくつきというあたりを過ぎて、
白玉をみがきし殿もくつる時あらむ安かるべしや草むらの墓
松島途上、扇渓にのぼった帰途、
歌このむ若き法師におくられて穂薄たかき山路をくだる
瑞巌寺にて、
おほとりのつばさ雲間にかげ消えて年ふる寺は秋の風寒し
二者に別れて平泉にいたり、毛越寺のあとを訪い、又ここかしこにて、
ころも川きたかみ川を吹き越えて秋風ひろし高館の城
大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風
みちのくの広野の原の秋風にすすきなびきて黒駒あそぶ
二度は蝶まふ春におとづれむあまりにさびしみちのくの秋
帰途、飯淵君の家にやどって、
月清し家人皆が手うちうたふさんさ時雨よ興ある夜なり
清水君を訪うて、
風にゆらぐのうぜんかづらゆらゆらと花ちる門ににはとり遊ぶ
明治三十三年 二十九歳
一月 心の花に、去年十一月の国風家懇親会における末松謙澄、落合直文、久保猪之吉諸氏の講話が掲げてある。
四月 落合君、与謝野君、予との発起で、大宮なる万松楼で観桜会を催した。来会者三十余人、山田寒山君の陶器焼に記念の歌をかいたりした。この月、与謝野君の明星が出た。その二号に大宮行の漫画が出たので、社友から抗議を申込んだことなどがあった。
竹柏会大会には、福地桜痴居士、幸田露伴氏の講話を請うた。福地翁のはたくみに、露伴氏のは、処女演説であるとのことであったが、おもしろい話で、長く同人の語りぐさとなった。雨中ながら来会者二百余人、会の記は大塚楠緒子(くすおこ)さんが執筆された。
五月 続日本歌学全書(十二冊)の出版が完成したことは喜ばしかった。
信濃より越後に赴いて得た「信越百首」を、心の花六月、八月号に載せた。
碓氷峠、軽井沢、御代田。
天つ風たもとにうけてうすひ嶺(ね)の山のいただきにわれ一人たつ
人の世はわづらひ多しはなれ山ひとり離れてわが世すぐさむ
夏さむき浅間がたけのふもと原雲ひくくおりてとぶ鳥もなし
上田の金井宣章君の案内で別所にいった。途上の石橋のもとに、「往来人車牛馬安全某寄進」という石標が建っておった。
いつの世のいかなる人の恵みにて今日この橋をわが渡るらむ
川中島で、
龍いかり虎うそぶきし跡いづら桑畑あをく麦ひいでたり
善光寺。老女のぬかずけるを見て、
老の身の命のうちにまゐりたくねがひしみ寺みえそめにけり
老の身の孫の手からず機おりてえたるこがねを今日たてまつる
ひれふして祈る嫗のいただきに金色(こんじき)の仏あらはれたまふ
城山館で盛んな歌会があり、ミスバラードも出席された。
高田では山岸光享君のもとにやどり、雪室にいった。
雪むろに酒をひやして室守が昔の恋をかたる夜半かな
春日山懐古、
海を越えて北に国あり何しかも得まくほりせし甲斐の黒駒
新潟、
さみだれにからかさかりて本町の朝の市みる旅の歌人(うたびと)
鍋茶屋の招宴に、舞妓が扇をひらいて、「去年お出での紅葉先生にもかいていただきましたから」という。「紅葉山人は達筆、自分は悪筆で」とことわると、傍におった新潟新聞の山田穀城君(佐渡の人、黄金花作というペンネームを用いておられた)が、「この舞妓は水上屋のおたひというて新潟一でありますから」というので、
うたひめの君が名四方に流れなむ恋の湊の水上にして
一句に「たひ」をよみいれ、四句は西鶴の文に「新潟は恋の湊」とあったのをとっさに思い出したのである。
上田なる歌会につらなるべく、帰途また金井君の家にやどる。
旅なればなげのことばも嬉しきをねもころ君が今一夜といふ
歌会の探題、「村」を、
二十年(はたとせ)に一たびなりし半鐘のはしごくちたり山かげの村
