大正十年 五十歳

-月 心の花に「歌謡に現はれたる太古の人文」を掲げた。
皇太子殿下御外遊につきて赤坂離宮に拝謁を給うた日、
   大御代の常磐堅磐(ときはかきは)と真白き石もて築(つ)ける離宮(とつみや)どころ
   大み旅ほぎまつらくと高々にかがやく石のきだはしのぼる
   水紅色(ときいろ)の十(とを)まり六(む)つの円柱(まろばしら)い照りかがよふ花なせる灯(ひ)に
二月 女子学習院の常磐会に、四月まで万葉集を講じた。
四月 大会に、桑木厳翼博士は「芸術と生活」について述べられた。
弘子が慶応理財学士河野一郎君に嫁いで上海に赴いた。
石榑千亦君の「鴎」が成った。序歌、
   遠々し北の海 遠つ島礼文(れもん)の島の ありその昆布(こぶ)の広葉に ゆさゆさにのりて ゆらゆらにゆらるる鴎 なく声のかなしき鴎 なつかしく親(した)しくおもほゆ 君が歌により
五月 心の花の「万葉集雑話」に、文久二年六月和学講談所の講義のこと、木村先生の明治四十三年の日記抄等を掲げた。
七月 万葉資料調査のため京阪に赴いた。
八月 東大文学部公開講演に「曙覧と言道」を述べた。
鎌倉にて、
   澄める空と緑つららく松山とむかひゐつつ心しづけく安し
   上海の閘北(ザボー)の家に新妻(にひづま)の吾子(あこ)は夕けのまうけなどすらむ
鎌倉彫の久慶君はおもしろい人で、同人の金塚仙四郎君と一緒に折々遊びに来られたので、こんな失敬な歌をも詠んだ。
   わが門の小橋あやふし酔さびに川にな入りそ仏師久慶
九月 皇太子殿下が還啓あらせられた。
   日の皇子の御旗朝風にひるがへり武蔵大海の秋晴れわたる
十月 万葉集の背景としての「南京遺文」(橋本君合編)を印行した。
東京音楽学校に、宮城道雄氏により「月のかがみ」が演奏された。
釈宗演老師の三回忌に「楞伽窟歌集」を刊行し、序文をかいた。
十一月 去年と同じく、諸氏と同行、正倉院に御物を撮影した。
竹柏会大和支部で、新薬師寺に歓迎会が催された。前川佐美雄君の当日の記事は、心の花十二月号に掲げた。
心の花第五万葉号に、「銷夏訪書録」を掲げた。
十二月 二荒芳徳伯、杉栄三郎博士が幹事となり、華陽会が月々催されることになった。

    大正十一年 五十一歳

一月 御歌所寄人を辞した。心の花二月号に「某君に答ふる書」を掲げた。その文の終の一節に「御集編纂の一員として、満四年の間、誠心誠意ひたすら事に従い、微力ではあるが自分の能う限りの力を尽くした。この一事に至っては、上神明に対し奉りて、かく明言し得ることを限りなき喜とする。今や、明治天皇御集、昭憲皇太后御集の二集完成し、臨時編纂部の事業は終了するに至った。自分は良心に於いて、寄人拝命の志を果し得たのを感ずる。よってここに、この光栄ある事業に与かるを得たことを生涯の栄誉として、寄人の職を拝辞することとしたのである。」としるした。
東京朝日新聞に「竹柏園歌話」を連載し、中に、間島冬道の歌論を紹介した。
心の花に「自分の経て来た道程」を掲げた。それをこの月刊行した歌集「常磐木」の初に転載して序とした。
三枝子が久松潜一君に嫁いだ。
三月 心の花に桑木厳翼博士は「大地に根をつけた堅き姿」(常盤木批評)を寄せられた。
四月 大会に、二荒芳徳伯は「英国風俗ものがたり」を述べられた。
五月 英国皇太子を迎えまつりて、
   薔薇(うばら)の皇子(みこ)のりますみ船ひむがしの桜の島に近づき来る
帝国大学に来ませる日、
   ガウン赤くかつらましろき老教授若葉のかげに迎へまつらふ
質素なる式場には海棠の鉢一つが据えてある。
   うら若き皇子が立たせるかたはらの卓の上なる海棠の花
七月 学士院より「古葉略類聚鈔」の出版費を補助された。
森林太郎博士が永眠せられたのを嘆いて、心の花八月号の巻頭に諸家の追悼の文詞を掲げ、自分は、「森博士」を掲げた。
九月 本居清造君編、自分も監修の一人となった本居宣長稿本全集の第一輯が出版された。
十一月 奈良に赴いた。年を累ねて正倉院にいたること四回、南都秘笈の撮影が完了した。帰途京阪に寄った。
十二月 樋口一葉の父則義氏は甲斐東山梨郡大藤村の人。一葉の三十年記念に、村人が幸田露伴君に碑文を請うて建設した。心の花十二月号を一葉記念号とし、諸家よりの文詞を掲げた。中にも、妹邦子君の文は、口述筆記であるが一葉伝の好資料である。自分は「一葉女史と当時の歌壇の回顧」を掲げた。

