昭和三年 五十七歳

一月三日の夜に東京駅を出て、九日の朝に帰って来た。かかなべて七日の間に、京都、坂本、恭仁、奈良、四日市、若松、名古屋の七処を訪うた。あわただしい旅ながら、幸に諸家の好意により、小大君の訓法、鎌倉時代の今様(伏見院勅筆の写)、船謡屏風、以下九種の眼福を得た。
京都に加藤順三君を訪うたに不在であった。
   初春の夕日つめたし友はあらず糺の森の落葉(らくえふ)を踏む
加茂で下車し、泉川の高橋を渡り、冬枯の檪の蔭の道を折れまがると、恭仁(くに)京のあとが一むらの森になっておるのに出る。
   国分寺の礎石つめたし村少女かたはらの畑(はた)に赤かぶらぬく
礎石のもとに立って、万葉の古歌をしのぶこと少時、さて湖南内藤博士を、その恭仁山荘に訪うた。案内せられて楼上から眺めると、右に泉川の流、左に吉野、生駒の遠山が、まぢかい鹿背(かせ)山をさしはさんでかすかに見える。春日山三笠山から左のはては布当(ふたぎ)山に終っていて、笠置はその後(うしろ)に当るという。恭仁の古京を中心とした刈田は、色づきわたっていて、晩秋の頃が偲ばれ、うしろの岡に橘の実の残っているのを見ても、「春されば岡辺もしじに、巌には花さきををる」頃のながめがなつかしまれる。博士は、その書庫を開いて示された。階上階下に溢れている中に、階上の一隅には、特に貴重の古書が収められてある。それは、端方旧蔵の古鈔本説文、竹添氏旧蔵の毛詩正義、北宋版の説文、同じき史記、飛鳥井家旧蔵の左伝等々である。とりわけ、自分にとって最も興趣を覚えたのは、信西の孫なる成賢の左伝古鈔本四軸であって、その裏のここかしこに、教化(きようげ)が記されてあるのは、これによってその時代がわかり、歌謡史の上から尊ぶべきものである。
   蔵ぬちは日影さし入りて暖し古書がかもしいだす香もなつかしく
   主人(あるじ)は古版本とうで云々(しかじか)と本が歩み来し歴史を語る
恭仁(くに)京趾の大いなる眺を占め、かの芸亭(うんてい)や蓮華王院を偲ばしめる文庫のあるじは、実に天下の富人というべきであろうと感じた。風景と典籍と、博士夫妻の款待とに飽く時を知らなかったが、惜しい別を告げて、奈良の古都へと急いだ。奈良では、数点の古書を見るを得た。
坂本にて、
   伊吹より越路につづく雪の山湖(うみ)紺碧に朝を晴れたり
   正月の六日のひるの湖(うみ)の色青々として浮ぶ鳥なし
名張にて、
   雪雲は尾上をはしり杉むらに竹むらにさと散りかかる雪
伊勢若松にて、
   道とへばふるさと人はねもころなり光太夫の碑に案内(あない)せむといふ
   海ほがらに松原青し此の浦ゆ船出せし人の奇(く)しき一生
   女帝(によてい)カタリンの前に眉あげてこときこえけむ若き船人
心の花に「俊成自筆本古今集について」を掲げた。
二月 文部省より明治節唱歌、及び大礼奉祝歌詞審査委員を嘱託せられた。
奈良に天平文化記念会に赴いたに、東京から九条武子夫人危篤との電報が届いたので急ぎ帰京した。その七日の夜、門地と才智と美貌とを兼ね備えられた夫人は白玉楼中の人となられた。心の花三月号を夫人追悼号とし、諸家の文を掲げた。挽歌、
   蘭の香のただよひ清み真白玉うつくし人は眠りてありけり(磯部病院)
   生死(しやうじ)の境にありてにこやかに常のゑみもて君はかたりし
   ゑまひつつ眠れる君をうつそみの世になき人と思ふに堪へず
   無憂華のにほふ木蔭に魂あそび帰り来まさぬ君にあらじか
   きさらぎの七日のよるの空の月清く寂しき色わすらえず
   うつくしさ足(た)らひあまりてうつそみの生(いき)の命は短かかりつる
三月中旬、中村徳重郎君の歌集「泉」の出版記念会に、仏人モイズ・シャール・アグノエル君は「安珍清姫・襖画・及び月夜の那智」を、魯人アンナ・グルスキナ(日本名清水浪子)さんは「レニン・グラードに於ける日本学と日本へ来ての感想」を述べられた。{心の花五月号掲載}
三十一日より、大阪、京都、奈良、御影、名古屋に赴き、四月八日に帰京した。途上作、
   夜の気こもる窓を開けば湖(うみ)青き近江あがたを走れるなりけり
天平懐古賦
     昭和三年は天平元年より一千二百年に当れるをもて、大阪に天平文化総合展覧会あり
   いにしへの大き光をかへりみるは新(にひ)しきいのち生れむがため
   千年(ちとせ)まり後の世人のしのぶべく今の御代にを光あらしめ
法隆寺、
   我らが祖(おや)一千年のそのかみにつくりきこれの七堂伽藍
   たふとし人間(にんげん)の信(しん)の霊(たま)ごもり力みなぎり成りつる壁画
   上つ代のにほひ恋ほしみさ丹(に)ぬりの大きまろ柱に手を触りて見つ
   止利仏師(とりぶつし)画筆をおきて仰ぎ見けむ松山の上(へ)のましろなる雲
   いかるがや法(のり)の都の春風にもくれんの花はな散りこぼる
夢殿、
   現(うつ)し身われ秘仏のおほんまなざしを斯(か)くはまさ目に見まつるものか
   御仏よ人ら争ひ相せめぐ此のうつし世をすくはせたまへ
