昭和六年 六十歳

一月「万葉秘林」十一種完成に対して、朝日新聞社より朝日賞を授与され、香取秀真君制作の鏡を贈られた。
   桜がもと小鳥うたへり生(いき)のきはみ心きよらにわが道ゆかむ
三月「扶桑珠宝」の印行が完成した。これは、正倉院御物のうちで、吾が上代文化の背景をなした典籍文書十種を南都秘笈、万葉の古鈔本等十一種を万葉秘林、国文学の研究資料十七種を芸帙(うんちつ)秘芳と名づけ、あわせて三十八種をいうのである。秘府に尚蔵せられ、或は個人が珍襲される古筆古典籍の類を複製し印行することは、現在及び将来の学界を益することが多いであろうと、御府及び王府の允許を忝うし、また諸家の快諾を得、帝国学士院の補助、森東京帝室博物館総長、上田万年博士の斡旋、橋本進吉吉田知光、田中親美君、並に、同志諸氏の協力をうけて、明治の末から昭和の初めにかけて印行した。その目録は次の通りである。

         南都秘笈

 聖武天皇宸翰雑集(正倉院御物)一軸   光明皇后御筆楽毅論(同上)一軸
 光明皇后御筆杜家立成(同上)一軸   詩序(同上)一軸
 隋経(聖語蔵御物)一帙   老子(同上)一軸
 蒙求(同上)一軸   南京遺文 一冊
 南京遺芳 一冊   天平余光 一帖

         万葉秘林

 桂本万葉集(御物)一軸   藍紙本万葉集 二軸
 金沢本万葉集(御物)一帖   天治本万葉集 一軸
 元暦万葉集(高松王府)六帖   元暦万葉集大成本 十五帖
 春日本万葉集残簡 一帖   類聚古集 十六冊
 古葉略類聚鈔 五冊   仙覚律師奏状 一軸
 桂の落葉 一軸

         芸帙秘芳

 野蹟秋萩歌巻(高松王府)一軸   御堂関白筆神楽和琴秘譜 一軸
 信義本神楽歌 一帖   重種本神楽歌 一帖
 宗尊親王筆催馬楽譜 一帖   権蹟倭漢朗詠集(御物)(粘葉)二帖
 権蹟倭漢朗詠集(御物)(巻子)二軸   権蹟白楽天詩巻(高松王府)一軸
 堀川左府筆七徳舞(御物)一帖   承徳本古謡集 一軸
 伝俊忠忠家筆亭子院歌合 一軸   一品経懐紙和歌 一帖
 定家手沢本西行上人歌集 一帖   定家筆更級日記(御物)一帖
 定家筆近代秀歌 一帖   定家所伝本金槐和歌集 一帖
 百代草 一帖

以上の中で、藍紙本万葉集は田中氏、元暦万葉集大成本は大阪朝日新聞社の出版であるが、解説は共に自分が書いた。また、漢籍の類の解説は専門の諸家の手をわずらわした。
三月八日、東京美術学校に於いて、完成記念の展覧会を催すことになった。十時に、東伏見大妃殿下が台臨あらせられ、陳列室で一つ一つ御説明をお聞きになった。
   浅茅原つばらつばらに国つ書(ふみ)宝の書をみそなはします
午後の講演は、新村、黒板、三上博士、徳富翁であった。自分は、「さ蕨のもえいづる春になりにけるかも」の歌を引いて、種々の困難を冒し、精進の行程を積んで、多年の大願を成し得た喜びの謝辞を述べた。午前には、朝日の村山社長が精しく陳列を見られ、午後には毎日の本山社長が、講演を初めから終まで聴いておられた。京都大学から沢瀉助教授、東北大学から村岡教授が上京された。
なお、その後つぎつぎに印行したもの十二種、都合五十種であるから、ここに掲げ添える。

         続扶桑珠宝

 嘉暦伝承本万葉集 一帖   伝壬生隆祐筆本万葉集 一帖
 奈良の落葉 一軸   万葉古筆集 一冊
 異本伊勢物語 一帖   万葉手鑑 一帙
 鏡草 一帖   伝公任筆和漢朗詠集 二軸
 伝俊頼筆古今集巻十三 一軸   西本願寺本万葉集 二十帖
 元永本古今集 二帖   父子草 一冊

