大正三年 四十三歳

一月 心の花に、「大西祝博士と和歌」を掲げた。
三月 「類聚古集」(本文十六冊、解説一冊)の印行が完結した。
心の花に「病み臥して」の作を掲げた。
   病みふせる一日(ひとひ)のながさ雪もよひ終(つひ)にふらずて暮れぬといふなり
   雪ふりてしづけき夜(よ)かないたづきに妄念きえてやすけき胸かな
   鳶がなくひよろひよろと鳶がなく雪晴の朝を身は病みてあり
   図書館のかの階上の窓ちかき梢は今も動きてかあらむ
   夢の国にばめる木々の枝たれてをぐらき道をわが心ゆく
   窓の障子に朝の光がゑがきたる木の影も消えつ病める日の長さ
   ふしゐつつしみじみと見るわが指のなつかしきかな弱れる心に
   堪へ忍び言に出でじと思へどもいたきかひなの痛きなりけり
   いたむ肩いたむ腕(かひな)もわがなれば我(われ)といたはりさするなりけり
   かいまきのさらさ模様の花も葉も踊り出しぬじつと見てあれば
   午前四時寒稽古にと行きし子のことなど思ふ弱れるこころ
四月 明治天皇の御製謹註「やまと心」を刊行した。巻末に井上(哲次郎)、上田(万年)、三上、芳賀、萩野、姉崎、森(林太郎)諸氏の文詞を掲げた。
皇太后陛下、沼津にて崩御せさせ給えるをいたみまつりて、
   国の御母御病あつし花の枝に氷雨ふりしく卯月の八日
   天の原月おしてりて富士の嶺のさやけき宵を神あがりましぬ
   神富士の高嶺さやかに照る月の光の中に入りましにけむ
伊勢の国坂下村に建つべき孝子万吉の碑文をしるした。
中旬、油壷から三浦三崎に遊んだ。
   我が前に青き海こそ開けたれ麦畑かをる坂をのぼれば
   入海のくらき山かげは大海を離れこし波もさびしくあるらむ
   たらちねの母の乳房による如も入江の隅にねむれる小舟
   麦畑は風に浪うつ眼の下の細き入江は濃青に眠れり
   はんの実の一つを手にとり手にのせてしみじみと見てつひに捨てける
   茅花ぬくかかる幼き心にもしばしは成りぬ嬉しきかなや
   昼の月青葉の山の山すその五六の家の鯉のぼりかな
   若草の島山の上に灯台の真白きが目にいたいたしけれ
   海に来て楢林こそ恋しけれ手ににじみたる松やにの香に
六月 大阪に赴き「飛鳥井雅章本万葉集」を見、山科に木瀬三之の遺蹟を探った。三之は堂上歌学の秘伝説を打破した気鋭の先駆者である。
七月 研究会に、小林万吾氏は「仏国より帰りて」、野口米次郎氏は「米国からの土産」を話された。
八月 心の花に「画題としての源実朝」を掲げた。
十月 海軍教育本部編纂の「海軍軍歌」に作品を寄せた。
中旬より箱根に滞在して、
   風にゆらぐ山一面の薄の穂空の緑は静かにもだせり
   湯あがりのうつらうつらと白雲にまぎれていにし我が心かも
   いつまでもいつまでもわが船を見る寂しきか秋は湖畔の女
十二月 心の花に「馬琴の書状に就いて」を掲げた。伊勢松阪なる堀内鶴雄君の所蔵で、馬琴伝を補うべき資料である。

