大正六年 四十六歳
一月 心の花に「幕末歌壇の新声」(大隈言道の歌論)を掲げた。
竹柏園百人一首(男女各五十人、石榑千亦君書)を附録とした。
京阪に旅行。三保貝島に養病中の大村重光君を訪い、帰さの船で、向うの空に真赤な富士が浮んだのを見て、驚いて船頭に問うと、紅(べに)富士というて浮世絵などにも出ていますが、富士山が全体真白な時でなければならず、時は夕方で、めったに見られるものではありませぬ、というた。
三保の海海のむかひの夕空にくれなゐの富士うかびたらずや
心理学会に、「万葉集に現はれたる東国人の生活」を述べた。
二月 今月の研究会は、竹柏園百人一首から十首を選んでの評になった。点の多い歌から順に評が始まった。
自分の選評を掲げる。「守りませ笛の歌口まもりませ一千年の家のみ祖(おや)たち――上真行」、荘厳な歌として選んだが、「宮中正殿の笛の音頭仕うまつりて」とある詞書がそえられて完全な歌とおもう。「ともすれば吸はるゝやうなひとみしてわがヱリヰダは春の海みる――樺山常子」、吸わるるようなひとみ、ヱリヰダ、春の海、ぴったりと動きがない。「月の夜を魚板のおとか等持院かどの小家に藁などうつか――川田順」、所は京洛の等持院、時は秋の月夜、しずかな趣の歌。「うつし世の千とせ百とせ何かあらむとこしなへに人は生くべくありけり――三浦守治」、三浦博士その人を代表した歌といえよう。「夕づつは見えそめにけり船人はマストランプの綱ひきにけり――石榑千亦」、自然の歌ではあるが、海の詩人の作としては他にすぐれた歌があると思う。「野を歩む我もめづらしうらゝなる天つ春空わが上にあり――片山広子」、すがすがしい作である。「我がいほは膝をいるゝにあまりありいざ宿かさむ峯の白雲――釈宗演」、老師のおもかげの浮ぶ作。「桃ちるや築地の壁の薄じめり雨にくれゆく春の夢殿――間島弟彦」、夢殿の情景も浮び出る歌。「秋の風大野を吹きてますらをの涙のあとに芥子の花さく――尾崎行雄」、「オーターローの古戦場にて」という詞書が添うとよくなる。「くろがねはみがくあとよりさびぬれどさびぬる跡ゆ猶も磨かむ――吉田又七」、吉田君の戦役中、水兵として詠んだ歌。木下利玄、斎藤瀏、新井洸君など、その外にもよい歌はあると思う。――作者に得意な作を求めてその中から選びたかった。これは去年十二月の初め石榑君との間に話がわいてきて、水難救済会の人が下選びされたのを石榑君と自分とが急に選抜したもの、今に及んでいうても甲斐がないが、次回にはその作者自選の中から選びたいと思う。
四月 大会に、滝精一博士は「法隆寺金堂の美術」について述べられた。当日、「賀茂真淵と本居宣長」を配布した。
武井大助君のコロンビア大学に留学する餞に、
敷島のやまとの国をつくり成す一人とわれを愛惜(をし)まざらめや
五月 大隈言道の事蹟を探るべく福岡に赴き、望東尼の平尾山荘、太宰府を訪うた。
古への人を恋ほしみ観世音寺うしろの山に藤の花折りつ
厳島にやどり、帰途、和泉に契沖の遺跡を再訪した。
七月 一日、帝国学士院より「日本歌学史」及び「和歌史の研究」に対し、恩賜賞(第十四号)を授与せられる光栄に浴した。当日は陳列室に、歌学資料の貴重書を陳列した。自分が学界に紹介し、または発見したもので、宮内省図書寮、東大図書館、中山家、徳川家、前田家をはじめ、大阪、名古屋などから借り得たもの。当日の為に「歌学資料図書目録」一冊を刊行した。
