明治三十五年 三十一歳
一月 壬寅の年に因んで虎を、
肉(ししむら)の翼うごかし尾を撃ちて山の大君山川渡る
雪の夜を旗亭の酒に酔ひしれて張三李四の虎物語
一人がいふ市に虎あり又曰く市に虎あり恐ろしの世や
三月 「日英同盟平和の旗」を作詞、刊行した。
四月 大会に井上哲次郎博士は「女子と文芸」、学海翁は「明末の女傑」について述べられた。
中川のほとりに野遊会を催した。三浦博士の再度の欧州行の送別をかねてである。中沢画伯は所々でスケッチされ、大野君は撮影された。同行は三浦守治、石榑千亦、大野守衛、中沢弘光、小花清泉、印東昌綱、篠崎正、木下利玄、村岡典嗣、新井洸、橘糸重子、有賀晴子の諸君、雪子。
<中川のほとり 左から
後列――中沢、小花、三浦、木下、石榑、印東、篠崎、村岡君、著者
前列――新井、雪子、橘、有賀君>
六月 刀根川会同人と共に下総飯岡(いのおか)に「苔清水」の作者神山(かみやま)三郎左衛門魚貫(なつら)翁の旧跡を、さらに佐原に伊能魚彦(なびこ)翁の後裔を訪い、賀茂翁来訪の折の人々の歌巻を見、別家なる忠敬先生の旧宅を訪うた。
七月 皐月会の同人戸田宇八君に案内されて、秩父に遊んだ。荒川の上流で、
やな守の小屋にいこひて語る間に川上の山の雨雲はれし
八月 皇孫殿下の御養育主任河村伯に招かれて、宮の下の富士屋ホテルにいった。殿下がきわめてお健やかであらせられるので、侍医の弘田長博士、小原頼之氏、樺山常子夫人、看護婦の数人は歌を詠み、月々その詠草をおこされる。昨年の暮には、御避寒中の大磯の鍋島家別邸の一室にもさぶらったが、此の夏は、殿下が富士屋ホテルの別館に御いでなので、昨夜階下の一室で歌がたりをしたのである。今朝もそのつづきを語り、帰ろうとすると、伯がホテルの食堂に案内された。昼餐が終った時、「ベランダにチェンバレン教授がおられる。御承知なくば紹介しよう」というて側に行かれ、「この佐々木君はこれこれ」といわれると、教授は実にすがやかな日本語で、「佐々木君のことは知っています。著書をも見ました」といわれたので、伯は別館に帰られた。自分は、「御著作を読み、上田万年博士からも屡々お聞きして、御目にかかりたいと思うていました。」というと、「書斎でゆっくりお話をしよう。」と案内された。ホテルの東北にあたる熊野神社の傍の地の日本式の建物である。入ると右側の卓子の前の大きな椅子――腰かけながら運動の出来るロッキング・チェヤーがあり、その前の椅子にフランス人の秘書が本を開(あ)けて待っておった。広い建物には和漢洋の書籍が一ぱいに書架にあふれている。「十五分間お待ちなさい。眼がわるいので秘書に読んでもらっていつも聞いておる。これが君の「歌の栞」。……書架のどの本でも自由に出して読みなさい」というて椅子によって秘書の読むのを聞いておられる。自分は書架の前を静かに歩んで、種々の和書をとうでては開きみる。いずれにも王堂蔵書の印が捺してある。――後にお聞きしたによると、明治六年に日本に来られて、当時は購う人の少なかった善本を多くつどえられたので、和書だけで三千三百七十余部あるとのこと。十五分すむと秘書は帰ってゆく。「又くるまで三十分ある。その間お話をしよう」と前なる椅子をすすめられた。自分は「父が明治十三年に編纂した明治開化和歌集に英人王堂として先生の歌をのせてあるのを記憶しております」といい、古典についての先生の考をお聞きすると、種々のヒントを与える話をして下さった、短い間に三十分は過ぎ秘書が来たので、「又おいでなさい。守部の稜威道別(いつのちわき)の話やいろいろ話しましょう」とのねんごろな詞に感謝しつつ辞去した。――九月半過に又訪問したに文庫に通されて「日本古代の詩歌」の話をすると、書棚からぬき出して示された。それには縦横にインキで直してある。別の本を出して「これが再版です」。それも所々直してある。「お国の方は(先生はいつも日本の事を「お国」といわれる)不思議です。