明治四十三年 三十九歳
一月 心の花に、高橋虫麿考、万葉の古写本、万葉集の定本等八篇をあつめた「万葉集雑談」を掲げた。
二月 心の花に、金子健二氏の「米国の韻文界」、予の「東常縁」を掲げた。
定家歌集を出版した。定家を品隲し、年譜を添え、秀歌を選抄した。
三月 廿四日、大学から古文献取調の命を受けて、京都、大阪、稲荷、今里、名古屋等を巡り三十一日夜帰京した。八日間の旅であったが、極楽願往生歌、仙覚奏覧状、天治本万葉集巻十三、源承口伝等を発見し、古葉略類聚抄巻八を初めて見、その他未知の事実を知り得て、学界に寄与する所があった。この時の紀行は「探賾記」と名づけて心の花六月号に掲げた。この行、須磨の山辺家の歌会でよんだ歌、
西須磨は松の絶間を白帆ゆく山のやかたに語らふ春日
山の鳥来てを語らへ山の庵に歌人つどふ春雨の日ぞ
百たりの童男童女そほ船にのりて来らしき春風の海
わたつみの神のみ衣(けし)の白浪に白き鳥とぶ春のあけぼの
四月 大会に、姉崎正治博士は「時代の告白としての叙事詩」について講話された。
五月 元暦万葉集十四帖本を、水野家で発見した。わが生涯の喜びの日の一日であった。心の花七百号三二七頁に詳記したからここには省略する。
年久に光うもれしうづだから宝の書(ふみ)は今し世に出でつ
七月 三十一日、大阪に行き、殿付家所蔵の契沖遺書の多くを、又、長流若沖の著書をも見るを得た。
生田町に桃木書院を訪い、御影の加納氏の手鑑を見、大阪に帰って平瀬家の蔵弆、玉造の佐々木家に伴林光平の遺著等々を見るを得、八月十八日帰京した。このたびの記録を続探賾記と題して、心の花九月号以後に掲げた。
十月 「日本歌学史」を刊行した。多年の研究が、ここに一冊として結実したのであった。
十一月 大塚楠緒子夫人挽歌、
ゆく秋の悲しき風はうつくしくざえある人をさそひいにける
十二月 藍紙本万葉集の解説を執筆した。
海軍省より海軍軍歌の制作を依嘱せられた。
明治四十四年 四十歳
二月 心の花に、チェンバレン先生の「ラフカディオハァン」、新村出博士の「嶺南思出草」、及び予の「神楽催馬楽に就きて」を掲げた。
二月 文学博士の学位を授けられた。
三月 チェンバレン先生が晩年を養うべく瑞西に帰欧せられるので、上田、三上、芳賀君らと小送別会をというたが、辞退されたので、上田君と二人、一同からの贈物を携えて横浜のホテルを訪い、三渓園のうちの寒月庵で静かに語りあった。谷川の流に老木の梅が横たわっているのを指ざしつつ、こういうのをむつかしげなるものというのであろう、あの猫の耳の裏というはおもしろいと笑われた。「佐々木君、君に別れの詞を送ろう。自分は日本の歌を多年訳しはした。しかしその国の詩歌を訳するのはその国の人がよい。よい日本詩集をおのこしなさい」と。自分の胸には感謝の涙があふれた。
三月 先生が、フランス郵船トンキン丸で日本を去られた。政府は勲三等瑞宝章を贈った。予は、帝国文学に、先生を送る文を寄せた。
水戸に赴き、彰考館文庫に「飛鳥井本万葉集」を初めて見るを得た。
四月 「万葉集古写本攷」を刊行した。
大会に、幸田露伴君は「日本の古い文学の一つに就いて」という題で、竹取物語と月上女経の話をされ、自分は「趣味の教養」について述べ、桜間伴馬師は船弁慶を舞われた。
四月の末、京都に古書を探った帰途、高野口に赴いて高田相川君の一行と高野詣をし、和歌の浦・根来に遊び、一行に別れて和泉万町に契沖の遺蹟を訪うた。
み山寺あした静けし七宝の宝樹おぼゆる山ざくらばな
法の雨しづかにふりて高野山(たかのやま)暁さむきうぐひすのこゑ
山高き仏陀の浄土ふみながら後世(ごせ)をおもはず花を執(しふ)する