大阪朝日新聞社主催の講演会に、一日は男子のため一日は女子のために講じ、伏見の羽倉家に春満の資料を探り、京都伊勢を歴遊した。京都では間島君の催された納涼会に、新村博士、三浦(周行)博士、古郷時待、長寿吉、川田順の諸君と会し、二見では原田嘉朝翁、蘆田草堂君を訪い、松阪では堀内君の案内で橘枝直翁の兄の家なる牧氏を訪い、枝直の書柬を観、発見する所があった。
八月 史学雑誌に「土佐に於ける万葉学の源流」を寄稿した。
十一月 御歌所長の入江為守子から使が来て、明日の夕方自宅にとのこと。牛込弁天町に訪うと、「このたび明治天皇御集編纂の御事業が始まった。委員は寄人のたれたれ、それに御伝記編纂の池辺義象君、民間の歌人としての君をとのことである」との懇々の話。「明日でもよいが、考をいうてほしい。しかし、御歌所の寄人にならねばならぬ。又、君は位も何ももたれぬようで、奏任官待遇であるから」とのこと。自分は形を正して、「明治天皇の御集についていささかでも御役にたちますことならば、明治の聖代に生を享けた身として、此上もない有がたいことであります。ただ御製を御選択申上げる際、自分の意見は十分に申述べるでありましょうから、いつでも辞職はいたします。待遇の低いなどということは寸毫も心にかけはしませぬ」と答えた。そうして「御編纂の御用が済みましたらば、寄人を御辞退申上げたい」というたところ、「君は知られぬであろうが、官吏というものは予め辞職する時をきめておくというようなことは許されぬものである」といわれた。自分は帰ろうとすると、奥座敷から玄関まで送られた。その途中で、さりげなく、「世の中のことは前から心配はしなくとも、時がくれば又いいようになるもんですよ」というようなことをいわれた。もと政治家であられた入江さんであるとしみじみ思ったことであった。その翌日、渋谷に移られた高崎先生の令孫の邸に伺って、お座敷にかかっておる先生の油画に拝をしたいからと申入れて、前に立った。温顔を仰いだ後、うつむいて先生から二度までも御歌所にという恩命を蒙りつつ、あのように御辞退申上げました。しかし此度のは明治天皇の御集のことでありますから、お許しを願いとうございます、と胸のうちにいうて、油画の前を辞したことであった。
鎌倉に光明寺を訪うた。温故堂旧蔵本、及び東京大学本万葉集によって、光明寺に万葉の古写本のあった事実を知ったからである。寺僧に請うて同寺の所蔵目録を精査し、捜索をも依頼したのであったが、遺憾ながら発見することを得なかった。自分は、万葉学発祥の地たる鎌倉に、一部の古写本だに残っていないのを嘆じつつ、松葉が谷から比企が谷のあたりを歩いて、古えの新釈迦堂のあとなる妙本寺を訪い、昼なお暗き老杉の樹蔭に暫したたずんだ。その時の幻想が「権律師仙覚」の一篇となったのであった。{「わが文わが歌」に掲げ、後、いささか訂正して「鎌倉三種」に載せた。}
心の花十一月号を第三万葉号とし「万葉集巻一巻二勅撰論」を掲げた。
大隈言道の五十年祭が福岡に行われたので「大隈言道翁記念篇」を印刷しておくった。
「増訂日本歌学史」を印行した。
心の花十二月の武井大助君の「ケンブリッヂより」という通信の中に、六月の条に掲げた自分の餞の歌、及び、
人の世の物皆亡ぶ然はあれど亡びざるもの天地(あめつち)にあり
の英訳がかの地の雑誌に載せられたとあった。
大正七年 四十七歳
一月 短冊同好会の同人と、三越に短冊展覧会を開いた。
湯河原、伊豆山にものした。
大春は未だ来らずしかすがに枯草山のいただき霞めり
波にまかれよせては返す磯の小石音のさむしも日のくれゆけば