このうちで、万葉古筆集は雄山閣、万葉手鑑は人文書院が出版した。
この月、東大文学部の講師を辞した。講義を継続すること二十有六年であった。明治三十八年の条に記したごとく{九六頁参照}かつ教えかつ学ぶのこころで講義につとめた。時々の旅行も多くは一週間で帰り、その翌日の講義の前五分間ぐらいを旅中で見た珍しい古典籍などに就いて語った、また試験の一週間前に問題数点を示して、当日教場でかいても、持って来てもよいとしておった。
   若人(わかうど)を友とし教へかつは学びはやも過ぎにしか二十(はたち)あまり六とせ
   わがさきはひ大いなるかな斯(こ)の道の栄ゆる春にあひにけらずや
最終の講義を了えて外に出ると、講堂の前なる公孫樹のもとで、学生諸子が記念の撮影をというに、
   大君の春さりきたる立ちつづく並木公孫樹のめぶく日近し
   若人のむねあたたかし春の日の公孫樹がもとに相並び立つ
撮影の位置を定めなどする間に、自動車幾台が塵をたてて走せ去った。
   これの世は塵はも繁き、吾ら胸にもたる真玉を清らにたもたむ
退職記念として、万葉に関する諸家の論文を請い、「万葉学論纂」を編した。その序文の一節に、「すぐれた古典文学は、一人の学者、一の方法によって研究し尽くされるものではなく、多くの学者の、分科的な多くの研究が綜合され、長い年月の研究を積んで、初めて完成さるべき性質のものである。従って、万葉は万葉だけで、一つの独立の学問を成すべきである、泰西に、沙翁学や、ファウスト学のあるというごとく、我が国においては、万葉学の確立せられねばならぬことを、自分は深く信ずるものである。この書が、万葉学集成の第一歩となる事が出来るならば、自分の喜、これに過ぐることはないのである。」と記した。
四月 バチェラー博士の養女八重子ぬしの歌集「若き同族(ウタリ)に」を竹柏会より出版した。アイヌ婦人の歌集としては初めてであろう。集中のアイヌ語には、金田一君が注解せられた。
   同族(ウタリ)のためそそぎし涙大地(おほつち)に玉とし凝りて光放たむ
五月 七日、宮中に召され、万葉集に就いて進講した。当日の光栄をしるした文詞を次に掲げる。
「侍従長に導かれて御学問所の廊に立ちぬ。芝生みどりなる前庭には、初夏の日の光あまねく輝き、西南の丘には、青葉が中に、紅の躑躅錦をよそへり。小雀(こがら)かとおぼしき鳥の声きこゆ。時まさに二時、両陛下出御あらせられ、二の間の御襖の前なる御椅子に著かせたまふ。御前に円き卓子あり。その前なる椅子を賜ふ。万葉集に就きて進講しまつること一時間十分。終りて茶菓を賜はる。内府の問に答ふること数分。やがて入御あらせらる。陪聴の人々は、内府、首相、皇后宮大夫、女官長をはじめ側近の人々なりき。御襖また壁上には、群れ飛べる燕を描き、欄間には浪を浮彫にせり。塗飾(よそほひ)めでたき太平楽の舞人の木彫、廊に近き台の上に置かれたり。今日の御進講のこと、万葉学の為にも亦光栄のきはみといひつべし。おもふに仙覚律師は、その万葉集の新点の後嵯峨上皇の叡覧に入り、賀茂真淵は、その万葉解の桜町上皇の御前に出でたるを、限なき道の光として伝へたり。契沖阿闍梨は、水戸義公の知遇を受けしも草庵に隠れ、鹿持雅澄は南海の辺陬にありて世を終りき。これらの大きなる先達の生涯に比して、あまりにもおほけなき光栄ならずや。しかもこは、ひとへに先達の恩顧によるに外ならず。今日五月七日は、陰暦と陽暦との相違はあれども、本居宣長翁生誕二百一年の日に当れり。翁の流れを汲める先人の学を承け継げる身として、感激胸に填ち、言はむすべを知らず。」
駒沢大学に和歌史を講じた。
三保・久能・興津に遊んだ。
   三保道は槙垣つづく、はつれはつれ見ゆる砂畑の豌豆の花(三保)
   松かげ道浜ひるがほの花さけり灯台は見えて砂地歩みにくし
   青海苔のまとふ粗朶垣(そだがき)波ゆれて入海の風すこしなぎたり
   磯波のおとゆるやかなり南うけし石垣は皆いちごの紅(苺栽培)