わくらばに値遇の縁を結びつつ猶夢さめで山下りけり
万町の伏屋家で、
池田川せの音さやに竹群の風さやさやに清き山里
六月 「佐藤秀信歌集」を刊行した。君は多年心の花の編集に助力せられた人。酒を愛し、その「酒百首」に佳作が多い。
酒はあれど盃はあれどにこやかに盃とりし君しあらなく
八月 日光を訪い、帰って箱根底倉に滞在した。
虻飛ぶや山あぢさゐの花かげを苔にゑがきて薄き日のさす
白がねの千筋の征矢(そや)は湯の山の緑の盾をよこしまに射る
さらさらと山窓をうつ霧の音薄が中のま清水のおと
十月 東大国文談話会に「歌謡史の研究とその新資料」の題目のもとに、和田英松君が発見され、予が調査した「梁塵秘抄」について述べた。
塩原に遊び、秋色を賞でた。
五百階ゆぶねにおるる階段(きざはし)の中らに遊ぶ秋の夜の霧
十一月 帝国文学に「闡幽記」を寄せた。奈良の旅における幻想をかいたもの。{信綱文集二六〇頁参照}
十二月 高等師範学校の国語学会に「古今集古写本概説」を述べた。
明治四十五年 四十一歳
二月 「新謡曲百番」を刊行した。
四月 大会に、上田敏博士は「旧思想・新思想」について述べられた。当日「金鈴遺響」を配附した。
野遊会の日、
玉川を遠見はるかす丘の家青葉が中の夏の鴬
七月 本郷西片町十番地に転居した。
新しき家ゐに我を見出だしし移転(わたまし)の夜の清き月かな
から橋の上ゆ眺むればけぶりの色木立の色も秋としなれり
しみじみと我を喜ぶ庭の木に小鳥がうたふ朝の一とき
東京帝国大学の卒業式に、明治三十三年以来毎年行幸があり、式場に臨ませられる前に、陳列室に於て各分科大学の研究を天覧に供するのが例であった。今年は、文科大学では、史学より一つと、前々年に元暦校本万葉集が発見されたので、それと中山家の類聚古集、原家の藍紙本万葉集と、万葉学上貴重な三種を天覧に供し、その御説明を自分にとの事であった。自分は恐懼したが、言上のためのノートを作成し、これまで着なかったフロックコートを新調して、光栄の日を待っておった。しかるに、大学から事務室の人が来て、「陛下に直々(じきじき)にお話を申しあげる資格は、五位以上と定められております由、あなたはその資格に欠けておられるので困ったことになりました」とのことであった。無上の光栄には感激しているが、講師として無位無官の一民間人であることを、むしろささやかな誇としていた自分は、「まことに残念ではございますが、このノートによって芳賀教授から御説明申上ぐれば」と、ノートを渡した。その後、宮内省から下検分の高官が大学に来られ、当日の通りの陳列場を巡見の時、総長が、「この万葉集は、これこれの予定でありましたが」といわれたところ、「すでに大学で数年講義を継続しておられる講師ならば、大学で言上されるのに、官位は問題でないとおもう」との言葉であったので、改めて芳賀教授が二種、自分が一種について御説明申しあげることになった。七月十日、一天開朗な午前十時、正門のうちで車駕をお迎えし、法文科の建物の階上の中央なる陳列室にお待ち申上げていると、浜尾総長の御先導で臨御、伊東忠太教授の「祇園精舎図及アンコル・ワット」、鯨井恒太郎助教授の「無線電話」、黒板勝美助教授の「花園天皇宸記」、次に自分らの万葉集、最後に中村清二教授の「偏光ヲ用ヰテ歪ヲ験スル装置」の順に、熱心に御聴聞あらせられ、御熟覧になった。各自担当の時間は十分で、その間、極めて御興味深げにうなずかせたまい、時としては御目を近づけてみそなわすのであった。自分は、初めて文字通り天顔に咫尺したのであるが、恐懼感激のうちにも事無く重責を果し得た。便殿に退場あそばされてから、先刻うしろに扈従しておられた渡辺宮相、長谷場文相、乃木学習院長数氏が見え、それぞれ質問される。乃木将軍は万葉集に関して問われた。この日の感激をうたった歌。
