昭和四年 五十八歳

一月 歌集「豊旗雲」を刊行した。巻の初めに、
   うつせみの命おほむねこの道にささげもて来つ嬉しとし思ふ
   道の上に残らむ跡はありもあらずもわれ虔(つつし)みてわが道ゆかむ
豊旗雲について、心の花三月号に、久保猪之吉、相馬御風君等、五月号に桑木厳翼、新村出君等の批評を掲げた。
京阪、伊勢に赴いた。
三月 読売新聞社の日本名宝展覧会の顧問を依嘱せられ、特に二日間の万葉デーに尽くし、講演会に講話をした。
四月 研究会に、児山敬一君は「短歌創作の哲学的基礎」、小花清泉君は「作者と批評家の立場」に就いて述べられた。
五月初旬、日には十日夜には九夜を北陸の旅に赴いた。二日の夜出立、三日金沢にて下車すると、四高の鴻巣盛広教授、中島県立図書館長が迎えに出ておられた。公園のみよし庵に小憩して、午前に松岡家を訪うた。それは、この三月に、松岡家から上述の名宝展覧会に春日万葉切を出品したいということであったので、喜んで、出品せられよといい送ったに、やがて数葉を携えて上京した使の人が、いま一葉、廿巻の巻末で年号のある所のは掛物にしてあるゆえ持って来なかったという。巻末、ことに年号のある処ならば是非みたい。幸い来月は北陸の万葉旧蹟めぐりにゆくゆえお伺いする。それで勝手がましいが、近親や知友の方々の家の古典籍古筆の類をも同時に拝見する機会が与えられたいと依頼したのである。鴻巣君らも同行したいといわれるので、電話でどうぞとの返事を得て、一緒にいった。室に入ると、閑雅な庭に面した座敷の床に、巻廿の巻末五行、終に「寛元二年三月九日書写之 祐定」とある幅が掛かっておる。喜び見めでつつ話しておると午餐が出た。一皿の、慈姑(くわい)の根を小さくしたようなのを指ざして、主人が、これはといわれるから、かつて味わいました。「寺井の上のかたかごの花」の根でしょうというたに、うなずかれた。おつぼに若布の酢の物のようなのが入っておる。これはといわれるので知らないというと、雄神川の葦つきです。昨日人をやって取らせたのですといわれる。主人の厚い志を深く感謝した。食後に、かねての御依頼で家にあるもの、また本家の主人が法事で東京から来ています。今日は先約で来ませんが、許しを得て蔵から秘蔵の数種を出して来ました、といわれる。いずれも貴い数点を見た後、古い箱に入った綴葉本をとうでて見ると、題簽に金槐和歌集とあるは本文とは別筆で、本文の初め数葉は定家が書き、あとを女の人に写させたものである。夢ではないかとしずかにひらいて巻末を見ると、「建暦三年十二月十八日」と定家の筆でかいてある。建暦三年は実朝廿二歳の冬である。従前は、金槐集の金は金玉集、金葉集の類のたたえ詞に鎌倉の金偏をよそえ、槐は大臣の義、実朝世を去った後に侍臣があつめたものと思うていたに、廿二歳の冬に、おそらくは後鳥羽上皇に上(たてまつ)ったものを、定家が家にのこすと、初め数葉を自らかき、あとを家人に写さしめたものとおもわれる。さすれば将来廿八歳の正月まで五年と一ヵ月の歌稿が出ぬとはいえぬ。実に尊いものであると感嘆時を久しうした。主人にきくと、本家の主人は五日前に来られ、五日後に帰京されるとのこと、いま一週間早くてもおそくても、この眼福は得られなかった。また近親などのをも頼んでほしいと我ままをいわなかったらばと感激しつつ、どうか主人が帰京の際持参されて、東京でゆるゆる拝見したいと懇請した。
   うまし幸みる幸得たりみ越路の万葉の旅の第一日に
   いく百年うづもれゐつるうづ宝これの歌巻を初(うひ)にわが見つ
