大正十三年 五十三歳

一月 皇太子殿下、良子女王殿下と成婚式を行わせ給うた。
   大き海の潮こをろこをろ喜びに相よる音す今日のよき日を
   新春の日はうらうらと天つ鳥天にうたへり喜のうた
   大御妹背相うつくしむみ心にうつくしみませ此の国つちを
富士子が小島正雄君に嫁いだ。
四月 京都にいった時、京都ホテルの食堂で、三条千代子さん、津軽照子さんにお逢いした。京洛の晩春の景を観にとのこと、明日はこれこれにと誘われた。日曜は大学も図書館も休みであるので同行を約し、山科から桂へ、西芳寺より嵐山へ。嵐山春雨賦を得た。
   丘の上の「ちどり」の座敷赤松の幹の間(ま)透(とほ)し青淵は見ゆ
   赤松の幹の間(ま)に低き千鳥が淵ただいささかの青き水なり
   くだしくる筏師どちの話声水こだまして高処(たかど)にきこゆ
   わが生(よ)にのどかなる一日雨かすむ千鳥が淵を舟さしのぼす
   まばらにつよくおちくる雨の脚真玉はうがつ青淀淵を
午後、雨がやんだので、三条家の菩提所なる嵯峨の二尊院に詣で、自分は逍遥院実隆公の墓前にぬかずいた。
六月 校本万葉集のために京都に赴いた時、京大附属図書館に新村館長を訪うたに、君の好意により、この四月に近衛家から保管を寄託された古典籍の数々を披見することを得た。前年に大震災があったによって寄託されたのである。その中に「琴歌譜」と題する古鈔の巻子本があった。さきに{一三二頁参照}東京なる近衛家で「万葉集目録」を見いでて学界に紹介したが、この天元四年書写の琴歌譜は、同じく、数百年間筐底に秘蔵せられ、従って学界の耳目に触れなかった文献で、巻中、かつて世に知られなかった上代の歌謡十三首を含んでおる。即ち、記紀風土記万葉等に収められていない歌謡がこの書によって新たにわが歌謡史の上に加わったのである。震災なかりせば或はなお幾年を、もしくは幾十年を、世に出でなかったかも知れぬ。震災が、そのつぐのいの一部として、学界にささげた書ともいえるのである。《注:一三二頁は大正7年3月》
   吾はもやこのうた巻を初(うひ)に見つ千とせに近く人知らざりし
他にも、承徳本古謡集(仮に名づく)を見るを得た。これには、従来知られなかった歌詞十五章が発見された。
七月 宮内省より、御物管理委員会委員を嘱託せられ、秘府の典籍を精査するを得た。
八月以後、宮内省において拝観した古典籍は、万葉集二種、古今集三種、和漢朗詠集四種、手鑑四種等で、いずれもわが国文学の資料としてまた古筆として貴重なものであるが、中に、更科日記一函があった。それは三重の函に収められた蝴蝶装の草子で、紙数百二枚、十つづりになっておる。筆者は御目録に藤原定家筆とある。げにも定家の筆とおぼしく、しかもその老年の書なることは筆致で知られる。かかる古写本のあったことよと胸とどろかせつつ読みもてゆくに、流布本で解し難かった処の、さだかに明らめ得らるるところがあり、五葉ずつのつづりに注意するに、前の一折と次の一折との墨色の違うているところがあるので、一道の光明を得た心地がして、次の日、刊本及び写本を携えゆき、御本と校合するに、流布本の原本であることが明らかになったので、特に請うて、かねて更科日記を研究しておられる玉井幸助君を伴い、二人で読み合せて、全部の校合をなし終え精査した。真夏の暑い日ながら、処は豊明殿の御廊下、清風折々に吹き来て、いわん方なく尊い数時間であった。(後、玉井君がその錯簡を全部たしかめて復原され、更科日記錯簡考を著わされた。)
十月 京都行。太秦広隆寺、
   正目(まさめ)に見まつるものか御(み)仏の思惟(しゆゐ)しいますかしこき相(すがた)
太秦牛祭、
   篝あかし老いたる僧は神の牛に念誦(ねんず)さづくる洒水(しやすゐ)の行事
   十重二十重垣なす人の中わけてもそろもそろ行く牛祭の列
   鉾もたる異形(いぎやう)の四人たいまつの火にかがよひて静かにすすむ
   大き面(めん)しろき装束(さうぞく)牛の背の摩叱羅神(まだらしん)はもまこと神ならし
   あーさーひーのーと声高(こわだか)に引く祭文(さいもん)の神さび声(ごえ)は夜空にすみぬ
   誦(ず)しやめてまた誦す長き祭文に老樟が上の月かたぶけり
十二月 心の花に「草とりの鏝」(亡父の思い出)を掲げた。
京阪に赴いた。一日を紀伊に遊んで、