なおこの時、秘仏をおろがんで深く胸にしみた感情を、「夢殿」という歌謡にものした。{歌謡集「おもかげ」に掲げた。}
中宮寺、
   おん頬にかそかに匂ふほほゑみの畏(かしこ)かれどもしたしき御仏
奈良ホテル、
   やまとの青垣山の朝がすみはろかに見つつ春の草ふむ
春日若宮神社、
   竹柏群(なぎむら)のしげらふ丘(をか)のしめり土飛び飛びのぼる角なきを鹿
   竹柏群の緑にまじりしろじろしあしびの花のにほひほのかなる
九日より十四日まで東京中央放送局の嘱により、人文講座のために万葉集を講じた。
五月 久松潜一君の母君が永眠されたので、尾州知多郡藤江に赴いた。村の西なる松山の墓所(むしよ)のはふりに、幼い正樹や治夫と共にいった。
   をさなきは松山道を珍らしみ拾ひし松かさを手より離たず
   松高き山ふところの墓どころやすらにねむれり代々の村人
安藤野雁の六十年祭が、熊谷で挙行せられたに参列した。
六月 一高文芸会に「近世の二文人に就いて」を講じた。
竹柏漫筆を刊行した。雪子との合著で、半は雪子の「西片町より」が掲げてある。
八月 奈良文化夏期講座のため、高田高等女学校にて「万葉集典籍史」を講じ、転じて大阪中央放送局にて「涼味を詠じた歌」を放送、京都では元暦万葉の為に諸家を訪問し、叡山に登った。
   老杉のうれ吹きすぐる風はやし大講堂のゆたけき甍
   暮れしづむ大き湖(うみ)の光ややに深し老杉の雫ほとほとと落つ
秩父宮御成婚に、武蔵秩父郡より秩父郡歌をささぐべく、その歌詞作成を嘱されたので、郡の所々を巡った。ここにはその途次の作を掲げる。
三峰途上、
   谷を越え木(こ)の間越えこしあまり風しだの垂(たり)葉は皆ゆらぐなり
   さがしあてたぐればほろろこぼれたりはかなかりける零余子(むかご)の実かな
   雲間洩る夕日の糸のかそかなり一谷(ひとたに)おほふ花柏(さはら)の垂枝(たりえ)
   霧雨のひえびえしもよ山草を折りつつあるに袖うるほへり
   ちご草(ぐさ)に蔓竜胆(つるりんだう)に山草(ぐさ)は花のにほひもさびしきものを
三峰山上、
   袴つけし童子給仕す夕けおそみ薯蕷汁(とろろ)おいしくいただきにけり
   参籠所夜(よる)のともし火ほのさむし黒き蝶つととほりぬけたり
   のりと言(ごと)神にまをさく朝ごゑにこだましゆらぐ八十(やそ)谷の雲
獅子舞、
   六つの獅子たちゐおきふしめぐらひてかがり太鼓(だいこ)をうちのよろしも
両神村途上、
   県道は白くかわけり唐黍(もろこし)のたかき穂の上(へ)の両神(りやうがみ)の山
秩父に赴く数日前、杵屋佐吉師が来て、「私ら夫婦がパリにおった時、宮様がおいであそばされたので、大使館で長唄をお聴きにいれました。この度のお祝に一曲の作譜をさしあげたいから作詞を」との詞。それならばこれこれで秩父に赴くから、古い伝説などについて取材するからと約し、「秩父の長者(をさ)」を作った。
八月下旬、静岡市外狐が崎に遊び、伊勢一身田、京都山科、大阪に元暦万葉集の資料を探り、名古屋で、「名古屋と国文学」というラジオ放送をした。
心の花に「愛誦歌五十首」を掲げた。
十一月 即位礼を行わせ給う日、
   秋空は清しめでたし高御座(たかみくら)たかしらしますこの豊秋を
国ほぎの歌、
   神富士は真(み)中に立たし五百重浪斎垣(いがき)めぐらすうるはし日本(やまと)
大礼特別観艦式の日、
   大御艦むかへまつると大山を足柄を率(ゐ)て富士はさもらふ
   天皇旗蒼海(あをうみ)の日にまかがよひ冠(かがふり)しろき富士に向へり
   しろがねのつばさ大空の風を衝きて鳥舟のむれつぎつぎ参(ま)ゐ来(く)
   夜光(やくわう)の珠(たま)きぬにかざしにちりばめて海のますらを処女(をとめ)さびせり
道子が藤田秋治君に嫁いだ。
十二月五日、宮中豊明殿に御饗宴の御儀あり、特に民間の功労者を召させ給うた中に、学芸の士の御召を蒙ったもの五人。美術家として横山大観、下村観山両画伯、医学者として北島多一博士、文芸にたずさわるものとして逍遥坪内博士と共に、おほけなくもおのれその一人に加えられたのであった。
   天つ日の光あまねく野の草も花の数にし召されたり今日
   出御(いでまし)を待つ間かしこみうち向ふ大庭の芝生色あたたかに
   大宮のみどりのいらか日に映えて泉のいぶき白玉を撒(ま)く
   大君につづかせたまふ御(み)后の御鞜(くつ)金色(こんじき)に明るき真昼
   言霊のさきはふ国のうた人の幸をしおもふ今日のこの日に
心の花に「仙覚律師に贈位の御沙汰を拝して」、「大嘗祭と和歌」を掲げた。
天平文化記念会の記念出版として依嘱された「元暦万葉集大成本(本文十五冊、解説一冊、附巻一冊)の印行が完結した。有栖川王府本、古河家本をはじめ、諸家の手鑑等にある断簡を苦心捜索して大成したのであるが、それについて、従来知られておった十四巻本以外に巻十一の数葉が発見されて、十五冊になったことは喜ばしかった。

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