北陸めぐりの第一日にこの大いなる喜を胸にしつつ、県立図書館に赴き、高橋富兄翁や藤岡東圃博士の旧蔵書{かの異本山家集もあった。}を見、公園を歩いて、九歳の初夏に父と共に訪うて{一五頁参照}記憶に残っている根あがり松を眺め、宝円寺の宗達の墓に詣で、夜はみよし庵の池亭の歓迎歌会に出た。四日、鴻巣君に伴われて金沢を離れ、高岡市着、射水の平野をひた走りに走り行く日動車の前方には、「鷲ぞ子生む」という二上山の姿が、薄靄の内に聳えている。新川の河口に近い長橋を渡ると、右手の村落は、新葉集の撰者で李花集を遺された宗良親王が、数年の間流離の生活を送られた地、新湊町の入口なる入江は、万葉集の「奈古の江」である。《注:一五頁は明治13年3月》
   奈古の江にさすは五月(さつき)の日、立山の遠つ山脈(なみ)雪いただけり
   立山の遠いただきの雪ひかり千鳥まひまふ奈古の旧江(ふるえ)に
   内河にここだつなげる米松(べいまつ)の筏の上におりゐる千鳥
   こぎくだるてんとう舟のどれもどれも銀色(いろ)の魚高山なせり
   海幸のゆたけき町の湊町人の面わにけはしき色なし
柴保二君を訪うた。
   家あるじ心くばりて古九谷(こくたに)の六歌仙の皿にもれるくだ物
午後一時再び自動車に乗り、往路に渡った長橋を過ぎると又大きい河がある。これが射水河である。行手に横わる古国府の丘陵が段々近づいてくる。射水川の橋を渡るとすぐそこにある丘こそ越中国府の遺跡で、家持が天平十八年閏七月から天平勝宝三年八月まで五年の間国守として在任し、多くの歌を遺したところである。丘の上の老槻(つき)の下(もと)に立つと、家持が「朝床に聞けばはるけし」と舟歌を聞いた射水川は、此の丘に沿うて流れている。
   古国府(ふるこふ)の丘の岩槻汝(な)が祖(おや)のかげに立ちけむ歌人(うたびと)家持
伏木(ふしき)の町を過ぎると、渋谷(しぶたに)の磯である。氷見(ひみ)町に入った車は、左に折れて氷見の江を渡り、川添道を走っている。ここが布勢の水海の旧地である。天然記念物に指定された鬼蓮の発生地を通って、布勢村で車をおり、丸山に登る。南に面した展望の佳い所に、大伴家持遊覧碑が立っている。
   うたびとの国守家持鷹手にすゑ見めで巡(めぐ)りけむこの丘かの浜
   布勢の湖(うみ)うみの名残の江を細み千鳥鳴きうつる小田より小田に
   家ごとに畳織る家田ごとに藺草(ゐぐさ)おふる田氷見(ひみ)の山村
氷見の町を走りぬけて、国境の山を突破、能登に入ろうとしている。清い山沢に躑躅山吹が影をうつして咲いているが、風はつめたい。
   五月(ごぐわつ)を山の風さむし坂路ゆく少女が輩(とも)は黒きマント着たり
羽咋(はぐい)町に入り、県社羽咋神社に参拝する。ここは羽咋国造の祖たる石衝別命と其の子石城別命とを奉祀した社で、太古に於ける越路の文化の中心地であったのである。汽車に乗り、古えの香島の津なる七尾を過ぎて和倉に着く。和歌崎本館の楼上におちついて眺め渡すと、「舟木切る」という能登の島山も、夕暗のうちに朧げにそれと見える。
   月おぼろに外湯(そとゆ)をかへる若様(あんさま)のつづしり唄ものどけき夜なり
   唄ずきな湯番(きつちやん)がうたふまだら節(ぶし)ほの暖かき湯げにこもらふ
   はなしながら二階をおるる湯女(ゆな)が足音(あのと)ふけ静もりて波の声きこゆ
五日は、朝は雨であったが、やがてやみ、風も凪いだ。
   日曜を来(こ)し団体の遊び客ことさらに笑ふ寒き雨かな
モーター船を艤して机の島に向った。島につくと磯の岩に下りる。どの巌にも小さい貝が沢山に這い附いている。水夫に其の名を尋ねると、シタダミと答える。巌の上に立って万葉十六の能登国歌を思うと、此の島の細螺(しただみ)を採って石で打破り、洗い濯いで塩で揉んで、高杯(つき)に盛って母に捧げた田舎女の風姿が目に見えるようである。