   狭(せば)き巣に頭を並べちさき口一ぱいにあけて餌を待てり雛は
         (茶店に燕の巣あり)
   つと入り来(き)つとはせ去れるつばくらめ幾たりの子の親はかなしき
   ますらをも幼子さびてにこやかに手にとり見けむこれの時計を
         (久能山宝物館枕時計)
   くだつ夜の枕べにしてほがらかに笑(ゑ)める面わを見しかも汝(なれ)は
   くだつ夜の枕べにして払ふとせしまぼろしの影を見しかも汝(なれ)は
   あけぼのの光ただよふ浜に立ち老女(おうな)合掌す大き日輪(興津)
さきに加藤光治君が、松戸からもて来て玄関前の庭に牡丹を植えられた。毎年うつくしく咲くので、景樹の日記にある伊丹の牡丹などの事を思うていたに、今年は特に美しかったので、牡丹の歌数首を得た。
   白(はく)牡丹この閑寂(しづか)なる大いさにむかふ吾が心つつましみをり
   午後になりて薄日いでたりさしかけたる傘の下に匂ふ紅(くれなゐ)の牡丹
   夕かげに光あかるし開ききれる牡丹の花のくれなゐの濃さ
   ひたおもに牡丹の花にむかひをり此の夕暮の心の明るさ
   くもり空ゆふ風とみに吹き出でたりあないたいたし牡丹のゆらぎ
   豊かにゑまひ足(た)らひしくれなゐの大き花びらもくづれにけりな
在京都の独逸人トラウツ君が遊びに来られた。
   門庭(かどには)の牡丹の花をまづ賞す君が日本語のほがらかなるも
女弟子のうち、文芸にたずさわっておられる人々(長谷川時雨、津軽照子、村岡花子、藤蔭静枝、森律子、木村富子ぬし)と、弥生町なる西川義方博士を招いてささやかな牡丹の宴を催した。
六月 さきに校本万葉集二十五冊を印行したが、爾来万葉学はとみに隆盛をきわめ、学界の需要が少くないので、その後の発見にかかるもの等の増補を加えた普及版十冊を岩波書店より刊行することとなった。(十冊は七年三月に完成した。)
四日市に赴き、光念寺を小杉に訪うた。中祖定政が、天文八年四月、織田信雄の臣として、滝川一益と北勢の残党を乗坂山に討った時、疝痛により、小杉陣営の地に病を養うたが、五月逝去した。従者の一人が後世を弔うと出家したので、佐々木の姓を与え、この寺を創立したのであった。《注:「乗坂山」は底本のまま。》
七月 京阪に文献をあさり、天の橋立に月明を賞し、舞鶴に細川幽斎の古今伝授の趾を訪うた。(天の橋立の風光については歌詞「帰らむとする浦島」をものした。)
文学創刊号に「心敬のささめごとの異本に就いて」を寄せた。
中村徳重郎君と東北の旅に赴き、東北遊草を得た。
   朝雲のひかり秋と著(しる)し阿武隈のつつみの道に草はむ仔馬
伊豆沼・厳美渓、
   大雨(たいう)の後沼まんまんと水充ちたり岸田に釣し舟に釣せる
   真青淵(まさをふち)日の照つよし岩くぼにしづかにゆらぐ水陽炎(みづかげろふ)は
金色堂にて、
   巻ばしら螺鈿ににほふ秋の日にゑまひかそけき十二光仏
   時うつり人亡び失(う)すいみじくも金色堂をいとなみにける
   これの堂のこらずありせば陸奥(みちのく)の押領使の名を今誰か知らむ
花巻温泉にやどる。
   山すそ路ねむの木多し朝もやの走るゆらぎに赤き花見ゆ
   きらきらし八尺(やさか)玉羽に朝光(あさかげ)うけ孔雀ゆるらに数歩を歩む(動物園)
奥入瀬・十和田湖、
   十和田の神の水海(みうみ)に詣でまく心きよむるみそぎ川かも
   たぎち流るしぶきの風にさし出(で)たる橡の葉ゆらぎ蝉が音ゆらぐ
   流にそひ渓わけきはめ大き湖(うみ)初(うひ)に見し人の驚異(おどろき)をおもふ
   朝されば雲を、夕されば星をやどし千年黙(もだ)ゐけむこれの山の湖(み)
   岬(みさき)まはり景(ながめ)かはりぬ湖岸(うみぎし)のさびたの花のしらじらと浮く
   あかき翼水にうつれり山毛欅(ぶな)の枝に南蛮鳥のとまりて久し