    大正四年 四十四歳

一月 岩淵の田中伯の古谿荘に一日の客となった。当日の眼福について 心の花二月号に「聖武天皇所願経等について」を掲げた。
三月 心の花を万葉号とし、諸家に寄稿を請い、自分も「万葉集概観」を掲げた。
六月 文部省より御大礼奉祝唱歌審査委員を委嘱された。
伊勢に赴き、先考の記念に石薬師村小学校に図書一百部を寄贈した。津では、本居翁が前田侯から招かれて之を辞したという従来の伝記に見えなかった新資料を発見し、松阪でも翁の史料に得るところがあった。《注:「心の花」19巻8号「佐々木雪子 西片町より」に記事がある。》
帰途浜松に下車、賀茂翁に関する資料を探った。
心の花第二万葉号に、諸家の寄稿を掲げ、自分も「万葉集第五巻論」を発表した。
八月 心の花に「大平の宣長観」を掲げた。さきに松阪にて得た珍しい資料である。
名古屋にいたり、伝家隆筆の歌学の希覯書を見るを得た。堀川ぞいの旅館での作、
   堀川のどんよりとせる夜の水に幸一丸の赤きともし火
永楽屋片野家を訪うた。本居先生の古事記伝を出版した書肆で、今も店先の神棚には、文将星のささやかな像と本居先生のかかれた枝折とが祀ってある。当主珠子ぬしは竹柏会の同人であるが、古事記伝の版木が蔵にしまってあって、おびただしい枚数で困っておるとの話、自分は、松阪の鈴屋保存会に保存してもらうがよいと懇ろに話した。
美濃町の歌会に列なり、夜、舟で長良川を下った。
   わが舟の大瀬にかかるまではとてなほ見送れる岸の人影
   夜舟こぐ父にそひゐし六歳(むつ)の児はころりと臥して早寐入りたり
   川岸の竹群(たかむら)かげに高くつくり鵜匠がすめる白(しら)かべの家
   山高み月いまだ出でずくもり夜のたどきを知らにくだる吾が舟
   星月夜夜(よ)の大川のしづけきに櫓の音(と)とよもしくだるわが舟
   ちゝちゝと鳴く川千鳥ぬばたまの夜(よる)の流や汝(なれ)もさびしき
二州会の人々と長良川の船の上につどうて、
   長良風美濃と尾張と二国(ふたくに)の新(にひ)うた人(びと)の清き眉ふく
箱根にものした折の作。
   高嶺そめみづうみそむる秋の日の光の中の島の上の宮
   湯あがりの廊下を歩む身のほてり山松風の近うひびきく
   夜まはりの拍子木が遠く消えにけり山の湯の宿の秋の夜のひえ
   二子の嶺(ね)日毎むかへば汝(なれ)も亦われに語らふことあるごとし
   二子山麓の道のささ原のさやさや鳴りて霧まき来たる
   夕されば山霧おりてかや原の萱のなびきの音かそけしも
   立ちとまり見かへれば闇の大底のまくろき中の青白き湖(うみ)
         (初めの一首は、樺山氏夫妻の案内で、箱根離宮を拝観した時の作。)
十月 史学会に「土佐に於ける万葉学の源流」を講じた。さきに糀町なる山内家の蔵書を観ることを得て、鹿持雅澄の師承学統を知るを得たによってである。
京都に赴き、博物館に御大典記念展覧会の古筆の類を見、八幡町に松花堂の遺跡を探り、大原に寂光院を訪うた。
   あか棚の茶の花みれば涙おつ文治二年の春の悲しさ
石榑、小花、川田、新井の諸氏と、土浦にいたり、霞が浦に名月を賞した。
   秋風になびく薄の穂の上に筑波の山はゆらぎてゐたり
十一月 「葛原勾当日記」が刊行された。勾当は備後八尋村の人、筝曲にすぐれ、竹琴をも発明し、自ら案出した木製活字の伊呂波により、手さぐりでおして日記をつけたこと四十余年、天真素樸な文で、和歌もまじっておるから、孫なるしげる君にすすめて、六百余頁の一冊が成った。喜んで序文及び題簽をもかいた。
十二月 心の花に「万代集の奥書に就いて」、「野口米次郎氏の日本詩歌論をよみて」を掲げた。

