昭和八年 六十二歳

一月 心の花に、「竹柏園歌話」を掲げた。
書庫「万葉蔵」が成り、西園寺公執筆、香取秀真君鋳刻の額を掲げた。
二月 春陽堂の万葉集講座を監修した、一巻に「高橋虫麿」を寄稿した。
東京放送局で、「上代文学に現われたる女性」、「万葉集に現われたる女性」を二回講じた。
名古屋の集会に赴いたおり、木曽川の四季の里に遊び「鴉と童子」(連作)を詠じた。
   青ぢくの梅の莟(つぼみ)のふふみてあり木(こ)かげにのぞむ大木曽の河原
   ひむがしに流かたよりひろびろし河原はただに真白砂原
   二月の陽(ひ)あたたかにして砂原の遠(をち)にかそかにもゆるかげろふ
   一つ来り又ひとつ来り点々と砂上(さじやう)に点ず四つ五つの鴉
   じっとして動かぬ鴉すな原に己(し)がかける画を楽しぶごとし
   堤おりし二人(ににん)の童子(どうじ)鴉追ふと走せゆきはすれ広き砂原
   立ちとまり手にせし砂をほうりたれそが足もとに光りつつ散る
長良川ホテルで、
   ほだされぬ今日の一日(ひとひ)の旅人のしづけき胸にしみ入る瀬の音(と)
   新聞を一日(ひとひ)手にせず心ふと国際聯盟のうごきをおもふ
   早瀬の浪さやぎさわめき来(き)と来(き)ては平瀬(ひらせ)の浪と歩みゆるらに
   窓おせば夜(よる)の流の瀬の音(と)ひくし千鳥をりをりに声まじへ鳴く
   いなば山やま松あかう日いづれば片淵の浪よろこびをどる
四月 心の花に、「短歌主情説」を掲げた。
文部省より、重要美術品等調査委員会委員を嘱託せられた。
万葉集講座二巻に「万葉集研究史」を寄せた。
京都に原田積善会の一行と共にものし、賀茂川のほとりに宿った。印東昌綱君と同室である。
   おのがじしの家に住み離れはらからの四十年に近し同じ室(へや)に寐(ぬ)る
   水のおと枕を流るはらからの語りいづるは遠き思ひ出
   朝川の中洲の草の緑ふみ川原つぐみの鳴くしきりなり
   ひと夜に花ひらきたり川をちの柳にまじる一もとざくら
竜安寺の庭にて、
   一草(いつさう)なく一木(いちぼく)あらず砂庭にたけ高からぬ十まりの石
   十まりの石一つ一つ布置(おきど)よく己(し)がありどにぞ置かれてありける
   春の雨砂庭にしみてひそやかなりぬれ光る石に吾がむかひをる
   いにしへの人の心のしづけさの此のしづかなる庭をぞつくりし
醍醐寺に赴いた。山路にかかるに、なにがし村に通うという里道がある。
   黄なる布角(つの)にまきたる黒牛の大いなるかも若葉道を来(く)る
   山路ややにさかしうなれり昼近き日の光つよく芽ばる木のにほひ
鐘楼にて、
   鐘のおと殷(いん)々として老杉の繁(し)み立つ谷にひびきわたるも
五月 「改造」に掲げた劇「静」が歌舞伎座に上演された。前々月歌舞伎座にいった折、卓を共にした某君から、五代目(歌右衛門君)は身体が不自由になり、それにふさわしい脚本が無くて困っておるとの話を聞き、自分は、静のこれこれの場面ならば、身体(からだ)を動かさないでもよい、というたに、数日後、五代目の使が来て、その静の執筆をとの依頼であった。自分は、歌劇ならば、二三作り試みたいという案を胸に懐いておるが、戯曲に筆を染めることはと断った。ところが、重ねての切なる請に、東鑑、義経記、頼朝の頃の童謡を掲げてある徒然草野槌などを携えて、ゆかりの地鎌倉大町の村荘にものし、数日こもってかき了え、それが上演されたのであった。一生にただ一回の作劇であったが、静は五代目、西行は吉右衛門丈、名優によっての名演が喜ばしかった。
京都帝大に講師として万葉集を講じた。
九条山なる独人トラウツ君夫妻の案内で、石山の幻住庵に遊んだ。トラウツ君は、幻住庵記の独訳をものされた芭蕉研究家である。
