明治三十九年 三十五歳
一月 心の花巻頭に「第十巻第一号のはじめに」という時事についての文を掲げた。
歌会に、坪井正五郎博士の「野蛮未開人の歌心」というおもしろい講話があった。
四月 華族会館なる大会。鴎外博士のゲルハルト・ハウプトマンに就いての講話。次いで雅楽、伶人の催馬楽朗詠、納所弁次郎氏の「船出」の独唱があり、香取秀真君の魚袋式文鎮を記念に頒った。
この月、伊勢松阪の鈴屋、山田の神宮文庫を訪い、志摩多徳島にものした。
志摩行、
志摩の国安乗(あのり)の崎の春風に貝ふむ道のうぐひすのこゑ
南風(みなみ)吹けば熊野より来るこま鳥のこゑうつくしき山吹の渓
雲雀うたふ鴬うたふ島の間(ま)を櫓唄のどかに春の江渡る
ゆあみよしと貝が音吹けばをち方の島の島守舟こぎきたる
春の日の霞めるゆふべ酒のせてあごの入江を舟こぎめぐる
英虞(あご)の海入江暮れたる夕もやに声よき海士がおし送り唄
丘の上の風見うごかず鏡なす入江の朝を蝶一つ舞ふ
志摩ぶり、
あま少女悲しき唄をうたひやめよ世の波知らぬ汝(な)が世幸あり
黒髪を波にまかせて波と遊び波とかたらふ海士の子なれば
卯月八日海をやすみて海士をとめ磯山寺に花まつりする
海にいき海に終りてとこしへに海にむかへる島人の墓
水桶を頭(かしら)にのせしをとめゆく煙草の花に小雨ふる岡
和具の大島小島しまの間(ま)を真白帆はしるまぜ吹くらしも
磯部のや御(み)田植祭人目おほみ逢ひて物いはでいや恋まさる
この行の記事「多徳島行」を報知新聞に寄せた。{後年乙竹博士編纂の御木本翁伝記に転載されている。}
帰途、相坂峠をこえて五十鈴川の上流に出た。
いすず川川上清き瑞山のゆつ岩群のやま吹のはな
暁に、内宮に参拝した。
神路山神杉蔭のもやわけて神代おぼゆる朝まうでかも
もや深き神の宇治橋とどろとどろふみならしゆく朝まうで人
六月 研究会同人の歌集「あけぼの」を出版した。
この月、文部省の嘱によって、尋常小学読本のために「水師営の会見」を作るべく、乃木将軍を訪うてその事を語ったに、暫く考えておられて、「教科書にはおもはゆく思うから」といわれた。予は辞去しようと思いつつ、「しいて申すのではありませぬが、既に一つの題目として定められたものでありますので、他の人が代って御依頼にあがるかもしれませぬからよろしく」というと、暫く待ってくれというて考えておられたが、「それならばお作りありたい。しかし記憶の誤りがあってはよくない。当日列席した安原参謀と二人でお話をしよう、手紙で日をいおう」とのこと。やがて書簡が来たので、その日、九段の偕行社にいった。まず将軍が縷々と述べられ、安原参謀が折々詞を交えられた。かなりの時間がたったので、予は感謝しつつ椅子を離れて、ふと、「その庭には何か木でもありはしませんでしたか」と問うと、「隅に、なつめの木が一本あった」と少佐をふりかえり見られた。少佐は、「そうでした。弾丸(たま)が大そうあたっていました」といわれた。それで作中に「庭に一もとなつめの木、弾丸(だんぐわん)あともいちじるく」といれたのであった。
七月 寺田憲君と伊香保から榛名に遊んだ。
門涼み人の噂もさ夜ふけて屋根の上なる天の川かな
浅黄絽のこすもす模様袖ゆれて人うつくしき朝湯元道
神榛名御手洗(みたらし)の湖(うみ)朝すみて真白木綿雲並山めぐる
九月 賀古鶴所君に招かれて、浜町の常磐にゆくと、小出粲、井上通泰、大口鯛二、森鴎外君らがおられた。「実は、山県公が歌の研究会を催したいといわれる。自分と森君とが幹事に、岡山高蔭君が書記をつとめ、公と自分とが一(ひと)月おきに開くから」との熱心な話。第一回は小石川の新々(さらさら)亭で開かれた。公は、「自分は維新の初めから歌を詠んで近藤芳樹翁に学び、今は小出君にみてもらっておるが、より一層この道をきわめたく思っての会である。自分は、行灯のもとに山家集をよむという風の歌はよまないが、時世の移りかわりは何の道にもあるから……。来月よりは一月おきに椿山荘で、八月は小田原の古稀庵で催したい。