大正十五年 五十五歳

一月 本年外遊あらせられる高松宮殿下に、六回にわたって永田町の御邸に万葉集を講じた。
   代々の親王(みこ)の御影ならばす御(み)前にして上(かみ)つ世の歌の意(こころ)まをさく
契沖全集第一巻として、{初稿精撰}万葉代匠記第一巻が出版された。
心の花に「日本学建設の第一歩」を掲げた。
三月号心の花を第七万葉号とし、諸家の寄稿を請うた。自分は「万葉集雑談」(万葉摘草等)を掲げた。
   着ぶくれし幼なはらから走せまはり履に蹴ちらすけさの浅雪
   ふすまあけて「こんちは」といふ哲郎のしばし見ぬ間に大きうなりし
   わが正樹しろきまんとを地にひきて芝生にもえし草むしるなり
四月 尾張・京都・伊勢に赴く。名古屋高女に文芸談を述べた。「松阪遊記」を心の花九月号に掲げた。
土浦に遊んで、
   町川の流れどまりの青水(み)しぶ青々として春たけにたり
五月 藤島逸人、男爵有坂勉氏妹季子さんを娶り、文綱、理学博士丘浅次郎氏長女久子さんを娶った。
七月 「秘府本万葉集抄」を印行し、「仙覚全集」を刊行した。
八月 静岡葵文庫講演会に、「駿遠二州より出でたる近世の国文学者とその事業」を講じた。最後に、「自分は、浜松に数回、また真淵翁の母刀自の名が知りたくて生家天竜村をも二回訪い、その他、委しく調べたが、猶不明の点がある。この地方の篤学の士によって、真淵門下のすぐれた学者についても調べてもらいたい」というて話をとじめたのであった。(附記。当日聴講された浜松の小山正君は、爾来幾十年を大いに努めて学位をも受けられた。)
文芸春秋に「古今伝授と万国海律全書」を寄稿した。
鎌倉にて、
   鳳仙花さきかたまれりつみあげたる苅芝の香のほのかに匂ふ
   野をゆけばほのぼの白き月よみの光のそこの月見ぐさの花
   老仏師が御仏きざむ思もち日々日々に書く幾ひらのふみ
   つつましく我を守りてありふれば時にさびしき思ひぞわがする
十一月 長慶天皇が御歴代に列せられ給うた。家蔵本耕雲千首の奥書による武田祐吉君の論文が有力な徴証となったので、宮中から武田君に賜(たまもの)があった。それで、君を中心として二上兵治君、芝葛盛君、橋本君、久松君、藤田徳太郎君を招いて燕楽軒で賀会を催した。心の花十二月号に、芝君の「長慶天皇を仰ぎ奉りて」、予の「長慶天皇御在位確認の史料について」を掲げた。
契沖全集のため京阪に赴いた。京都で、
   西山の秋の日寒き山路ふみあはれと折りぬわれもかうの花
東洋大学四十年記念会に、「輓近の発見に係る希覯書に就いて」を講じた。五代集歌枕、信生法師日記、飛鳥井雅有の日記等である。
十二月 大正天皇崩御を悼みまつりて、
   雲がくり日かげをぐらしひさかたの天つみ空に大き憂あり

    昭和二年 五十六歳

一月 明治十年に初めて歌を詠んで満五十年になるので詠んだ歌、
   五十年を歩みわがこしこの道の道のはるけきに心いためり
校註金槐和歌集を公けにした。附録実朝年譜は、曽て歌学論叢に発表したのを更に増補した。
二月 芳賀矢一博士が永眠せられた。心の花三月号に「芳賀博士をおもふ」を掲げて、博士の偉業をたたえた。
「増訂賀茂真淵全集」を監修した。
三月 葵文庫パンフレットに、さきに講じた「駿遠二州より出でたる近世国文学者」を掲げた。
契沖全集、真淵全集の資料蒐集のため、名古屋より大和に赴き、二月堂に水取の行法を見、室生に契沖の遣蹟を探って深く感じ「室生の岩屋」の一篇をものした。{信綱全集二三三頁参照}帰途、奈良に俊成の「古今問答」二巻を発見し、東海道新居(あらい)に岡部譲(ゆずる)翁を訪うて、真淵文献を見るを得た。
国語と国文学に「悦目抄の原本和歌大綱に就いて」を寄稿した。