三月 近衛家を訪い、請うて蔵書を見ることを得たに、中に虫喰歌書の札のはってある一箱があった。その中を調べてゆくと、甚だしく虫ばんで居る数十巻の中から、意外にも、万葉に関する巻子本の断簡が出た。紙質は鳥の子で、上下に罫がある。書は二筆であるが、その一筆の書体は、前田家所蔵の永承五年歌合や北山抄と酷似していて、平安朝末期の時様である。しかも、未だかつて見たことのない「万葉集目録」であるから、精査したところ、最初の数行が欠けておるのみで、全部を連続せしめると、全く完備している。この一巻を発見したことは大いなる喜びであった。
伏見に羽倉家を訪い、春満の資料を探った。
四月 大会に、自分は、「師弟ということ」について述べた。
八月号心の花に「喜ばしきこと」を掲げた。それは、名古屋にある本居宣長春庭二先生の著書九種の版木が取こぼたれるようになったとのことを聞き、末松博士に話したに、前田家に話され、その篤志によって鈴屋保存会に寄附されることになった。玉の小櫛四百五十丁、古今集遠鏡三百丁、詞の通路百三十三丁等、総計二千百九十丁の版木が、前に掲げた古事記伝のと共に、硝子棚を作って陳列されるようになった喜びをしるしたのである。
九月号心の花に「村垣範正の航海日記の歌」を掲げた。万延元年正月、第一回遣米使節の副使として米国軍艦ポーハタンにて渡米、九月帰着した旅中の歌文の注意すべきものを抄出したのである。
九月 浜松及び伏見に行った。
十月 心の花に「歌に対する希望の一端」を掲げた。
三河国鴨田の石川家成の碑文をものした。
十一月 心の花を賀茂真淵百五十年記念号とし諸家の寄稿を請うた。自分は「歌人及び歌学者としての真淵」及び「真淵伝資料」を掲げた。資料は伏見、浜松、田安家において捜索し得たのを掲げた。
大正八年 四十八歳
一月 大学より出張を命ぜられ、水戸彰考館に赴いた。
心の花に「奈良朝文明の宝庫」、帝国文学に「霊元天皇御撰宸筆三種に就いて」を掲げた。
二月 心の花は二百五十号になるので、記念として諸家の寄稿を請い、自分は「二百五十年前の歌壇」等を掲げた。附録として、武田君に嘱し、「万葉学年報(大正七年)」を載せた。(万葉学年報は大正十一年まで引続いて掲載した。)また古人二十五人集、今人二十五人集、同人二十五人集を掲げた。
三月 長女綱子が京大工学部長朝永正三博士の長男研一郎君に嫁ぐについて京に赴いた。
四月 大会に、牧野英一博士は「言葉の魔術化と詩化」に就いて述べられた。余興、結城孫三郎の繰人形。
金沢文庫を橋本、武田二君と訪うて古書を捜索した。
海の外(と)ゆ遠くもてこし梅をうゑ書を収めしみやびをおもふ
五月 古河家印行の「元暦校本万葉集十四帖本」にそえる解説をかいた。
六月 心の花に「歌壇の過去及将来」を掲げた。
十月 石榑千亦君が水難救済会の創立以来満三十年勤続の表彰をうけられたのと、新子夫人との銀婚式の祝とをかねて、日本橋倶楽部に祝賀会を催し、かつ心の花の本月号を石榑君に献ぐべく三百九十五人の同人の自選歌一人八首を掲げた。ここには自分の選歌中より三首を抄出する。
しづかにわれは思ふしづかにわれらは今思ふべきなり
声高(こわだか)に言挙(ことあげ)し喧擾(さや)ぎふるまふ時しづかにわれら思ふべきなり
ひむがしに聖(ひじり)生(あ)れ出でむ日はいつぞ光みたしませ新天地(にひあめつち)に
万葉に関する調査のため、奈良及京阪に赴いた。
十二月 明治天皇御集編纂のことの終った日、
大御歌えらびまつるとをぢなきや身もたな知らに仕へまつりき
宮内省より「明治天皇御製編纂ニ従事シ尽力尠カラス云々」の御沙汰書を添えて勲六等を賜わった。その前に辞退申し上げたがお許しを得られなかった。
帝国大学より「校本万葉集」の出版を許可せられ、啓明会よりその整理及出版費の補助を受けた。