今、部屋を片づけさす間、庭におりて池のまわりをまわっていてほしい」との詞であった。森さんと並んで庭におりようとして「あの行灯のもとにの歌は僕の思草のです」というと森さんは、「山公(さんこう)(森さんも賀古さんもいつも山公というておられた)は今度君にも来てもらうと考えられたからには思草を通読されたのであろう」と笑っておられた。浜町の常磐で初めの打合せの会が開かれたので森君が常盤会と名づけられた。椿山荘の会は、能舞台の鏡板のある大広間で、誰も他の人は入って来ない。多年の間にただ二回だけ、乃木将軍と渡辺宮相とが何か急な用事で来られ、入口の間で話されてやがて帰られた。この会は、後、番町の英国大使館裏の新椿山荘に移り、公が世を去られるまで長い間続いた。《注:一月おきに開くから」。底本に」はなく、補った。》
十月 末松青萍博士に招かれ、軽井沢に観楓に赴いた。森槐南、本田種竹氏等同行。
紫のつくは少女を恋ひわびてますらを浅間八千年もゆる
碓氷峠にて、
天そゝる千ひろ岩山下に見て錦の雲の中にたつ吾は
この月、千葉県笹川の多田氏にいたり、東常縁の旧跡、東神社等を訪うて古典籍をさぐり、干潟八万石を一望できる台地の城山に鉄牛禅師を偲びなどした。
十一月 心の花百号記念号。芳賀矢一、森鴎外、幸田露伴、小栗風葉、上田敏、蒲原有明氏等の寄稿を掲げた。
明治四十年 三十六歳
一月 心の花に、鴎外博士は、腰弁当の名で小説「有楽門」を寄せられた。
四月 大会は三井集会所で、上田万年博士の「御伽話中の由来譚」の講話があった。
六月 心の花に木下利玄君は、木下小青の名で小説「お京」を発表されたが、七月号に「お京をよむ」と題して、志賀直哉君を初め君の親友が批評を寄せられた。
十月 京都に桂園樹立百年祭に列し、聞名寺のおくつきに詣で、大原に遊んで「大原の秋」を草した。
また向日町に六人部家を訪うて是香の遺著を見ることを得、須磨に秋色を探って帰京した。
この年、文部省より小学唱歌の制作を依嘱せられた。
鴎外博士から伊藤左千夫君と与謝野寛君と君とを招いて歌の話を聞きたいからとの招きで、当日いった。いつもの観潮楼(団子坂の上から品川の潮が見えるとのことで、古く団子坂を汐見坂といったのによって名づけられたもの)の二階で、上田敏君も来ておられた。伊藤君、与謝野君、上田君、とりどりにかわった性格の持主であるが、うちとけた楽しい会であった。後数カ月たった会の終る時に与謝野君が、来月は僕のところへくる若い者をつれて来ますからとの詞に、自分も、木下君や新井君などをというと、与謝野君は、いやこの会の事は僕に任せてくれたまえと強くいわれた。翌月から、木下杢太郎、吉井勇、北原白秋、石川啄木君らをつれてこられ、伊藤君は斎藤茂吉君、古泉千樫君などを伴いこられて、歌の競詠会のようになった。自分は不服であったが、与謝野君と喧嘩をするのもと思い、鴎外さんに対して毎月出席した。はじめは雲中語のつどいのような森さんの考えであったかと思われたが、観潮楼歌会として二年ほどつづいて、歌壇にもその名の残る会となったのであった。
この年、三重師範学校の校歌を作成した。(作曲は小山作之助氏)。また四十一年二月には下関商業学校の校歌をものした。爾来数々を作ったが一々に挙げない。
明治四十一年 三十七歳
一月 戊申の年というので、猿を詠じた。
いかめしう冠つけし猿丸の前にぬかづく盲目(めしひ)の群は
猿芝居五郎太夫は春風にわれ見る人を見て笑ひをり
猿芝居太夫のおもと腹だちてうしろむきなり春のともし火
わたし舟薄雪白し猿曳がせおふ小猿のさむげなる顔
大殿(おほいどの)猿がう言(こと)をのたまふに姫うちゑます紅梅の窓
二月 心の花に、古泉千樫氏は、「最近十年間における歌界の概観」を寄せられた。
四月 竹柏会大会に、大隈重信伯は、「予が文学観」に就いて講演せられた。
六月 隅田河畔高砂楼の古典科同窓会に先生がたをお招きした。席上、扇子に署名を請うた。「加藤弘之{齢七十三}成斎重野{齢八十有二}羽峯南摩綱紀{歯八十又六}木村正辞{八十又二}本居豊穎{七十五}小杉榲邨{七十二}三島毅{八十少一年}。」