    大正五年 四十五歳

一月 心の花に、「足跡」を掲げた。去年一年のわが足跡をかえりみたものであるが、ここにその一節を掲げる。「帝国大学と国学院大学との講義、会員の指導、新聞雑誌等の選歌、これらは毎年毎月繰返すところで、去年も変りは無かったが、これらの方面における自分の努力が、些かなりとも、歌学または歌道の発達に貢献するところがあったろうことは、自分の希ってやまぬところである。しかして昨年より同人の歌集として、「心の華叢書」を刊行した。河杉初子の「藤むすめ」、石榑千亦の「潮鳴」、白蓮の「踏絵」、三浦守冶の「移岳集」、西郷春子の「塔」の五巻を発行した。片山広子の「翡翠」、白岩艶子の「白楊」、新井洸の「微明」も已に脱稿、印刷に附しつつある。これら既刊のものも、未刊のものも、それぞれ作者が個人的特色を発揮して、後世に、わが竹柏会の存在の意義を語るべきことは、自分の私(ひそ)かに信ずる所である。自分の編著としては、一昨年来芳賀博士と共に刊行し来った和歌叢書七巻を完成した。この叢書には、天降言の完本、異本悦目抄等を初めて世に紹介した。「文と筆」、「茂睡考解説」及び多年の苦心に成る「和歌史の研究」等を刊行した。……以上は、無窮の時をくぎる大正四年という一年の間に、自分の小さい歩みがとどめた足あとである。」
東京帝国大学より万葉集校本作成を嘱託せられた。文芸委員会が廃されたためである。
二月 国文談話会で「本居宣長翁伝補遺」を述べた。
珍書同好会発行の「古今和歌集註」に解説をしるした。
湯河原にものして、
   ゆのやどり川の向ふは隣国の町の家並に春の雪ふる
   湯のしづくこりてつめたう肩に落つ湯ぶねの外(そと)の山は雪ふる
   湯づかれのたるき心に眺めゐぬ前の河原の石ふむ小鳥
四月 大会に、志賀重昂氏が、「欧州戦争の情況」について語られた。余興、李彩の手品。
六月 横浜三渓園に滞在中の印度の詩宗タゴール翁に、日本の一歌人として逢うべく、原氏の紹介によって十九日の夕べに訪うた。池の畔にいたると、折から山をおりて散策されようとする翁が、秘書の一人、原氏、通訳の労をとられる矢代幸雄君等と共に来られるに逢うた。丈高い姿、濃い茶色の帽(ハウピ)、長い髯、光ある鼠色の表衣(ジヨツパー)、褐色の履など、高士の風丯は我が目に入った。黙礼すると稍々頭を傾けて合掌の礼をかえされる。同じく東洋に生れ、同じく詩歌の国に住む一人として今日の会見を喜ぶよしを述べて共に池畔を歩んだ。池の半ばをおおえる蓮の花のやがて咲くであろうのを眺めつつ、わが郷国は蓮の花のさく国、と低くいわれる清い声音(こわね)、夢の国の声のようにもきかれる。葵や百合のさいておる道を過ぎて茶室寒月庵に入られる。銅羅の音を聞いては、万有に通ずる阿吽の響があると喜ばれた。松風閣における食堂の数時間、話題は、詩に音楽に、美術に、教育にうつり、先日見られた能楽山姥についても話された。日本の歌について問うと、まだ読み味わう時がないとのこと、自分のもたらした王堂先生訳の「日本の詩歌」を喜び請けて、詩歌の訳のむずかしいこと、サンスクリットに四行の短詩のある事など話された。風景談にうつっては、吾が本国は平原の茫漠たるが多いに、山まろく水清い日本の美しさよといわれる。折しも海から吹いて来た夜風があらあらしいと見るや、電灯は消えて、室内暗黒となった。この時、燭台のもたらされたのを見て、古い日本の霊が出て新しい文明を消したといわれる。かの「暗室の王」の作者のほがらかな声音は忘られない。復活した新しい光におくられてねんごろに別れを告げた。天平の古え波羅門僧正は奈良の京に来て東大寺大仏開眼の導師となった。この僧正の名は万葉集の歌にもうたわれた。それより千余年を経て、吾が国は翁を迎えた。けだかい風丯、美しく銀のような声、理想と憧憬にみちた感情のひらめき、これらの印象は長くわが胸に鮮やかである。{七月の「太陽」に、「タゴール翁の印象」として一文を寄せた。}
七月 上田敏博士が逝去せられた。八月の心の花に、桑木厳翼、新村出博士、及び自分の追悼の文詞を掲げた。
八月 尾張伊勢志摩を歴遊した。
九月 中央公論に「県居の九月十三夜」を寄稿した。{文集二四八頁参照}
十一月 一高短歌会に列なった。
十二月 「万葉集選釈」を刊行した。

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