明治三十七年 三十三歳

甲辰元旦、
   新年おめでたうと支那小僕(ボーイ)が年の寿詞(よごと)の聞(きき)のよろしさ
   大いなる錫の器に雑煮もりささげもて来つ元日の卓
金山寺にいたる。
   風鐸の音のさやけさ塔をのぼる一きだ一きだ天にのぼる如し
   宝塔の高きにのぼり望む大江(おほえ)、大江遠々し白雲ながる
   のぼりをへて高きにのぞむ大江の水滔々とゆくいづら揚州は
   さしのぞけばしだの垂葉(たりは)に葛の葉に埋(うも)れてありけり天下第一泉は
甘露寺、
   四天王つくりいとなむ老仏師ひじりさびたるがつぶつぶと語る
   仁王尊の臂に丹(に)を塗る若きをのこ、雷紋を彫る年老いたるは
   通訳(をさ)をとほし聞くに黙(もだ)して土に書く仏師が文字のめでたかりける
江上所見。
   船に充つ天竺参詣者(まゐり)赤き帆は夕風うけて大江をまぎる
   まぎる帆のふなべりにより江の水の入日をろがむ善男善女
上海から運河を蘇州にいった。
   四手網高うかかれり川隈の日かげ寒み散る大き桑の葉
   宝帯橋(けう)見ゆとしいふに船窓をあくれば白きしののめの水
蘇州、
   画舫おりて留園に入る笑ひごゑ姑蘇は人みなうつくしき国
   橋のかたちおもしろければ轎子(こし)とめて見る夕河のくれなゐの波
   今しここ姑蘇城外の寒山寺古碑の拓本を見めでつつ語る
   日本租界ただいたづらに草高み鶉狩するによき所といふ
杭州、
   とざしたる湧金門の朝月夜はつはつ白きみづうみの色
   ゆさゆさとゆれごこちよき轎子(こし)にして西湖を見れば王侯(うまびと)さびぬ
   西湖の朝の薄氷(うすらひ)棹もて打ち棹もて打ちつつわが舟をやる
   白堤は蘇堤は未だ楊(やなぎ)もえず三潭印月の階段(きだはし)のぼる
放鶴亭に舟をとめて、
   湖(うみ)に沿うて植ゑし三百六十樹鶴(たづ)が音雲にかをりけむ廬(いほ)
   あしたづの景雲に入りてすでに千とせ梅さきかこむ林処士が墳(つか)
   林処士の霊に請ひて折る梅一枝(ひとえ)つぼみここだくすでにふふめり
   西湖の水小瓶(をがめ)にみてて蕾幾つふふめる梅の一枝(ひとえだ)を挿す
   鏡なす西湖の水を手にむすび夙く逝きし友中野逍遥を思ふ
蘇小小の塚をとう。
   梅ちりて湖畔に月のにほふ夜をいでて語るか高士と佳人と
偶感、
   手とりかはし笑みて談(かた)らなこの国の遠つ聖に多く学びき
   国土(くにつち)をひろみゆたけみげにまこと「眠れる獅子」を忘れて思へや
帰途作、
   五百重波千重しき波のはて遠く天つ棚雲丹(に)の秀(ほ)かがよふ
   紺青の海にいささかの波たてて汽船(ふね)は五島のかたはらを過ぐ
   よき旅によき土産(つと)得たり船室のあたたかにして梅花(ばいくわ)ひらきぬ
         (附記。この梅一枝は、帰京後、野口詩宗に贈ったに、詩数篇をおこされた。)
長崎に着いた。
   いく月を旅に酔ひたる夢きえて港の街は人あわただし
二月 帰朝歓迎会が催された。日は十一日の紀元節、所は九段偕行社の別館。日露宣戦の詔勅はくだり、仁川、旅順の捷報の来た翌日であった。社友から講話をお頼みした石黒忠悳翁は、自分の南清行についての感想を語られ、最後に「拙者実は今日紀元節の陪食に出まして、唯今が帰途でございますが、いつもは、陛下の御言葉に、各国の公使並に群臣と宴を共にするを悦ぶ、という御言葉がございますが、今日の御言葉には、その末に、友邦との交際が絶えて、今日の此の宴に、今まで列なったる各国の代表者の中の者を欠くと云うに就いては、遺憾に思召す、という御言葉でございました。」と述べられた。一同、畏み承ったことであった。