大和に赴いて、辰巳利文君の案内で、畝傍山にのぼった。
   かしこきやうねびの山のいただきの藤の盛に我(わが)あひにける
   山の上に立ちてわがみるふるさとの飛鳥藤原春日霧(き)らへり
   軽の地光りて遠しうねびのや山の上(へ)にのぞむ大和国原
沢庵和尚が羽前上の城の春雨庵に謫居せられた時、つくられた謡曲の一篇がある。その自筆の幅を益田孝翁から贈られた梅若六郎師は「最上川」と名づけて節附を施し、舞の形をも附け、自ら書いて一冊とし、人々に頒たれた。序詞をと請わるるままに一篇をおくった。
七月 日本歌人協会に講話をした。
万葉集講座四巻に「万葉風歌人概説」を掲げた。
八月 文学に「賀茂真淵の笠置山の長歌」を寄せた。
仙石原の仙郷楼に滞在して「仙石原の歌」数十首を得た。ここにその七首を掲げる。
   灯火管制の都出で来て仙石の此の高原のしづけさにをる
   子ら棹さすに舟くるくるとまはるなり青葉が底の池広からず(庭池)
   光り照りかげり曇らひ日と雲と山の上にして遊ぶがごとし
   山にありて山の心となりけらしあしたの雲に心はまじる
   山空はいまだあかるし木(こ)がくりの黒つぐみの声すみとほり聞ゆ
   遠木欅(とほぶな)の林と近き槻群(つきむら)とい行きかへらふ夕ほととぎす
   山めぐらふ緑の盆地みづうみあせ草おひ木おひ人すみけらし
九月 文学に「ひたぶる心」を寄せた。
美濃に遊び、土田(どた)の三瀬岩の上で月を眺めた。
   大木曽は早瀬八十あり可児合(かにがふ)の荒瀬に月の砕くるを見し
   月は空に流はたぎつうつそみの人なる我や岩の上にをる
   夜風いよよ吹きまさり、月、いよよ澄みて荒瀬のたぎちとよみ高しも
山田三秋君の案内で、若き頃その和詩を喜び読んだ獅子庵支考の旧庵、また、惟然坊の旧蹟等々を訪い、「北美濃の一日」の文をかいた。
牧野英一、橋本、武田、久松、藤田徳太郎君、津軽照子夫人を招いて、「万葉集の夕べ」の集いを催した。当夜の談話記事は、「婦人之友」十月号に掲げた。
十月 西本願寺本万葉集廿巻の印行成れるを喜びて、
   よろづ葉の繁樹(しげき)がもとに嬉しわれ一つの石をすゑをへぬ今日
上代文学講座に「琴歌譜について」、日本文学講座に「日本文学の文献学的研究法」を寄せた。
奥多摩に遊んで、
   山荘の露台(ろだい)にせまる高き木の梢(うれ)しろじろと月はのぼれり
   瀬の音(と)きよく月かたぶきぬ寂光(じやくくわう)の中にわがあることのかしこさ
   月雲に隠ろひにたり目とぢゐて悲しき夢をみつるものかな
   渓深くこもらふ水の底ごころたぎつ思のなしといはなくに
箱根に赴いて、
   心きよく一日事なし白雲はむかひの嶺にしづみ眠れり
   山の上に秋の白雲あそぶなり人なる吾しうたた寂しも
十一月 京都帝大に講義に赴き、同大学国文学会、及び、奈良女高師佐保会、奈良師範に講演をした。
大和懐古作。
   雑木木立うす紅葉せり秋の日の光しみらなる薬師寺の道
   もやしろし老杉がもとを吾が憶良狭野のをとめと語りつつや来(く)る
   人の世は千とせを過ぎぬ春日山をのへにうかぶ秋の白雲
十二月 宮内省の公余会に講じた。

    昭和九年 六十三歳

一月 旧臘、皇太子殿下が御降誕あらせられた。
   ほがらほがら豊さかのぼる朝日子の光の中に皇子生(あ)れましつ
   あらしほの汐の八百合(あひ)の音ゆたに喜のせてよき春来る
   光の皇子われらの皇子の御(おん)よはひ二歳(ふたつ)の春のよき春は来(こ)し
   言霊のさきはふ国の言(こと)以ちて言ほぎまつる大御さかえを
「奉祝慶賀の歌について」を放送した。