四月 熊谷町図書館主催の建部綾足祭に列なって、綾足について語り、安藤野雁の墓に詣でて野雁のすきな酒を手向けた。
   おくつきの石にふりかくるうまし酒有がたしとやもたいなしとや
三笠保存会の嘱により「記念艦三笠の歌」を作成したに、三笠艦艦材の額縁に、東郷元帥が自署された大型の写真を贈られた。
五月 公孫樹下歌会が東大国文科学生中の同好の士によって、成立した。会合する者いずれも、明治歌壇の新気運に参与した久保猪之吉博士等のいかづち会、八杉外語教授らの若菜会を思わせるものがある。歌会の名は厳橿が下(もと)、椎が下(もと)等にならって命名したもの、山上集会所にあつまったのは、北沢喜代治、高浜充、徳山健三、相原弘、酒井善孝、谷亮平、田中定二、福田清人、大津有一、岩淵兵七郎、高橋猛君等十余人、兼題の批評は甲難乙駁、和気藹々の裡にも熱論火を飛ばすようであった。
七月 橋本君と合編の「南京遺芳」が印行された。「南京遺文」{大正十年十月参照}の姉妹篇である。さきに正倉院でうつした写真の一つに就いて武井大助君に話したに、福田徳三博士はその写真を早く見たいと懇請された。それは遺芳のうちの「写経司解」である。博士は、労働者側の待遇改善の要求に関する文書として、伝存しておる世界最古のものでなかろうかと思う。珍しい文書を見ることを得たといたく喜んで返された。{信綱文集六三頁に「万葉集の背景としての一文献」という題目で全文を掲げた。}
心の花に「円珠余光」を掲げた。この数年間契沖について調査したことの結晶ともいうべき一篇である。
九条武子夫人の随筆「無憂華」が出版された。この書は、爾来年を積んで版を重ね、その印税が基礎になって、あそか病院が出来たのであった。
八月 改造社の札幌における夏季大学のために北海道に赴いた。津軽海峡にて、
   波きるや音のさやさや月白き津軽の迫門(せと)をわが船わたる
   船ゆるらに夜(よ)の大海の風きよし月に横ぎるせとの白波
   大き海に月おし照れり船艫(ふなとも)を滝つ瀬なして流れ散る波
   わが世によき幸(さち)一つくははれり北海(ほつかい)にわたる此のよき月夜
   船のゆれとみにはげしも明滅せし灯台の灯(ひ)も見えずなりにたり
   月くだつ津軽のせとの船の上にややうすら寒しわが旅ごろも
函館につくと、木村定三牧師に迎えられた。君は小川町の吾が家におられたことがある。後、金沢の高等学校に入り、更に神の道に身を献げて北海道に渡られた。
   雪ふかき北の海べに一巻(ひとまき)のバイブルもちていにし友はも
とは、当時君を懐うた自分の歌であった。しかして君は今函館で神の道を伝えておられる。
大沼にやどり、翌朝は鵞鳥の鳴き騒ぐ声に目がさめた。小舟にのって、百二十六あるという島と島の間を縫うてゆく。瀬戸内海を縮めた松島、松島を更に縮めた大沼、女性的な美しさのこの大沼は、北方にそそり立つ男性的な休火山駒が嶽がその雄姿を浮べて、更に美しさを増しておる。
   さみどりのよき衣(きぬ)きたる島童百まりむれて波に遊べり
舟をあがって大沼養狐場を訪う。
   ここはこれ狐の国なり人間のたかき足音(あのと)をはばかりあゆむ
   金網もてくぎれる柵に昼の日照り衣(きぬ)にまつはるけもののにほひ
   手づくりの野葡萄の酒すすめつつ場長(じやうちやう)は語る狐の話を
夜、札幌に着くと改造社の人々に迎えられた。
   辻の隅に唐黍(きび)やく匂ただよへり北の国べにきたれりと感ず
山形屋旅館に着いて、奥の部屋に通る。袋戸棚にはった書画の中に短冊があるので、帽子を置きやがて見ると、一は小池道子刀自ので、一は亡父の歌を書いてあるのであった。それは父の歌(教訓の作)を誰かが感じて書いたもので、古式のように他人の歌を書く方式で書いてある。初めて米た北海道の客舎で、亡父の歌を書いた短冊の貼ってある部屋にとまったことは喜ばしかった。