   舟よせおりたつ巌群(いはむら)一ぱいに小螺(しただみ)はつきて波に洗はれ
   いにしへの少女あらずや嶋岸のひたひた波にひたれるしただみ
   松おふる嶋ひろからず松蔭をゆきゆくと心上(かみ)つ代さびて
更にまた西北の彼方に、熊木村が波の上に霞んでいるのを眺めると、「熊木のやら」、「熊木酒屋」などが懐い起されて、身も心も古典の世界に溶け込んで了ったようで嬉しい。一巡し終ってあこがれの島を後にした。腰蓑を着けた数人の漁夫が、舟の中に網を手繰り込んでいたのも、大きな鷺が一羽、簀網の杭に淋しそうにとまっていたのも、歌心をそそられる景であった。
   風なぎたり渚ちかき簀巻(すまき)の杭の上に白鷺一つとまりて久し
和倉に帰り、五時過の汽車で金沢に帰った。{四日五日の記事は、鴻巣君の文によった。}
六日は、人々に送られて乗車、福井市に着き、藤井千熊翁等に迎えられ、翁の家にいたり、松平家にその古書を見、三崎家を訪い、三橋なる曙覧翁の旧宅にいったに、そのかみの家は建ち変ってい、翁の歌にある袖干(そでひ)の井も、井筒が入口の土間にころがされてあるのはいたましかった。{後、福井人により建てかえられたという。}さらに翁の墓を郊外三里なる大安寺に訪うた。寺の石段の入口に、翁の歌にある紙すきの家があった。
   紙すきの小屋に紙すく作業(わざ)みつつ坂路ふみのぼる大安禅寺
   松高く山しづかなり谷の底ゆせせらぐ水の音すみ聞ゆ
   山の上の此の老松のもとにして谷水の音ききてあらむ老翁(をぢ)
更に四里の道を永平寺に詣で、帰って松平家の別邸なる歓迎歌会に列した。永井市長仙石博士らの好意で、曙覧の大幅、その他二三十点が陳列してあったのは有がたかった。
七日は大阪に、八日は京都より奈良に赴き、春日神社宝物殿にて開催された万葉植物園設立期成会に列席、社務所で、森口奈良吉君の好意で、大沢氏所蔵の源氏物語と、薬師寺村村長所蔵の手鑑とを見るを得た。大沢氏のは夙く小杉博士から、後、三矢博士から写真を見せてもらったが、まさ目には初めてであった。同夜、奈良ホテルに、辰巳君、猿石君らと歓談。九日、四日市に熊沢、川村、長谷部氏を訪い、桑名に竹内氏の蔵儲を見、十日は名古屋に関戸家等の古典籍を見、十一日の朝帰京した。
七月 神官奉頌歌詞審査委員を嘱託された。
八月 国学院大学夏季講座に講じた。
現代短歌全集別巻「明治天皇御製、昭憲皇太后御歌集」の刊行にたずさわった。
白文万葉集の校正にかかって、
   じとじととしみづる肌の汗ばみをぬぐひつつまた朱(あけ)の筆とる
下旬、四日市に月台荘を訪い、人々と共に湯の山に遊んだ。
   白雲は空に浮べり谷川の石みな石のおのづからなる
   露台にして木の椅子のかたきよりごこち湯づかれの身に仰ぐ白雲
   大き石たけ高き石なだら石、石と石のひまをたぎち落つる水
   雲は空を流る、谷間に水はたぎつ、物しばらくもとどまらなくに
   渓なかの大岩にゐて時ひさしむかつ尾上(をのへ)にしみ入る夕日
   木群(こむら)にほほじろの声こもらへり此のふか山の真昼の太陽
   繁谷(しげだに)にこもらふ日ざし水に照り岩の上にして犬ほゆるなり
   くちあきて二階の客を見あげをり石段のもとの角兵衛獅子の児
   湯の客が夜(よ)の川中にあぐる花火つかの間光りまた水の音
   湯の宿のつんつるてんのかし浴衣谷の夜風が身にしみるなり
   三方をあけはなちたる室(へや)に入りく朝谷の風、あぶ、蝶、とんぼ
   滝風のあふりの風にゆさゆさと大きうゆらぐ朴の葉とちの葉(蒼滝)
山田に赴き、神宮文庫に荒木田系図をひもといて尾崎満良の事を詳かにし、その他古典籍を見ることを得た。記事は心の花十月号「山田の半日」にしるした。転じて軽井沢に遊んだ。