    大正十二年 五十二歳

一月 「近世和歌史」を刊行した。
三月 心の花を第六万葉号とし、「仙覚律師伝」をかいた。
四月 心の花は刊行以来三百号に当るので、六十余家の論文及び随筆の寄稿を請うた。自分は「大報恩寺仏体内所現の和讃」及び「三百号のおもひで」をかいた。また同人六百三氏の一人八首を掲げた。自分の「わが歌」と題した中から抄出する。
   吾歌はわがにはあらず嘆く時ゑむ時神の給ふみこゑぞ
   ゑめる時いきどほる時なげく時涙しづかに胸にしむ時
   わが歌はこの天地にかなしめる人の一人をなぐさめば足る
   雲に風に人に小犬に木に石にありとあるものにぬかづく我は
   いく十年みちびく人に導かれこの一すぢの道をわが来し
   ますらをの命の半ばこの道にささげもて来つ嬉しとし思ふ
   春風の大天地の中に立ちてわれ歌人のほこらひを持つ
「新古今集選釈」を刊行した。
五月 古写本撮影に京阪に赴いた時、六甲苦楽園に一夜の客となった。
   我ら魚のたぐひならじか樹の海の緑にひたりとゆきかくゆく
   地の白と樹の濃緑と全山は二色もてこそさいしきにたれ
   麗人か痴人か夢をみし人か賢(さか)し人かも墳のあるじは(山上古墳)
   さうさうとさっさっと鳴る松の風げに山上のねざめなりけり
心の花に、土井晩翠君の短歌「牡丹の歌」六十八首を掲げた。
六月 横浜の三渓園を訪問したに、安田靱彦画伯が来ておられた。主人は、「自分は馬車を好んで乗っていたに、やはりかえねばならぬと近く自動車をもとめた。それで鎌倉へゆこうと思うていたところ、御一緒に」とすすめられた。磯子の海ぞいも金沢の木立もつぎつぎに過ぎ去って、鎌倉の海浜ホテルに着いた。自分は、人麿を画題としたらばこういうところ、万葉集ではこういう処々と、平素考えていたことを述べて、画伯の意見をもとめたことであった。
七月 増訂梁塵秘抄を刊行した。初版に加うるに諸家の文章、ウェーリー氏の抄釈、自分の梁塵後録を掲げた。
九月一日、関東諸国におこった大震災は、実に日本国のうけた最も大いなる災禍であった。自分として慨嘆にたえなかったのは、校本万葉集のうけた災禍である。校本万葉集は、明治四十五年以来、橋本君、千田君、ついで武田君、久松君が加わって、ようやく大成に至らんとしていた。しかし、本文中に異体字等が多く、活版の印行が不可能であったため、その原稿一部を大学に保存すればよいという説もあったが、万一の湮滅を憂えて、能書の人に浄書を依嘱し、それを金属版としたのである。そうしてこの六月に、本文二十冊四千八百八十二頁の印刷を了り、ただ附刊すべき諸本輯影の撮影印刷をあますのみ、それも、前田家及大学所在の書等の撮影をおわれば全部完成すべく、この事業の大成を記念するために十月中旬、大学の山上会議所で万葉集の諸本及学書の展覧会を開くべくあらましていたのであった。自分は九月一日の午前十一時半、前田家を訪うて家従にあい、撮影すべき本について語り、辞去せんとした際、大地ゆらぎ、眼前に瓦落ち土塀の崩るるにあい、かろうじて大学の赤門の前に出たに、門に近く図書館の植松安君が立っておられた。ヤアと一言いったのみで西片町に帰ったに、幸に無事であった。それで再び大学へいって国語研究室に行こうとしたに、混雑を極めて近づくことも出来ず、研究室は火災に遭ったのである。校合の底本、活版印刷に附すべく清書した原稿本、金属版に附するために浄書せしめた浄書本、参考資料として蒐集した学書、写真、その原板、作製した各種の索引、年譜の類は全部焼失した。加うるに、日本橋本石町なる金子製本所もまた火災に遭い、製本が既に終って表紙に金版(かなばん)をおすのみとなっていた諸本輯影以外の五百部は、全部みな烏有に帰した。さきに万一を憂慮したことが真実となって、この災禍に遭ったのは、まことに、嘆くべく悲しむべき極みであった。それらのことをはっきり知った三日の午後、茫然自失して軽い脳貧血をおこして倒れ、その事が新聞にも出たが、天いまだ斯学を捨て給わず、校正刷全部を一しばりにしたのをわが家で発見し、武田君のところにも一くくり全部があることがわかったので声をあげて喜んだことであった。わずかに校正刷二部が、大学以外にあったため、厄を免るるを得た。実に神明の加護というべきである。もし此の校正刷が残存しなかったならば、この事に従事した人々の多年の努力と苦心とは、全く灰燼に帰してしまうところであった。