岐阜及び京都に赴いた。雪の長良川にて、
   川原風さと吹き立ちて山の木々の雪の花びら散りみだるなり
   雪の夜のしづけさにひたるひた心ゆり驚かしおつる雪の音
   一しきりちりぼひし雪いつか止みて消えし薄ら日又さしくなり
   窓あけて手とどく雪に触れて見つ未だくもれる空の寂しさ
   一昨日(をとつひ)の雪いまだ白き川原なり川をちの多度も伊吹も白し
二月 史学会に、「万葉集の古文献について」を述べた。
三月 安藤野雁生誕百廿年祭に「長歌歌人としての野雁」を講演、「野雁の人と歌」を放送した。
四月 大阪における心の花の文芸講演会は、加藤順三、川田順、江崎政忠氏、来阪された石榑千亦氏と自分との講話で賑わしかった。
さきに校歌を作った北野中学校に講話を述べた。淀川の夜舟にのり合せた昔人の二つの詩、一は常盤大定博士から、一は亡き父から聞いた話と、契沖とについて若い生徒諸氏の胸に残れと話した。{八稜七十九号に掲げてある。}
京都に、山川幸子ぬしに招かれて吉沢義則博士と共に清滝川にいった。
   たえまなくぶつかる水の勢に此の大き岩は堪へてゐるなり
   川中の大き一つ岩かしこみと二つにわれて水たぎち下る
   川浪のたぎちにおこる風うけて岩の上(へ)の草さゆらぎやまず
彦根にて、
   山の上(へ)の古城(こじやう)の欄によりて見る春の日ひたす大き湖
岐阜市より九里半、越前境に近い根尾谷に淡墨桜を見た。幹回三丈九尺、枝は南北に張ること二十八間、樹齢千四百年という老樹である。
   家あれば畑に柿あり枝々の新(にひめ)芽めでたき本巣(もとす)の郡(途上)
   さきだちて犬が引きゆく柴車柴の上(へ)にあかき石南花一枝
   春すでに暮れむとするを国境(こくきやう)の高嶺は白し雪いただけり
   山深み花の心も静かにして千年の春を咲きつつ散りけむ
谷汲に詣でて、
   まうのぼる谷汲の山華厳寺は春深くして落花おびただし
   門に記(しる)せる立春大吉摩訶吉祥かたはらに匂ふ石南花の鉢
帰途、
   いなば山いただきの高城(たかき)壁白う夕日ににほふ、長き日も暮れし
五月 日本学術振興会学術部第十七小委員会委員を嘱託せられた。かねて志していた英訳万葉集の事業が成立ったのである。
日本大学の上代文学研究会に、「万葉集伝来の歴史」を講じた。
早旦、東海寺に牡丹を見めでて、
   朝のひかり園の牡丹に流れたりややややに開くふふめりし花の
   くれなゐの大き花びらにくくもれる露きらきらし朝日かがよひ
   心ただに牡丹の花にもはらなり黙雷室のしづけさにゐて
鉄道沿線の高みなる賀茂翁の墓に詣でて、
   国つ意(こころ)したおもひつつこれの世のさわがしき音ききいますらむ
六月 東郷元帥挽歌、
   天地(あめつち)日月の共(むた)大き洋(うみ)の大きいさをはかがやきとほる
   青葉ぐもる六月の空雲ひくしますらたけをを天(あめ)もいためり
木下利玄、新井洸、二君の十年祭が富岡八幡宮参集所で行われ、間島斎主の祭文、有島生馬君、予及び石榑君等の追憶談もしめやかであった。
日本精神文化大系を監修した。
七月 帝国学士院会員に任命を蒙った。陳思三章。
   このわが道い行きすすまむ大君の御言の幸(さき)をかしこみ負ひて
   万葉(よろづは)の道の八十隈ゆき行かむ岩根木根立(きねたち)こごしくありとも
   大地(おほつち)はきはみなしとふ一あゆみ一あゆみ吾が踏みしめゆかむ
八月 成田の新更会夏季大学に講じ、帰途銚子に遊んだ。
日本大学万葉講習会に講じた。
国語と国文学に「竹柏会とその成立」を掲げた。
中国から来られた周作人氏を招き、小宴を催した。周氏は日本の上代文学と近代文学に精しいと聞いて、武田祐吉、塩田良平、藤田徳太郎、神崎清氏等と、山本改造社長を招いた。心の花十月号に写真を掲げた。