再版の広告を見て買っても同じものです。わたくしなどは、其のたびごとに改版したものを再版三版といいます。日本事物志も、日本旅行案内もそうです。‥‥‥」。そうして、日本古典の研究、真淵、宣長、守部について話され、文学研究の方法につき、種々の教を受けた。先生のおられる反対側の窓からは、早川の水のたぎちも見おろされ、明星が岳の中腹の茅萱の中には百合の花のさいておるのも見える。この王堂文庫は、自分の新たによみがえった魂の故郷のように思うて、毎月おたずねし、冬の間は横浜の廿六番のゼネバホテルに訪うて数々の提撕を受けたことであった。
富士登山すべく篠崎正君にともなわれて出で立った。御殿場から鉄道馬車で籠坂峠をこえ、山中湖の知人のもとに語らい、夜に入って吉田なる上小沢潜君を訪うた。篠崎、上小沢君は、今は大学生であるが、さきに、一高の一部三年三の組の諸君がいささ会を結んで歌の道に精進された、その会の同人である。翌朝は雨であったが、午後晴れたので、まず浅間神社に詣で、馬車で裾野をよぎって、馬返しでおりた。落葉(から)松や樅桧の生い重なっている山路を強力におりおりうしろからおされもして、一合目から次に四合目に来ると、ここで泊るのですと上小沢君はいう。大足弱(だいあしよわ)の自分も、まだ少しはのぼれるがというと、ここは親しい家だからとのことで、脚絆をぬいだ。「大事なお客さんだけにわかすのです」という雨水をためた風呂を浴び、二君の若々しい話を喜んで聞いておると、何か、うたうようなわめくような声をたてて酔歩蹣跚(まんさん)のぼって来た中年の男、室の前の休み所の茅屋根の上にするするとあがって、大の字なりに寐た。木間の月はさし、夜風は冷たい。おりて来て、「酒」「酒」という。室の主人は、「御免下さい、遠縁の者ですから」というて濁酒(どぶろく)の瓶をもって来た。自分は強力にもたせてきた麦酒をぬかせてすすめ、自分らものんだ。「僕は若くて武者修行に全国をまわった。鉱山にもおった。日清戦争では人夫長になってはたらいた。帰って来ては選挙にも……。今の政治家は政治を知らない。実業家は虚業家である」。弁論風発。やがて横になって寐てしまった。自分らも床に入ったが、自分は眠られぬままに手帳を出して、薄ぐらい灯下にこの豪傑を題材にして連作を作り試みようと苦心した。
翌朝は日高くなって起きた。駒鳥の声が聞えていて、昨夜の豪傑はいない。麦酒の明瓶(あきびん)に清水を充たせて、山路をのぼる。森林の中を登ってゆくと、目さめるような石南花(さくなげ)の紅い花が咲いている。強力にいうて一枝を折らせ、瓶にささせて持って登ることとした。五合目に出ると森林は夢のように消えて、初めて富士の巓(いただき)を見た。今までは富士山にあって富士を見なかったのである。ここを「天地(てんち)の境」というのをうべなりと聞いた。山頂は手にとるように見えはするが、黒い砂、赤い砂、黒い岩、赤い岩、一歩一歩をふみしめ登る。強力も篠崎君も押してくれる。が、足弱には容易でない。六合目半の岩室の辺で、急に雲が湧き出て、四方は真白になった。
ゆきあひし白衣(びやくえ)の群は影消えぬ白雲のうちに鈴の音して
すぐ晴れますという強力の詞のとおりに晴れたので、徐々と登って八合目の室につき、一休みすると、上小沢君は「今夜はここにとまるのです」という。「大丈夫、頂上まではゆかれます」と自分がいうと、「いや、今夜はここで月を見て、明朝くらい内に起き、雲海を望むのです」といわれる。「それでは」と隅の壁によりかかって昨夜の手帳を出し、「豪士吟十章」を得た。
剣を負うて落魄(らくたく)ここに二十年わが髪白し秋のゆふ風
広き世もこの身一つをいれずしてまた帰りきぬ故郷の山
志事とたがひてやせし影うつすもはかなふるさとの水
人触るれば人を斬らむの剣太刀鞘にをさめてすでに幾とせ
人の世のねたみ争ひ見おろして山の室屋にわれ老いむかな
耳しひし世人に何を語らはむ天(あめ)を仰ぎて唯笑はばや