   山に満つこがねつぶら実たわたわに冬の日は照る有田の郡
蜜柑山の主人から、柑橘類の花の香は高く、花の盛には海の向うのあの淡路島の漁師の家で、朝、戸をあけると、みかんの花の香が入ってくるとの話を聞いた。

    大正十四年 五十四歳

一月 国文学界に於ける先哲は悉く全集が刊行された中に、単り契沖阿闍梨のみその挙がなかったのを遺憾とし、さきに大阪にものして、朝日新聞社に村山竜平翁を訪い、その企画をのべたに、快諾を得て、上田万年博士監修の下に、新村博士、予、橋本、武田、久松氏らとその編纂にあたり、本月第一巻が刊行された。学界のため慶賀のいたりであった。
芸文に「新たに知られたる上代歌謡について(琴歌譜等)」を寄稿した。
二月 木下利玄君が永眠された。四月号心の花を君の追悼号とし、諸家の文を掲げた。予は「木下君の事ども」の一文に三十年に近い君の思い出をしるした。挽歌、
   鎌倉の谷戸(やと)の静処(しづど)にこもらひてただ一路(ひとみち)に歌おもひゐし
   うたびと君とこしへと思へうつそみの短かかりつる命かなしも
   門の辺に梅の花さけり澄み心深くまもらひうたひし人なし
   くもり空ゆふ山かげの道はくらし君の棺のしづかに行くも
   名越の谷戸の奥処(おくど)に魂(たま)ごもり歌思(も)ふらしもまさ目には見ず
三月 「校本万葉集」の刊行が完成した。和装本で、紙は耐久力を保たしめるため、土佐の八千代紙の別漉を用い、表紙の図案は正倉院の臈纈(ろうけもの)屏風の図を用い、題簽は聖武天皇の宸筆「雑集」の中から集字した。首巻二冊、本文二十冊、諸本輯影二冊、附巻一冊、あわせて二十五冊である。姉崎、新村の二博士に謀り、北京、印度支那、印度、ベルギー、ドイツ、フランス、オランダ、ハンガリー、英国、米国の二十の大学及び図書館に、英文の解説を首巻の初めに特に加えて寄贈した。未曽有の地変に遭うて多くの貴重な古典籍の湮滅した中に、からくも校正刷二部をあましたこの事業はここに至って完成したのである。再興を力づけられた熊沢君、また十数年来の橋本君をはじめ武田君、久松君の熱意、はじめ印刷に尽力された横田地巴君、写真製版印刷を負担された倉田実君、雑務につとめられた岡田三鈴君に、ふかく感謝の忱をささげる。
   今し成りぬ五帙二十五冊を前におき喜びの涙とどめあへなく
契沖全集資料探訪のため、橋本、武田、久松の三氏と共に水戸彰考館文庫に赴いた。
四月の初め、放送局から「和歌と桜」を放送した。三月廿二日に芝浦の工芸学校の内に初めて開始されたので、放送をおえて後、機械室その他幾棟にもなっておるのを案内された。くらい夜であったが、未だよく整備されておらず、今日の放送局のことを思うと夢のようである。
五月 小石川酒井伯邸に校本万葉集完成祝賀会を開き、「万葉二百種簡明目録」を頒った。永田青嵐君の講話、種々の余興の後に風俗行列があり、自分も東坡服を着、つけひげをし、長い杖を手にして一行に加わった。無器用な自分にとっては、生涯にただ一度のたわむれであった。この日の記事は小金井素子君の筆で「青葉かをる日」が、心の花七月号に載っている。兼題、初夏、
   -つのことからうじてをへぬいざ今日を友とかたらむ若葉かをる園に
末松生子夫人は、母堂伊藤梅子夫人の遺稿落梅集を刊行され、多年指導をうけた謝意にとて、春畝公が「ちりつもる木葉はらへばひまもなし枝をる風の時を待たばや 贈躍起組」とかかれた絹の色紙を贈られた。公の作歌は数首に過ぎず、これは政界の躍起組というに与えられた草案とのこと、珍襲している。
五月三十日、京大図書館にいったに雷鳴が甚しかった。新村館長は偶まボッカチオ五百五十年記念会があり、十日物語に因んで十人の講演者を得たいと思っているが一人欠けておる。加わってくれぬかといわれる。予ははやく、尾崎紅葉君が鷹料理、冷熱を訳す以前、その梗概を同君に聞いたことがあり、長田秋涛君が十日物語を抄訳した雑誌白百合に、歌を掲げたこともある。また多少の因縁なきにしもあらずと、雷鳴の音に聞きおじつつも十日物語十首を詠じた。咄嗟の作ではあったが、芸文八月の記念号に寄せることとした。
   えやみ避くと町をのがれし古寺に語りし言葉朽つる世知らに
   七たりのをみな三人のをのこらがうき世がたりは聞くに飽かずも