博物館保管の御物の古今目録抄は、著者顕真得業の稿本であるが、中に、今様歌抄ともいうべき本の料紙の上に書いてあるのを精査して、六十四首を探り得たことは喜ばしかった。{国文学の文献学的研究参照}
十月 伊勢にいたり、二日の夜、皇大神宮式年祭の神事に、庭燎(にわび)に奉仕した。いわん方なき荘厳な半夜であった。
   神風の伊勢の御民と生(いのち)享けてかしこし今宵御火たきまつる
   庭燎の火影(ほかげ)さやけみ仰ぎ見れば天つ白雲白木綿(しらゆふ)なすも
   神今しうつらせたまふ杉むらの夜(よる)のあき風おとさやさやに
九州に赴くべく、神戸より汽船みどり丸で瀬戸内海を過ぎた。
   ことことと音たてて汽船(ふね)は静かに着く桟橋くさき香のにほひ来(く)る(今治)
   桟橋にぴつたりとまれり梨の籠両手にさげし女まづおりぬ(高浜)
   童子(どうじ)がほうりあげては手にうくるトマトきらら光る桟橋の上
   おるる乗る五六人なり高浜のみなとの家の夾竹桃の花
   船のすすみとみにゆるやかなり来島(くるしま)の迫門(せと)にして仰ぐ秋の白雲
   来島のせとをおとすと船長(ふなをさ)はわい汐(じほ)まもるわいまふ汐を
   興居島(ごごじま)は宵祭とふ泊りをる船のほぼしらのくさぐさの旗
   童如(な)し磯につどへりわが島の祭にあふと帰りこし船
   かたちかはれるあひの子船(ぶね)の帆の幾つ見る見る迫門を遠ざかりたり
   足いれる石炭船の進みおそみ千鳥鳴きよる嶋の尖端
別府より福岡に赴く。
   豊国の宇佐の郡の秋の日にあかあかと照れる煉瓦の倉庫
福岡にいたり、大隈言道の旧居に宿って、
   老翁(をぢ)在らば夜ただ歌がたりきかましを此の篠(ささ)の舎(や)に秋の夜を寐(ぬ)る
大村から長崎に、
   山村(やまむら)は石垣おほし石垣に垂枝(たりえ)たわわにみのれる柑子
長崎ぶり、
   牆屏(ついぢ)崩(く)えし唐人屋敷あきの日に爽竹桃の花もゆるなり
   フルカデン色絵の皿に盛りてきぬ迎陽亭の秋の夜の卓
   丸山の花月は古きビイドロのコップにもれる南蛮の酒
   赤かぶら𩺊(あら)の雑物(ざふもつ)酔さびに長崎びとのほこらふもよく
諏訪祭に鯨の汐吹を見て、
   シイボルト慶賀ともなひ人垣にまじらひ見るか此の鯨曳
諏訪神事屏風、
   まひる日は光きらきらし踊見る紅毛人(オランダびと)の長き煙管に
骨董舗にて、
   秋さむしこはれて鳴らぬオルゴール遊女がさししギヤマンの櫛
雲仙途上、
   ながき裾海にすそびく雲仙はめでたき舞を舞ひやいづべき
   真蒼海(まさをうみ)右にたたひて粟畑の道ただにむかふ温泉岳(うんぜんだけ)に
雲仙、
   雲仙の山のホテルの朝の卓に山草(やまぐさ)の実のま赤きをめづ
   雲にうまれ霧に華さく雲仙の山のあざみはよき色したり
   国崎と野毛(のも)の岬と手さしのべ柔かにいだく海の夕日を
   しづかなる海かな夕日かな吾に近う黙をり緬羊の群(むれ)
   穂すすきに秋の日ひくし放牧の緬羊の群人をおそれず
   遠海の夕日がもとによこたはりうらさぶしもよ天草島(じま)は
   なぞへの青かや原をゆるがして海にと走る山の秋風
   夕もやにぬれつつおりく雑木原山鳥は立つわが足おとに
   日は海に夜(よる)の色は山に天地(あめつち)の中にささやけき我ぞ立ちたる
久留米に近い八女より、梅野満雄君来らる。ともに島原から三角への汽船にて
   船僕(ボーイ)きたり国所姓名(こくしよせいめい)ききて書く天草丸の秋の甲板
   欄干(てすり)による中学生の一かたまり先生にきく原の城(じやう)の歴史
   蒼波のうねり大いなり船の方向(むき)とみにかはりて港ぐちに入る
三角、