三月 新小説に「南清の演劇談」を寄せ、帝国文学会大会に、南清風景談を述べた。
「露西亜征討の歌」を博文館より、「征露軍歌」を金港堂より出版した。なお同人なる上真行、小山作之助氏の日露戦争国民唱歌(博文館)に「旅順口攻撃」を寄せた。
四月 帝国文学に、チェンバレン先生の「思草をよみて」(英文)が掲げられた。
五月 田村虎蔵氏の作曲になる「露国征討軍歌」が出版された。
五月の研究会に、八杉貞利君は「露国雑話」を語られた。
六月 早稲田大学の文学同好会に、源氏物語について講じた。
七月 納所、田村二氏編纂の新大捷軍歌に「仁川の海戦」を寄せた。
八月 心の花に、
   いゆきゆけすめら御軍(みくさ)の向ふところ向はむ敵(あた)のありと思へや
   月ふけぬ夜風つめたし百万の敵も味方も胸に思ひあらむ
   戦にむかふ若人(わかうど)の命懸くる心もちつつ筆とる今宵も
   月清きこよひ今の今も海の外(と)にますらたけをら戦ひてあらむ
新大捷軍歌に「九連城占領の歌」を寄せた。
八月 研究会に、寺崎広業君は「南山金州談」を話された。
十月 女学世界に「日本古代の軍歌」を寄せ、遼陽占領軍歌」を金港堂から出版した。
十一月 日本美術院にて「源氏物語と絵画」を講じた。
文部省の戦争唱歌第一篇の中に「第四回旅順口攻撃の歌」、「九連城占領の歌」、「閉塞隊の歌」、「南山占領の歌」、「旅順口外海戦の歌」の五章を寄せた。
十二月歌会に、鳥居竜蔵氏は「俚歌童謡」について述べられ、琉球・美濃・飛騨の俚歌について蓄音器を使用された。
大橋乙羽君を小石川に訪うたに、橋本雅邦画伯がおられ、初対面の画伯より、感銘深い談話をきくことを得た。《注:大橋乙羽は明治34年(1901)没。》

    明治三十八年 三十四歳

一月 旅順が陥落した。
   旅順おちぬ旅順おちぬと人も我もいひつつ喜の涙はふりおつ
   万歳のとよみの都ともし火の光の都、旅順陥落せり
高等師範学校国文学会に「戦争と古代の歌」について述べた。
長井金風君の壮行を送る歌、
   葱嶺の西三千里君行かば蹄の跡ゆ美(うま)し花咲かむ
「旅順陥落祝捷軍歌」を金港堂より出版した。
二月 研究会に角田竹冷氏の遼東旅順観察談、御木本幸吉氏の真珠物がたりを聞いた。
三月 帝国文学に「慨世吟」(南清にての作)を掲げた。
心の花に、磯辺千浪の名で「心のあと、出廬を評す」を、また「明星記者に答ふ」を掲げた。
文部省編纂の戦争唱歌第二に、兵士の門出、常陸丸、輜重輸卒、蔚山沖の海戦、露営の夢を掲げた。上真行、小山作之助、幸田延子、田村虎蔵、内田粂太郎氏の作曲にかかる。
研究会に、上田敏君が、「イブセンの海の夫人」を話された。
四月末より五月にかけて甲州から諏訪を経、木曽路を過ぎ、美濃に至った。諏訪湖をわたり、岡谷にいたる舟中の作。
   神の国か夢の国かもみづうみをつつめる虹の裾を船ゆく
鳥居峠にて、
   峰の雲吹きただよはす山風に五月雪ふる大木曽の山
薮原より上松に、
   つなぎたる馬のたてがみそぼぬれて古駅さびしき夕ぐれの雨
   山祇(つみ)が千とせひめたる神歌をうたふか夜半の木曽川の水
中津川なる間氏にやどり、翌日、小鳥狩を見る。
   春日けむる松の梢(こぬれ)の上こしてそそや来れり一群小鳥
振棹におどろいて舞いさがり、網にかかるのをいとおしいとながめた。
虎蹊山にて、
   参禅の雲水五十黙として藤の花ちる獅子窟の前
提唱が終って、海晏禅師の室に請ぜられた。
   散り乱る思そぞろにをさまりて滝の音遠き禅房のうち