大正九年 四十九歳
一月 伊豆長岡に赴いた。
低山のなぞへの畑の青菜畑鳥一つ飛びて空はくもれり
ゆれ走る乗合馬車の幕うちて天城おろしははたはたと鳴る
湯の村は春とく来る手をひきて並ぶ小山に日はかぎろへり
細り立てる葉なし桑畑風寒み遠山並にあかし夕日は
二月 病みて、
窓の障子うすぐろうなりぬうつらうつら今日の一日もかくて暮るるか
疲れたる身は体温器わきばさみしばしがほどに長き夢みけり
眠る幸与へさせ給へぬば玉の夜の大王にただに乞ひまつる
人は世はさやぎ争ふいたづきの床にぞおもふ世の行末を
光治(みつはる)がもてこし蟹葉サボテンのよき花見つつひと時は過ぎぬ
ジャワ少女更紗染めつつ恋唄をうたふらむさまの蟹葉サボテン
見よ見よ紙鳶あがれりと吾児が呼ぶ幾日ぶりにぞ庭に出でにける
四月 大会に、黒田清輝画伯は、「仏蘭西の四季に就いての追憶」を述べられた。
六月 先考三十年記念会を、東京大学法学部大講堂に開いた。上田博士は「伊勢国と国学者」、芳賀博士は「国語と和歌」、萩野博士は「古典科時代の佐々木先生」について講演せられ、自分は「追憶の辞」を述べた。記念展覧会を山上会議所に設け、「鈴山百首・鈴山年譜」(印東昌綱合編)を頒った。
歌思ひ日毎よりましし文机にわれはたよりてここら年経ぬ
天がけり見し聞しめせふみましし道はとこしへにひろごり栄ゆく
一筋の道をふみ来ぬ生の限り猶ふみゆかむみをしへのままに
切(せち)に恋し木の名鳥の名とひ聞きつつ旅のみ伴せしいとけなき頃
忍べば心ぞかよふ父の世とわがすめる世とへだたりゆけど
心の花に「現代と和歌」を掲げた。
七月 心の花第四万葉号に「万葉集雑話」を掲げた。
「西本願寺本三十六人集抄解説」をものした。
八月 鎌倉大町に村荘が成ったので、折々にいっては読書に著作につとめた。(森鴎外博士が溯川草堂と名づけられた。)
松高き長勝寺山名越山朝目によろしく夕目によろしも
くろかりし山松のひまほのあかみしばらくにして月はのぼれり
嵐くべく空低うくらし遠つ海の潮鳴の音しきりに聞ゆ
正述心緒、
声高に言挙(ことあげ)す世なり退きてひとり静かに吾道ゆかむ
身は土をふみて立てれど此の心天つ青空と高くすがしく
吾が天地せばくしありけり然れども吾が天地は楽しくありけり
軽井沢にものし、槻沢山荘に客となった。
遠つ祖の土を親しむ人すませ古き駅にねむれる家居(途上作)
から松のかげふむ道のやはらかみ遠世のわれにあふ心地すも
見おろす沢の木立のこもり深み時鳥ならむ鳴きて過ぎしは
山のやかた八月の夜の早くふけて窓近き樹に風鳴りやまず
日出でんとして一すぢあかく光るもやの中ゆ生るる谷の高槻
夜空白しひくき木草はことやめてもやごもりをり高原も丘も
浅間嶺にむかひつつ思ふ人間のおもひは弱しよはひはみじかし
九月 金沢称名寺に古書を探り、心の花十月号に「金沢」を掲げた。
秋の心水にうごきて雨はれし入江を魚の飛ぶしきりなり
江の入日い照りかへらひきらきらと障子にゑがく暑きうづまき
一しきり雨また来る江の上の山の蒼蔭(あをかげ)とゆれかくゆれ
十月 間島弟彦氏と共に日光の秋色を探った。
山の上の湖(うみ)のしづけさうすら寒きひたひた波に菜洗ふ媼
十一月 宮内省より正倉院御物の典籍及び古文書中、国語国文資料の撮影び印行の許可を受けて、吉田知光、田中親美、橋本、武田、久松、倉田実君と同行、奈良に一週間滞在撮影した。
十二月 婦人部会は、九条武子夫人の東京に移られた歓迎会を日本橋倶楽部に催し、梅若六郎師の仕舞、宮城道雄師の筝曲、藤蔭静枝ぬしの舞踊等があった。
コメント