   港口(ぐち)に入り波止場(ふなつきば)なほ遠し波静かに樹のかげ倉庫のかげ岸ゆく人の影
   汽船よりあがりし老女(おうな)笹づとの大き鯛もち足疾(と)にゆくも
熊本にいたり、梅野君に別れ、斎藤瀏君に迎えられ、水前寺、江津湖、本妙寺とめぐり、歓迎座談会に列し、斎藤邸にやどり、翌日志柿君の案内で阿蘇に赴いた。阿蘇ぶり、
   人いまだ生れず神と鬼とのみ住みけむ世よりもゆる山かも
   飂(れう)々と大阿蘇の風ふき来(く)なり粟生がうへを飛ぶ赤とんぼ
   大阿蘇の渓谷ふかし秋風にさびしきうたをうたふ水かな
   渓の風よなをまじへて吹き吹けば白川の瀬は声むせぶなり
   大あそのよな降る谷に親の親もその子の孫も住みつぐらしき
   大あそのけぶり北へと流らふる穂すすきの道ゆけども尽きず
宮地村に赴き、阿蘇宮司の迎えを受けて大社に参拝、国宝牡丹作りの太刀等を拝観、夜、阿蘇家を訪うた。先代の大宮司が江戸に出られた頃、わが父江戸にあって歌をお導きしたというので、ねもころにもてなされて、秋の夜の寒さも忘れた。
   いにしへの菊池の朝臣(あそ)が大き太刀刃こぼれ見るもさむき宵なり
熊本に帰り、契沖の弟なる快旭阿闍梨の墓に詣で、斎藤君、山崎とね子夫人らに送られて熊本を出発、呉に赴き朝永家に宿った。
   秋はれの大津辺(べ)にをる大船の数かぞへをり丘の上の童子(どうじ)
   切り崩し段々に家を建てたる山てつぺんの平地(ひらち)に犬あそぶなり
十一月 奈良正倉院を拝観、梓弓三張、槻弓廿四張をつぶらに観ることを得た。
   校倉の御梯(みはし)おるれば秋の真日芝生に満ちてあかるし心
春日神社境内の万葉植物園の予定地を見た。面積二千八百九十坪である。
 さきに作った「夢殿」を、杵屋佐吉師が作曲、華族会館における演奏会に発表された。
武蔵比企郡小川町は、仙覚律師が万葉集鈔をかいた麻師宇郷の趾であるので、昨年の御贈位の光栄の記念に、遺蹟保存会がおこされ、篆額は徳川達孝伯(田安家)、文詞は自分のかいた碑が建ったので赴いた。
徳川伯、国府種徳氏の講話があり、自分も「万葉集に於ける仙覚の功績」について述べた。

    昭和五年 五十九歳

一月 去年金沢で発見した「定家所伝本金槐和歌集」が、岩波書店によって原本のままに印行されるので、その解説を書いた。
同人の短冊展覧会を白木屋で催した。
二月 改造社の現代短歌全集第三巻に「佐佐木信綱歌集」を刊行した。
三月 白文万葉集上(下巻四月)を、新訓万葉集の姉妹篇として刊行した。一八六頁の歌にも詠んだごとく、校正には大いに苦心した。《注:一八六頁は昭和4年8月》
四月 中旬京都、大和、伊勢を巡った。
修学院離宮、
   はる風に山のみ池の波ゆらぎ松山の日ざししみらにあかし
   天雲のしづくしたたり春蘭(しゆんらん)の花はにほふか松かげ道に
桂離宮懐古、
   しなざかる越の国宰(みこともち)歌巻(うたまき)をささげまつらくこの林泉(しま)の宮に
   万葉(よろづは)のめでたき巻をまきをさめおりたたしけむ木(こ)の下(もと)かここは
   老樹がもと色こき苔のうづだかしくれなゐを点ず落椿の花
奈良、
   鹿の子らいむれ遊べり春の日のなごやかにして馬酔木(あしび)花さき
   月しろきあしびが原をゆきゆけど古へ人は逢はずもあるか
法隆寺聖霊会、
   いかるがの堂塔伽藍荘厳(しやうごん)す天雲にちかく旛(はた)ひらめけり
   やごとなき御(み)輿の後に扈従してわが世がほなる白衣(びやくえ)の公人(くにん)
   裹頭(くわとう)せる蜂起の衆が高屐(たかあしだ)とどろとどろに石だたみ踏む
   銀(しろがね)の糸なす雨に緋の御袈裟ぬれてのぼらす高座(かうざ)の講師