三日間の講演を終えて、バチェラー博士を訪い、アイヌ語にささげられた多年の苦心談をきいた。
   アイヌびと祖父(エカシ)とむつび神(カムイ)としたたふる君よ百とせをいませ
真駒内牧場にて、
   遠々し牧の上(へ)の空の真しら雲秋のこころはすでに動けり
   楡がもと槲(かしは)がもとに牛は群れ馬はあそべりゆたけき天地(あめつち)
   乾草塔(サイロー)のまろき屋の上(へ)に鴉おりゐ夕陽よどめるかしはの大樹
   放牧の牛むれ帰る黄昏をほのぼの赤きクローバのかたまり
   刈草の堆積(にほ)の片かげほのぐろうこの広き牧は暮れもてゆくなり
場内にデンマーク人の家があって、女児が遊んでおった。
   児ははしやぎて乳(ちち)牛のはづなひつぱれりそが赤き衣(きぬ)風にふくらみ
月寒種羊場にて、
   牧草(ぼくさう)のふみ心地よさ羊としここに生(あ)れなば物おもはざらむ
   雲しづむ夕牧のはてに点々と羊は黒き星のごとしも
   牧草のあまき香はこぶ夕風にまじりてをあらむわれも羊と
夕張炭鉱、
   廃坑の奥より吹き来(く)風つめたし野葡萄ゆらぎ歯朶の葉ゆらぎ
   大地(おほつち)の底に国ありをのこ吾等生くべき国のなしといはずやも
   白墨(チヨーク)もて事務所の壁板(したみ)に書きてあり「彼女は恐らく私の事を思つてゐまい」
   うぐひすは金山(かなやま)神社の石段をのぼりつつあるにしきりに鳴くも
   花櫛を売る家の門(かど)にしばし立ちぬ炭山町(たんざんまち)のまひるの暑さ
夕張倶楽部に宿って盆踊を見にいった。
   をどりぬけてとく帰るらしき男女(をとこをんな)たちとまり買ふ夜店のトマト
同じく講演に来られた金田一京助君の案内で、白老アイヌ村を訪うた。予の請うまにまに主人はユーカラを謡い、若い女五六人は踊ってくれた。
   神(かん)窓にむかふぬさ垣しらじらといたどりの花ぞ咲きかこみたる
   しろがねの鬚ゆるがして老いし主人(エカシ)炉の辺(へ)うちつつ謡ふ古謡(ユーカラ)
   をどりの輪めぐること早しかけ声のたえまをひびく遠波の音
   亡びゆく種族が為の挽歌とも聞きの悲しさ古謡(ユーカラ)のしらべ
   段(きだ)屋根の村通り過ぎて出でし海、海さびしらに船のかげもなく
   アイヌの子も共にしやがみて海を見る白老(しらおい)の浜の夕暮の波
   はま鴉いたくな鳴きそ白老のゆふべの海はさびしきものを
   ここかしこの段(きだ)やねの家暮れなづみ白老の村は夜に入らんとす
登別温泉にやどり、支笏湖に赴いた。
   岩だたみ白みをどめる湯の中に見る川遠(をち)のいたやの紅葉
   冬ごもりのまき積みてあり発電所の社宅の横に遊べる子供ら
   軽便をおりたるは父か虎杖(いたどり)の花のひま分け走せこしむすめ
   一面の大雪原にならむ日を思ひつつ手折(たを)るをみなへしの花
   この深(み)山に八尺(やさか)の雪に籠るとふうつそみ人(びと)は生きざるべからず
   湖(うみ)岸は夕日まだらに高き木の蔓あぢさゐの花のましろさ
   にはとこのくれなゐの実のさゆれゆれ鳥が音乱れ山の雨来る
   日のくれの山風とみに寒うなるに湖(うみ)見ゆる方の戸をとざしたり
   開拓使の昔がたりに夜はふけぬ窓をはたはたと打つ山の雨
   もやごもる湖ぞひ道の朝じめりさびたの花の白くつめたき
   湖ぞひの木がくり道は狭霧ふりにはとこの実のま赤きもさびし
   ほうと呼べばほうとこだます湖(うみ)岸のこぐらき道の白きいたどり
   湖(うみ)岸をはなれて少し山に入るここには多きたもの木ぶなの木
恵庭も樽前も火山である。
   相思へど相よりがてに樽前(たるまへ)と恵庭(ゑには)は可愛(かな)し嘆き息吹(いぶ)くも