六月 研究会に、南清から帰られた水野梅暁師の南清仏教談を聞いた。
七月 奉天戦に負傷して野戦病院にある斎藤瀏中尉が入会された。
対馬沖の大海戦に参加された宮部光利君から「待ちに待ちたる敵艦隊全滅、わが軍艦一も沈みしものなくいづれも健全、僕また微傷だも受けず」の報を得て喜んだが、日進艦乗組一等書記松井尚敏君は不幸戦死された。
廿二日、東京帝国大学文科大学の講師を嘱託せられた。これについてはかつて書いた文詞を掲げる。『自分は父の志を継いで、生涯を民間にあって、著作と後進の指導とに努めたいと志していた。しかも王堂チェンバレン先生の知遇を得、その提撕に感激して、和歌の歴史的研究を企てておったが、明治三十七年南清の旅より帰るや、やがて、日露の開戦に遭遇し、心に深く日本的自覚を痛感して、祖国の文学、祖先の芸術を顕彰することの意義おおきを確信するに至った。然るに、明治三十八年の五月のある夜、東大の上田、芳賀二教授が相たずさえ訪問されて、今度大学で、独逸の大学の員外講師に倣って、講義すべき題目を持っておられる学者を招聘する制度が設けられた。それで、有賀長雄君に古代の法律を、岡倉覚三君に美術の方面を、森槐南君に漢詩の詩学を依嘱した。就いては君には毎週二時間――一時間を研究されたものに宛て、一時間を万葉集の精細な講義をしてもらいたい。近頃の学生は、古典の基礎的研究が乏しいようであるから、とのことであった。自分は二君の好意を謝しつつ、数日の猶予を請うた後、父から常に聞いておった足代先生の「かつ教へかつ学ぶ」という決心で講師の嘱託をうけた。』
八月 心の花に「出陣」一章、木曽行の「大滝神社」一篇を掲げた。
鎌倉円覚寺の仏日庵より、誠拙禅師の歌集、その日記虚行実記を借覧した。
東大の新学期なる九月の第一日に赴いて、上代歌謡の研究の講義をした。その初めに、垂仁記にある「神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のままに」という諺を引いて、上代の庫は高かったので、梯子でのぼった。そのように、自分の講義を樹梯として、学問芸術の殿堂の尊い庫にのぼってもらいたいと述べたのであった。
この第一日の一笑話がある。法文科の建物の右の入口なる事務室にまず入ったが、事務員はそれぞれ忙しそうであったので、奥の事務長の卓の前にいって、「教員の控室はどこですか」と聞いた。すると、「ここは君たちの入ってくるところではない」という。「いや、今日から講義に来たのです」と答えたところ、自分を見まもって、「そうですか、それならば」というて隣の控室に案内してくれた。自分は数え年三十四歳であったので、老学生と見ちがえられたのであろう。
国学者伝記集成の編者のために、先人の略伝を執筆した。
十一月 足代弘訓翁の五十回忌に伊勢にと思うたが、赴きがたく、「足代弘訓先生」の一文を心の花に掲げた。
小花清泉君と足尾・日光・塩原にものした。
足尾にて、
   猛火の滝ほとばしりたぎつ熔炉の前たふときかもよ灼熱せる顔
   石がちに草木も生ひず杭並ぶ墓場つめたき鉱山の道
日光にて、
   時雨日の雲間もる光つよくさせり枯草色の山の一角(いつかく)
   大崩(なぎ)の大き斜面の一ところのこる雑木は真あかにそめたり
   大平ちりつくしたる白樺の木立のひまのつめたきゆふ日
   山おろしさとおろしくれば散り乱る木葉(このは)が中にただよふ心
塩原にて、
   湯のやどりかどにつるせるから鮭のうろこに寒き山の冬の日

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