   大き燭またたきにほふ光うけ陵王の衣(きぬ)のきらびやかなる
   いかるがの御寺うるほす法(のり)の雨にしめらひこもる梵唄(ぼんばい)のこゑ
   よき日今日会(ゑ)につらなりし結縁(けちえん)に散華の一つ拾ひてかへる
上市なる阪本邸にて、
   吉野川清き瀬のおと寧楽(なら)の世のうた人も聞きけむ聞きつつ眠る
   朝戸あくる目にまづ浮ぶ川をちの岡の中腹(なから)の一もとざくら
宮滝より大滝にゆくとて、
   奈良の世ゆ千とせを経たり吉野川たぎつ河内は春日しみらに
讃吉野歌、
   天つ神日本(やまと)の春をよそほふと花の吉野の山おきたまふ
阪本猷氏千代子ぬし夫妻と共に、苔清水の西行庵を訪うたに、向いの丘との間の杉の木が繁って、明治三十一年におとなうた時とは趣が変っておった。
山田の公会堂に、杵屋佐吉師一門の長唄演奏会に列なった。昨年の御遷宮奉仕について長唄を嘱されたので、「伊勢参宮(まゐり)」をものしたが、中に、江戸時代の参宮物の句をここかしこ襲用したので、終の二見の条に「今は昔の筆草を、かきあつめたる藻汐草」と唄の中にいいわけをしたことであった。
古今集選釈を明治書院から刊行した。さきに万葉集選釈、新古今集選釈を公にし、代表的歌集の三選釈の完成したことは喜ばしい。
心の花読者大会に「曙」を、
   神の国あきつ島やまとあけぼのの光の中にさくら花さく
   わが前にわが道はあり高き空に今あけぼのの光は匂ふ
国学院雑誌本居宣長生誕満二百年記念号に「鈴屋文庫と鈴屋書簡集」、国の花同記念号に「本居翁の伝記編纂事業」を寄せた。
原田嘉朝翁の葬儀に松阪に赴く。山室山に、また津なる谷川士清大人の墓に詣でた。
六月 福岡から上京された久保猪之吉君を中心として君の友小池重君の斡旋により、東京ステーションホテルで雅集が催された。あつまったのは、与謝野夫妻、尾上八郎、斎藤茂吉、金子薫園の諸氏で道の上の旧き友のみ、夏の夜のふくるをも忘れた。
<久保君を中心に 左から前列――斎藤、著者、久保、与謝野、小池君
 後列――尾上、与謝野、金子君>
七月 心の花に、華陽会から出された「華陽集」の杉栄三郎、二上兵治、西川義方、山川一郎君等の作品について、武井大助君が批評の文を寄せられた。
八月 国学院大学の万葉夏期講座に「万葉集を読む人の為に」を講じた。
三重県河原田なる森田いく女の碑文をしるした。
軽井沢に赴いて、
   落葉松(からまつ)の林の道に一人なりこの高原のあしたを愛す
   浅間は神にしませど底怒りうづき堪へがたみいぶくけぶりか
   すさまじく又山鳴(なり)す夢とだえて病む子思ひなづむ深夜(ふかよ)のしじま
   から松の並木下道とみにくらしささささともやの流るる音す
戸田茂睡について調ぶべく、佐久郡野沢なる並木氏にものした。
   佐久の平(だひら)ちくま岸田の水清み若苗の間を鯉あそぶなり
四日市より養老に遊び、京阪に赴いた。
この月より毎週一回、東京放送局より「万葉集講話」を十四回にわたって放送した。(十二月末終結。)
炎熱の日、日暮里より田端わたりを過ぎて、
   青空の下(もと)あへぎいきづくいかにか此の無数の人を飢ゑしめざらむ
十二月 先考四十年記念に、日本名筆全集の中に「短冊集」を公けにした。
大乗社主催の「九条夫人をしのぶ会」の為大阪に赴き、大阪公会堂に両日講演をした。会終って、海南下村博士の六甲の海南荘にものした。
   道白きやみ夜の林こわだかに語るあるじのあとにそひゆく
   朝山は松風早し吹きくだる風の下びのにはとりの声
   朝雲と山そば松とこの朝のこのしづ心たもちてあらむ

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