   水あまりに清きに過ぎて湖岸(うみぎし)にしづめる物みな白地(あからさま)なる
   桟橋の遊覧船の赤き旗もやにしめらひたそがれゆくも
湖畔の休み屋にやどる。
   八月の夕べを湖(うみ)の風つめたし大き火鉢に火を持ちてきぬ
   湖(うみ)の光いまだ暮れなく宿の男洋灯(ランプ)もて来て高くつりたり
   ざぶざぶと夜(よ)の湖岸(うみぎし)に音たてつつ童籠(かご)もちて小海老(さえび)すくひをる
   うつし世も生死(しやうじ)も知らず山の湖の朝もやの中にわが一人なる
   大き湖(うみ)はもやのいづこぞ見ゆるもの方数尺の水あるに過ぎず
   桟橋の板のしわるを踏みつつをり家鴨遠くへおよぎ去(い)にける
   朝日今し紺碧の湖に充ち足(た)らへり生(いき)の命を喜びわがをる
   いたどりの太茎(ふとぐき)折りて斯(か)くしつつ笛にはすると教ふる童
   童どちいたどり笛を吹き鳴(な)せばよき音はひびく真澄の湖に
和井内氏の伝をよみて、
   涙おつ千とせを魚のすまざりし山の湖(み)に魚を君すましめつ
秋田に平田先生の墓に詣づ。
   この丘に眠りはいませ天の下四方の国内(くぬち)に御霊やどりき
   遠つ海に夕日入らむとして此の丘の松のいく本金色(こんじき)なせり
小野川温泉にやどる。
   しろじろと花さきうかぶ宵暗の庭は一めんの月見ぐさの花
板谷(いたや)峠にて、
   穂薄もち童子(どうじ)あそべり初秋を日の光つよき板谷の峠
翁島なる高松宮御別邸にさぶらいて、
   のぼり立ち国見せすといふ磐梯(いははし)の明日の高嶺に雲なかかりそ
猪苗代村なる野口英世博士の生家にて、
   あまそそる磐梯山(いははしやま)にただむかふこれの草屋はよき人生みし
   みちのくは金色堂にたぐふべきこれの草屋ぞよき人生みし
東山温泉にやどる。
   欄にとどく老槻(つき)が枝(え)の葉のことごと風持ちゆらぐ夕片まけて
   のりこはき宿の浴衣のふところに袂に入りく夜の山風
   呼びとめて二階足迅(あしど)におりこし湯女(ゆな)百日草の鉢を買ひたり
   たそがれを隅の柱に身をよせて緋鯉みる若き湯女が横顔
   真鯉ひごひ輪をなす池に山寄りの高き座敷の灯(ひ)がうつるなり
中村徳重郎君に、
   旅の八日明日は別れむ友と酌(く)む酒ほろにがき夕べなりけり
この月、軽井沢、京阪、松阪、鼓が浦にものし、沼津に下車した。米山梅吉君に迎えられ、下土狩(しもとかり)なる君の八十八山荘の庭に咲いた竜舌蘭の珍しい花を見、三島神社に詣でたに、宝物館に、遠州見付の画家久保井華畦のえがいた田祭の額が掲げてあった。かつて東海道名所図会で、三島祭の画を見た記憶が浮び出たので、祢宜神麻新六君に逢うて、田奈の歌の有無を問うたところ、有るとのことで、「田祭の次第」一冊を示された。歌詞もおもしろく次第もおもしろいので、書写をお頼みした。此度の小旅行最後のありがたい収穫であった。{歌謡の研究二二〇頁参照}
この月より十一月にわたり十一回、高松宮妃殿下に万葉集について講じた。
十月 改造社の嘱により土岐善麿氏と共に短歌講座を立案し、その第一巻に「日本短歌史」を執筆した。
石薬師に先人碑前祭にものした。第一日は四日市で歌会、南は志摩、西は伊賀から三十余人のつどい。第二日は采女の杖衝坂を歩みのぼり、国分寺の跡を訪い、午後二時碑前祭講話、六時半四日市図書館で「伊勢国の生める三大国学者に就いて」(谷川士清、鈴屋翁、橘守部)講演、翌日市立高等女学校で、「現代女性の修養と趣味の涵養」について語った。午後亀山女子師範学校で「伊勢の生めるすぐれた女性四人について」(三重の采女、慶光院、宣長翁の母刀自、慶徳麗女)話し、能褒野御陵に参拝し、武備神社に詣で、夜ふけて四日市より帰京の途についた。
徳富蘇峰翁古稀祝賀記念の知友新稿に「万葉人と植物」を寄稿した。

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