ことごとし何の冠なにの衣(きぬ)猿(ましら)はもとのましらならずや
さかしげにいづこの誰か言挙(ことあげ)する酔ひて歌ひて吾が世は過ぎむ
世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
酔ひ酔ひて酔泣するを許せ君ますらをいかで涙なからむ
外に出ておられた二君が、「月が出ました」といわれるので、室の外に出た。何といううるわしい月の光であろう。
天地に物音もあらず月一つ空にかかれり富士の嶺(みね)の上
見るままに清く静けくうるはしく果は悲しき嶺の上の月
声高(こわだか)に物は語らじほどちかき星の宮人ねむりさむべし
室には相客が少なかった。
岩室を夜半に立ちいでて見さくれば人の世くらく雲立ちわたる
天近き室の岩床夜を寒み人の世こひし人の身われは
富士の嶺(ね)の石の室屋の岩枕ゆめ白雲の上にただよふ
早暁におきて室の外に出た。ああ雲海、雲海の壮観。
北の海の千尋高波みるがうちに氷りし如き雲の海はや
筑波嶺の神のみ使いたるらしひむがしの空ゆ雲舞ひきたる
敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるなして雲走りゆく
いく千人幾よろづ人ひとひらの此の白雲の下に住むらむ
ただよへる麓の雲の底にありて何をか競ひ何をか争ふ
雲海の底に光れる湖(うみ)を見つつ暁の風の清きに吹かるる
道者らの六根清浄の声々を前に後(うしろ)に聞きつつ、山頂にいたり得た。
あらたまの年の緒ながく恋ひ恋ひしこれの頂にわが立ちにけり
天地日月と共に足(た)りゆかむ国のしづめの富士の神山
わが大君龍(たつ)のみ馬に鞭うたし国見しまさな神山の上に
銀明水のもとで、
神の代に天降(あまくだ)りけむ天人(あまびと)のくましし水か白金の水
白玉の甕(もたひ)に盛りて大君にささげまつらな白金の水
剣が峰の野中測候所の側が最も高い処であると聞き、そこの岩垣の上に強力にもたらしめた石南花の瓶をおき、黙祷すること数分、一首の歌を得て声たかく誦して天つ神に聞えあげた。
いつよりか天の浮橋中絶えて人と神との遠ざかりけむ
二君もそれぞれによみあげられた。昨夜の安眠が足弱男に足力(あしぢから)を与えて、強力に手をひかれつつ噴火古坑に数十歩おりて、形のよい熔岩を拾い、家土産(づと)にと強力に持ってもらった。
根の国の底つ岩根につづくらし高嶺の真洞底ひ知られず
もゆる火のもえたつ上に天ぎらひみ雪ふりけむ神代をし思ふ
下山はらくであった。上小沢君を知っておる吉田の人が声をかけて、「たしか一昨日おのぼりでしたね。おまわりでしたか」という。四合目に一晩、八合目に一晩とまるなどということは普通の登山者にはない事、いわゆるお鉢まわりをなさったかとの問であった。二君の厚意によって登嶽し得たことを深く感謝した。
篠崎君と二人、河口・西湖・精進・本栖湖に遊び、「湖畔の一夜」という文をものした。
帰途、篠崎君に別れて大磯に下車した。それは、滄浪閣に滞在しておるから、富士の帰途に立寄るようにといわれている末松謙澄博士を訪うためであった。さきに同人となられた伊藤梅子夫人と一緒に歌がたりをしておると、折から在邸中の春畝公も逢われるからというので、座敷の食卓へと案内された。金子堅太郎伯もおられた。問われるままに富士を詠んだ古い歌の話などをした。食後、一同は別室にゆかれ、公と二人、ベランダの椅子につくと、六朝の詩について、森槐南は現代の一流詩人であること、詩も歌も題材を選ばねばと、滞欧中に見られた油画について等々、ねもころに話される。「歌はおよみになりませぬか」というと、「殆んどよまない。歌は山県、俳句は西園寺が」といわれた。広い庭の松木立をとおして吹いてくる海の風も心地よいに、時の過ぐるのを忘れたことであった。
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