村の長(をさ)村のわるもの村の花ともにねぶれり松かげの墓
しらかしの若葉にこもる村はづれ家ゐは見えずをさの音きこゆ
帰途、車中作、
三日月のひかり一つを光にて武蔵野の原の日は暮れにけり
六月、亡父の十年祭歌会を上野梅川楼で開き、井上哲次郎博士に講話を請うた。兼題懐旧、与謝野寛君「新しき歌の姿をひらきたる子の信綱を嬉しとおぼさむ」、正岡常規君「世の中に歌学全書をひろめたる功に報いむ五位のかがふり」、尾上八郎君「うたびとと幼な心におぼえたる君がみたまに歌たてまつる」、自分は、
天にいますわが父のみはきこしめさむわがうたふ歌調べひくくとも
七月 石榑千亦君と同行、「房総漫吟」を得た。北条の歌会に島を、
小さなる望をすててむしろわれこの島守にならむとぞ思ふ
途上作、
法の師に法の道きき馬追に馬の事きく今日の旅かな
清澄山にて、
山たかきみ寺のうちにあるほどはわれもしばしの仏なりけり
明治三十四年 三十歳
一月 辛丑の年に因みて、牛を、
牛を追ひ牛を追ひつつ此の野辺にわが世の半はやすぎにけり
病みいます夫(つま)にかはりて此のちごの牛おふ年齢(とし)にいつかなるらむ
牛に似ておのがあゆみの遅くともゆくべき限りゆかんとし思ふ
二月 心の花に「大隈言道翁につきて」の一文を載せた。諸家に問うていたに、福岡人であること等が知られたのである。
四月 竹柏会大会に、大塚保治君の「日本服の美術的価値」という学者的な話、紅葉山人の「御託宣」というおもしろい話があった。
この月、再びみちのくに遊び、「続みちのく百首」を得た。勿来にて、
木がくれに鴬なきて春深き関のふるみちあふ人もなし
仙台ホテル歌会は、吉野臥城君を初め、来会者が多かった。探題の作。
ますらをのおくつきあれて五百年功名富貴春の夜のゆめ
海賊のおひくと見つるゆめさめてみなとしづけしありあけの月
志いまだ成らずや七年をおとづれあらず暹羅(シヤム)にゆきし友
支倉氏の墓をとうて、
かれがれのしきみの枝に露おちてまつかぜ寒しおくつきどころ
土井晩翠君、山家君と同車して塩竃に至る。扇渓への土井君らに別れて大高森にいった。土井君から、遠刈田(とおがつた)の山に沈む夕日の景が荘厳であると聞いたので、日の暮るるまでを山上におった。
楽しきわが世の半日山守が描(ゑが)ける画を見わらび折りなど
山の上に立ちてわが見る夕づく日明日の夕日は誰眺むらむ
日記の一節に、「山暮れ海くれ四辺全くくらくなりし頃、山を下りて船にのりぬ。十三夜の月は山を照らし海を照らしぬ。」
白帆きえ船唄きえておぼろ夜の月にたゞよふ千しま百島
白駒にしづ鞍おきて春の夜を神おりたたす松が浦島
「夜ふけて、舟、松島村に近づきし頃、我を呼ぶ声あり。汽車にてここに来りをられし飯淵、清水二君の五大堂にいたりて呼ぶなりけり。」
岸によべば舟に答へて舟によべば岸にこたふるおぼろ夜の月
翌日、飯淵君らと馬にて湯場にいたる。馬上吟、
のどかなる雲雀の声よはる風よわが乗る駒の鈴のひびきよ
六部一人しづの男一人馬の上ゆ見ゆる畔路(あぜみち)ただはるのかぜ
世の中の富よほまれよそは何ぞかすむ野みちの馬の上の我
帰途、那須野に下車し、塩原に寄った。
湯の中に足さしのべて老びとの病もしばし忘れがほなる
七月 「幼稚園唱歌」(共益商社出版)に「雀の歌」を掲げた。滝廉太郎氏作曲。
十月 「新選国民唱歌」に「夏は来ぬ」を掲げた。小山作之助氏作曲。
十二月 新築した一楼をことほぐと、東久世伯、学海翁、蘇峰大人をお招きした。当日、学海翁より竹柏園記を額にすべく書いて贈られた。
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