いそのかみ古き歌巻あらたしき光ににほふ大御目に触れ
文部省文芸委員会から万葉集校本作成を依嘱された。多年の宿望の第一歩をふみ出すことになったので、橋本進吉君と協力従事することとした。
七月三十日、明治天皇が崩御あらせられた。東大行幸の後二十日であった。九月十三日御大喪儀は、挙国悲痛哀傷の中に青山の葬場殿に執行あらせられた。畏しとも畏く、謹みてよみまつれる歌。
奉頌明治天皇歌、
ひむがしの海にかがよふ朝日の国ひかりの国のわが大君はも
まかがやく黄金(こがね)の文字に国つ歴史(ふみ)よそひ書かししわが大君はも
皇祖(すめろぎ)の創らしし国をいやひろにいやかためましつ吾が大き帝
天つ使命(よさし)もたらしまして新日本(にひやまと)大き日本(やまと)を国つくりましき
奉挽明治天皇歌、
国民のなげきのさ露天にみち天つ日影もとの曇りせり
わが大君神(かむ)あがります天つ道きよむとならし雨ふりしきる
御(み)車の御牛(みうし)馴らすと秋風におもわさびしき牛かひの長(をさ)
御大葬の夜、
みさき仕へ白鳥天をかけるらむ夜の秋風つめたく悲し
仕人(つかうど)が手ごとにもたる手火(たび)の火の明(あか)き光もかなしき夜なり
手火(たび)の火の火影(ほかげ)にぬれてすすり泣く御道楽(おんみちがく)のいたましき調べ
秋の夜のかなしき風に日の御旗月の御旗のゆらぎつつゆく
厳(いつ)くしき楯も弓箭もはたほこも手火(たび)の光に照れる悲しさ
乃木将軍夫妻が自刃せられた。
大君のみあと慕ひし妹と背のそのまめ心よみし給はむ
八月 「梁塵秘抄」を刊行した。
九月 心の花に「明治天皇の御製」、日本及日本人に「明治天皇と和歌」を執筆した。
芳賀博士の嘱により、畠山健氏の後を嗣ぎ、国学院大学に万葉集を講ずることとなった。
十月 歌集「新月」を刊行した。
樋口一葉の十七回忌に当るので、妹邦子ぬしより委嘱され「一葉歌集」を撰んだ。
湯島に、和田英松君を訪うた夜、
霊雲寺大木(おほき)雫す星しろき雨のなごりの十月の夜
大正二年 四十二歳
一月 心の花に「大正の新春を迎えて」を掲げた。
西本願寺旧蔵の万葉集の古写本が京都の書肆のもとにあるということを、京都から帰られた徳富蘇峰大人と京都の森潤三郎君とから同時に聞いたので、直ちに京都に赴き、鎌倉末期書写の完本であるので、有志の士にはかり、喜び購うこととした。いわゆる「西本願寺本万葉集」である。
四月 もと牛込の万昌院にあった戸田茂睡の寿碑が渋井寒泉氏によって発見されたので、坂谷東京市長にはかって、茂睡にゆかりの深い浅草公園の池畔に新たにすえることとし、二十日に再建式を浅草伝法院に挙行し、坂谷氏は「茂睡建碑式に就いて」、関根正直博士は「元禄前後の浅草見物」を述べられた。当日、「戸田茂睡年譜」を人々に頒った。
木村正辞(まさこと)先生が世を去り給うた。先生と、チェンバレン先生と、わが父はわが生涯の三恩師である。心の花五月号に「𣠤斎木村先生」を掲げた。
六月 報知新聞募集の明治天皇奉悼唱歌を改訂した。
文部省より中等教員検定委員会委員を嘱託せられた。
八月 名古屋に古書を探り、犬山に赴いて、「犬山城の夕ぐれ」をかいた。{文集四二八頁参照}
十一月 京都奈良に赴いた。
ほのぐらき常灯明にゆきずりの人のおもわの似たるおどろき
真心に信じ得べくは順礼の群にまじりてゆきかくれなむ
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