   まざまざと天変地異を見るものか斯(か)くすさまじき日にあふものか(九月一日)
   天をひたす災の波のただ中に血の色なせりかなしき太陽
   空をやく炎のうづの上にしてしづかなる月の悲しかりけり(一日夜)
   もだをりて親子はらから夜をあかすせばき芝生にこほろぎ鳴くも
   鶏の夜声しきりに闇に響きむくつけき夜はややくだちたり
   夜は明けぬ庭につどへる家人が命ありし幸に涙おちけり(二日)
   おそろしみあかしし朝の目にしみて芙蓉の花の赤きもかなし
   蝋燭の息づくもとに親子ゐてつかれ極まりいふ言もなし
大学国語研究室の焼跡にて、
   夢にあらず此のいたましさこはまさに吾が前にある現ならずや
十月号心の花を大震災号として、自分は「靂災に於ける万葉集の損害」、「校本万葉集について」、「鹿持雅澄翁稿本に就いて」、「横山由清翁の稿本類に就いて」、「地震を詠じた古歌」、「もののあはれ」等を掲げた。
十一月 伊勢の熊沢一衛君が来訪された。君の夫人は亡父の門人高田顕允君の女である。君は若くして庇護をうけた田中伯をこのたび上京の途次岩淵に訪うたに、伯は、新聞を見たところ云々と話されたという。君は、出来る限りの助力をするから、是非再興をはかられよと自分を激励された。それで、上述の如く、天祐といいつべく残存した校正刷二部をもととし、再び「校本万菓集」を印行すべく企てることになった。
   一すぢの光さしぬれぬばたまの心の道のをぐらきに今
大震災後作、
   あまりにも天つ災の大いなるに心いたみて涙もいでず
   ただに見るは赤き瓦礫と灰燼とわが東京よいづちにかゆきし
   ここをしもありし都と誰か見る赤くただれしこの武蔵野を
   秋風の焦土のうへにわが影の長ううつるもうらがなしけれ
   いかに堪へいかさまにふるひたつべきと試の日は我らにぞこし
   うせし者帰り来しごと水道の水いでたりとかたへにつどふ
   須田町(ちやう)の焦土のよるの霧雨に電車まつ群の一人なりけり
帝都復興、
   ちりと灰とうづまきあがる中にして雄々し都の生るる声す
   天つ日は吾らが上にまさやけし昨日のゆめを昨日ならしめ
   物皆の今し新たに生れいでむわが東京に幸あらせたまへ
   新たしき都きづくといそしめるこの民の上に幸あらせたまへ
   大き都よみがへりたり人間の力おもふに涙こぼるる
大学の仮教室にて、――運動場の一隅に建てられたので、復興用のトラックの通る時は講義を中断した。――時としては、
   バラックの教室の屋の上(へ)うつ雨の音をはげしみ声つかれたり
震災前の横浜の印象を、
   八月の暑き日なりし古版(こはん)ものあかずながめきケリーの店に
   オクションのみどりの書棚秋の日のうす日の窓に眺めてありし
   新屋敷露台の夜の鉢植も千登世(ちとせ)の夏はすずしかりしか
   桃色のちひさきかさも秋によしオリエンタルの小室(こま)の蝋燭
   十二天ビゴオの筆をさながらの女があるく春の夕ぐれ
   トランプのよき切札を得し心地バンドをゆけば月夜となりぬ
   金沢へ夕(ゆふ)ドライブの三四人根岸の海のむらさきのもや
   船の灯も空にちらばる星の灯も、秋の浅夜のバンドはよろし
   ほりわりの油がゆるる夕しほに屋根の上なる黒き富士かな
   ゲエチイの前の広場の宵やみにサロメの開(あ)くをまちつる一人
         (小山内薫君とあひて)
   老学者やまと言葉もやはらかうゼネバホテルの一隅の秋
         (チェンバレン先生を訪ひし日)
   窓下のとま舟いくつ赤き火はわれ誘ひゆく蘇州の夜泊
         (川村屋レストラン)
十二月 病中作、
   竹の風しばらくやみて枇杷の葉を吹きさゆらがす重き音かな
   身じろげばごぼごぼと鳴る水枕音わびしらに夜はくだちたり
   熱あれば吾子(あこ)近づけず此のいく日はつはつ声をきくにさびしも
   しみじみとながめつつあれば手筋(たなすぢ)のいとしさ爪のましていとしさ
   苦しびもきはまりはてていつとなく水仙の花にそむ心かな

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