   かりそめの十日がほどの物語かたりもつぐか今の現(うつつ)に
   あるのうの流ながめし遠つ世の人をし忍ぶ賀茂の川べに
   鉢の木はけぶりとなりて花さきぬ鷹はえにしの糸を結びし
   塔の上のもえたつ真日に思ひ出づや雪の夜をわが氷りしおもひ
   同じ世の双が岡の法の師もゑみつつ読まむ物がたりぶみ
   深草の百夜かよひし恋がたり伝へも聞かば書きれつらむか
   なるかみの音にきこえし物語かたらふ今日を雷(かみ)とどろくも
   今日しささぐわがやまと歌世をへだて海をへだつる文人(ふびと)の霊(たま)に
六月 枇杷の木、
   塀のそとにとらんと騒ぐ子らの声とりてせんなく枇杷は青きに
   一もとのなりものの木の塀ちかくあるからにかもす子らの罪ごころ
   枇杷の実はとるにまかせつとらまくの心を子らに起さする憂し
   塀にのぼりぽきぽきと折るみのり枝下に幾人の待つらしき声
   葉ごもりに残りゐし実の四つ五つ今朝みやりたればなくなりにけり
七月 明治天皇祭当日、献詠会が設置せられ、奉祝献詠歌の選者の一人となった。
心の花七月号に、池田次郎吉氏は「竹柏の老木」と題して、各地の竹柏の樹齢、樹高、伝説等をしるされた。
七月七日の夜、渡辺夫人の「高原」の出版記念会が帝国ホテルで催された。梶の葉にかたどった五色のメニューが出た。自分のは黄色で、隣席した与謝野寛、芥川竜之介、犬養健君などが署名された。
八月 鎌倉にて、
   タンクに汲みあぐる井の水の音の聞きのすがしき夕月夜かも
   心とほく雲のはたてにまじらひて身はおぼつかな石原をゆく
精進湖に遊び、「嶽麓吟」を得た。
   山の鳥いまだ声せずしののめの此の湖(うみ)ぞひを一人われ占む
   山の湖の暁しろきもやごもりしみらにおもふ天地(あめつち)の意(こころ)
   日のあり処(ど)おほらかに明(あか)ししかれども天(あま)ぎらふさ霧いまだ深しも
   木の間の湖(うみ)朝日かぎろひ窓ちかき枝に遊べりりすの子と親と
   樅の木に巣くひ遊べるりすの子のやがてこん寒さわびしくあるべし
五湖山に登って、
   常(とこ)をとめ神富士が嶺は白雲の真袖にのする五つの鏡
   雲ゆききし松風ささと早ければ坂路くだるに追はるるごとし
須走附近にて、
   水清く段(きだ)なし落つる山葵田(わさびだ)の真上にたてり初秋の富士
九月 契沖全集の用務で、京阪奈良等に赴いた。河内鬼住途上、
   家いくつ谷あひに見ゆ此の里も人しすめれば悲しびやあらむ
   法の為み山を出でて谷あひのこの道ゆきけむ浄厳阿闍梨
十月 心の花のために多年つくされた新井洸君が永眠された。十二月号を追悼号とし、諸家の文詞を掲げ、予は「新井君を憶ふ」をかいた。
十一月 契沖全集刊行記念講演会、竹柏会関西大会に講じた。大阪・京都・大和にて、
   芦がちる大江の岸の夕風に心かなしく人をおもへり
   つかれたる心いやすに秋の日の京の山々はしづかなりける
   円山の左阿弥の欄(らん)の秋の灯(ひ)にせまりて白き夜(よる)のもやかな
   松青きならびが岡の夕かげに我も昔の人ごこちする
   祇王寺に語りて久し散りつもる竹の落葉を踏みつつ下(くだ)る
   竹(たか)むらを洩る日の光まだらなり去来の墓にたむくる野菊
   鞍馬道あきの日ぬくし柿の実のみのたわたわに下照る小道
   月にふむ堤の木(こ)かげ物おとなし池の向うの家の一つ灯(ひ)(大沢の池)
   秋風にしら雲なびくかつらきの山のをのへの白雲なびく
   夢かあらず吾がまなかひに天平の御仏たちぞたたせ給へる(三月堂)
   塔(あららぎ)のそりのめでたさ西の京にわれはありけりこの秋の日を
   扉(と)ひらけばほのかにかをる古き香もめでたかりけれ大和の秋は
   秋空は清らにすめり水煙(すゐえん)の天女のすがたけざやかに見ゆ
   秋の雲集にたゆたふあをによし都の跡の大き礎
   人遠くゆきてかへらず秋の日の光しみ入る石だたみ道
千葉県香取郡青年団の団歌をつくった。
十二月 「有栖川王府本元暦万葉集六帖」、「百代草」を印行した。
中沢弘光君の西国三十三所巡礼絵巻題歌、
   諸相現じ遊びたまへり水をこえ山行きめぐるわれらとともに

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