七月 成美講演会に「平家時代の女性」について語った。
三上、萩野、市村博士と水戸にものし、彰考館の庫中に古書を捜索して得るところがあった。
心の花に「旅がたり」(富士五湖めぐり、吉田の火祭について)を掲げた。
下旬、精華学校転地修養会の一行と妙義にものした。
九月 「歌学論叢」を出版した。歌学史上の研究の主なものを一冊にまとめたのであった。
十月 下総刀根河畔の高橋、桜井二君から招かれて、石榑君、木下君と同行、鮭網を見にいった。
背景に筑波を、前景に大刀根を、穂綿ちらして芦群(あしむら)が躍る
とや舟の鈴網手縄(てな)に手触りつつ聞きしむ、老翁(をぢ)が鮭物語
鈴のおとしきりに鳴りて銀(しろがね)の鱗は光る三尺の鮭
十月二十五日、亡父の記念碑(「和歌の浦の」の歌を東久世伯に揮毫を請うたもの)が有志の人々の好意によって故郷伊勢鈴鹿郡石薬師に建てられたので赴いた。式場には、林三重県知事、北野鈴鹿郡長、相沢三重師範学校長、中村八高教授を初め、摂津美濃尾張よりつどわれた竹柏会員等数百人、亡父の喜びもさこそと思われた。碑は浄福寺の門前で、碑のめぐりの木々の中には、父が松阪に移る時、寺の上人におくった竹柏(なぎ)の木が、緑うるわしく栄えているのを再び移し植えられてあるのもなつかしかった。祝辞、講演、父をたたえた小学生の唱歌がうたわれた。なお、父の忌日は六月廿五日であるが、六月は農事に忙しい時であるので、後には爾来毎年十月廿五日に、小学校で記念式が行われ、数十年後の今日まで継続していることは感謝に堪えない。《注:佐々木信綱「伊勢路大和路」(「心の花」12巻第12号)参照》
廿六日に桑名の船津屋で濃尾の会員の歓迎会、廿八日は名古屋の八事山の八勝館で名古屋の歌人の歌会に列なり、帰途、大和路を巡った。
空清く晴れし秋の日わが夢の王国寧楽(なら)の上を照らせり(奈良)
光明のかがやかなりし御(み)后の御くつ触れけむ西の京の道
秋さむき唐招提寺鵄尾の上に夕日は照りぬかし鳥のなく
薄き日は壁画に匂ふなつかしき慈眼(じげん)にすがり泣かまくほしき(法隆寺)
秋雨に飛鳥をゆけば遠つ世の思ひするかな萩の花ちる
行く秋の雲はうかびぬ陵の山の木立をめぐれる池に
秋寒き薬師寺の道うすき日はついぢの上の雑草にさす
いにしへの巨(おほ)き匠の霊(たま)ごもる執金剛を見ればたふとし(三月堂)
大和懐古、
百の司(つかさ)あともひまして国見せす青香具山の春のあけぼの
はにわ造る翁媼(おきなおうな)ら香具山のさむき夕日にかけす声して
榾くべて翁ら語る昨日(きそ)過ぎし神のいくさの玉まきの太刀
紅の君が栲領巾(たくひれ)婆羅門のかげにかくれぬ石だたみ道
明治四十二年 三十八歳
一月 心の花に「和歌私見」(桑名歌会席上講話)を掲げた。
三月 「日本歌選上古の巻」「国民歌集」を刊行した。
四月 竹柏会大会。講話は新渡戸稲造博士が「ファウストに就いて」を述べられた。余興に市川粂八、内田静枝(藤蔭静樹)さんの舞踊があった。兼題、春野、
新墾(にひはり)の歌の広野のわか草の花さく春になりにけらずや
長君、木下君を柏木に訪うた時、
柏木はかりそめ建ての貸家のあなたこなたに春の風ふく
五月 盲腸炎を病んで、
根の国の底つ大岩に根ざしたる花かも病める眼にし見ゆるは
七月 心の花に「歌学資料三則」(公任、顕昭、魚彦)を掲げた。
九月 宮内省図書寮の図書の拝観を許され、万葉集の注釈の伝存せる嚆矢というべき「万葉集抄」等を発見した。
十二月 陸奥の清水寅治君を悼みて、
わが友よ幸(さち)薄かりき国をしも治むべかりし村にうせぬる
一つきのたむくる酒をのみほさな幸薄かりしみちのく人よ
依田学海翁挽歌、
白がねの髯かきなでて声高(こわだか)に語らひましし先生いまさず
世を人を罵りつくし高らかに笑ひましし御声耳に残れど
この年、仮名交りにせる「改訂万葉集」を脱稿し、木村正辞先生に序を請うた。
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