支笏湖帰途、汽車中作。
   林なすいたどりの花の中わけて来(こ)し山人は神代人かも
   今宵とまる旭川の駅いまだ遠しあかがね色の月いでてをり
斎藤瀏君を訪うべく、夜、旭川に下車した。
   駅前の夜ふけつめたき雨(あま)風に客あふれたる古き幌馬車
夜明くるまで語りかわした。
空知平・十勝を過ぎ、この旅の終りなる狩勝峠に赴いた。
   白雲のおりゐ向伏(むかぶ)す国原を見つつ吾がをりこころ虔(つつし)み
   すすき原から松林ゆりなびけ高原(たかはら)の風ふもとにくだる
   高原の風をはげしみ丈(たけ)のびず花もたる草をかなしびにけり
   十勝のやさほろの嶽のここにして人を思へばはろかなりけり
   山の上にたてりて久し吾もまた一本(いつぽん)の木の心地するかも
   さほろ嶺(ね)の大き岩根にわが居(を)れば傍に近く雲あそぶなり
帰途作。
   海はくろし牛放ちたる草原のところどころに咲ける花草(ぐさ)
   秋未だ浅くしあれど大いなる広野がつつむまうらさびしさ
函館にやどる。
   五稜郭の濠の水いたくにごりをり中学生が競ひ泳げる
   本願寺の大き屋根一つもやに浮きて港の町は朝ならむとす
立待崎に啄木の墓を訪うて、
   さすらへ来て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
帰途盛岡に下車し、得能知事の官舎に一泊した。翌日、厨川柵のあとを訪うて、
   そのかみの奥州街道の町並の年ふりにたれ落ちつきのよさ
   命すて争ひし柵の跡かここは石からまきの花のあかるく
   つばめ飛ぶ北上川の瀬を早みいにしへ人はとどまらなくに
   南部は馬の国なりゆきあふどの馬もどの馬も虻おほひせる
夜、大宮に下車した。それは旅の歌を書き改める為であった。
   夜(よる)の道螢籠(かご)もたる女らがすれちがひざまの螢のにほひ
   虫の音は流らふごとし松原の中なる家に夜を一人をり
心の花十月号に「北海遊記」を揚げた。
九月 新訓万葉集上巻(下巻は十月)が岩波文庫の第一巻として刊行された。さきに岩波茂雄君が訪われて、「此の度、岩波文庫をかくの如き趣旨で出そうとおもう。就いてはその第一巻第二巻に、わが国の古典として最も尊い万葉集を出したい。いついつまでにまとめてほしい」との詞。自分は驚いて、「そんなに急に出来るものではありませぬ。しかし」と云うて、書斎から改訂万葉集の原稿{明治四十二年十二月参照}を持って来て、仮名交りの万葉は江戸時代にもありはするが、よい本を出したいと多年企てて、木村博士在世中に序文をもお願いしたが、訓については能うかぎり正確にと、このように改めていました。それではいよいよこれをまとめましょう」と約束し、ひたすら従事し、ここに刊行されるにいたった。
国書稿本刊行会の「稿本叢書」を監修すべく依嘱された。
内藤湖南博士頒寿記念文学論叢に、「成尋阿闍梨母日記解説」をものした。{後、冷泉家の定家手沢本を見ることを得た。「国文学の文献学的研究」二九五頁参照}
京都に赴く途上作、
   この幾日万葉集につかれたるわが目に秋の湖は光れり
大阪中央放送局の嘱により、大阪にいたり、国文講座に「万葉及び古今の秋の歌」について講ずること七回であった。
上に述べた契沖全集{契沖九巻長流二巻}が完成したので、東京から上田博士、京都から新村博士が来られ、高津の円珠庵でおごそかな報告式があった。
   円(まとか)なる珠の光は全(また)く世に今しあらはる尊く嬉しき
   生駒遠嶺冬霞せりほほゑみつつ阿闍梨のみ霊うけ給ふらし
十一月 正倉院に赴いた。
十二月 心の花に「明治大帝と万葉集」を掲げた。十一月三日の第一回明治節に謹記したのである。

前頁  目次  次頁