箱根仙石原に家族を伴い滞在した。
   一ところ青山の崩(くえ)を目ざとに見幼きはゑがく山ひだを黄に
蒲郡に遊び、竹島にて、
   此の島をよろしみと、竹、二もとを持ち来植ゑしとふ俊成の卿
伊良湖崎にて、
   ねもころに吾を導くいらご人磯丸の家は、墓はと語る
   袴はける村長(そんちやう)さまの案内(あない)するに村の子らつきく砂ぼこ道を
   へちま棚青きに隣り金網のうちに住みあまる白き鶏
   髪あかきいらご少女が手にもたる甘蔗(さとう)きびのぢくの甘くやあらむ
   まさを空白雲ひくく散らばりていらごが崎は秋来る迅(と)し
浜松に中村家を訪い、中村陸平翁小山正君らと一宮小国神社に詣で、小国重年の遺著について探った。
   宮代の神山浄(きよ)くしづかにして若くまめやかなる重年を生みし
磐田原にて、
   広原の唯にはろばろに真青(まさを)なり山に行く道の一筋はある
   山路に入り冷々(ひえびえ)しもよ高原の草のいきれを歩みも来(こ)しか
   長かりし山路のさびしさ山路すぎて見出でたる家の更に寂しさ
   村祭大きのぼりのくくり猿ま赤き顔も暑き昼なり
天竜川にて、
   山々尽き今平原(いまへいげん)を流るる水迫りし心ゆるやかなるべし
池田の宿に湯谷(ゆや)の塚に詣でて、
   老いし胸に地主権現の花の春思ひ浮べつつしづかに逝(ゆ)きけむ
九月 京都にいった。台風の後である。清水寺で、
   倒れ木の大き松ひく大鋸屑(おがくづ)の香のこぼれ散るも寂しき真昼
   筧の音ほとほとひびく僧房に月照の詠みし歌ぬきがきす
霧の愛宕山で、
   登りのぼるケーブルカーの窓にせまり左右(さう)の傾斜(なだり)の薄は高し
   わが頰につめたうあたる霧雨の見る見るしげく雫となれり
   み山霧風にちりばふ麓路に苗代ぐみは色まあかしも
土器投げに興じて、
   小鳥如(な)し遠々にいにしかはらけは垂直に落つ狭霧の谷に
高楠順次郎博士と合著で「散華法楽集」を印行した。
十月 神武天皇御東遷二千六百年記念祭に、宮崎市より招かれて赴いた。
   山きよみ海あをき国上つ代の語りごとの国古塚の国
公会堂で、「神武天皇と明治天皇の御製」を講じ、高等女学校で「三つの土産(つと)」を述べた。
美弥津(みみつ)にあること半日、神武天皇御船出の歌詞を推敲した。かの「海ゆかば」の言立(ことだて)は、御船出のおりに歌ったものであろうとかねて考えていたので、
   海ゆかば水(み)づくかばねと言出(ことだて)し御船漕ぎ出(で)けむこれの美弥津を
   御船なべ船出しましけむ遠つ代の朝の日を思ふ光れる海に
   川口の瀬折(せをり)の浪のゆれかさなりゆるる小舟に美弥(みみ)川わたる
永田青嵐君と同行して、鵜戸神宮に詣でた。神官のもって来た湯に口をすすぎ、紙を下にすてると、沢山の紙がちらばり飛んできた。驚いてみると、日向灘からうちあげる潮泡のかたまりであった。
   断崖(きりぎし)ゆうちあげうちあぐる潮泡(しほなわ)の凝りて散りばふ鵜戸の神(かむ)宮
十一月 近世日本国民史五十巻刊行披露会の為に「讃蘇峰先生歌」をものした。
月末に武田君や弘文堂の人々と共に修善寺に遊んだ。
   この幾日校正につぐ校正に疲れたる身をいで湯にひたる
   こもりゐの征夷大将軍あき風の落葉の苑にながめけむ山
湯が島に赴く途上にて、
   時雨日の天城はみえず道山のぬれうるほへるもみぢ葉をめづ
十二月 さきに十月に、一水、華陽、新月、日本、四つの会の同人が、学士院会員になった賀会を紅葉館で開かれたが、この月二日、若い学者の人々の発起で、山水楼で盛んな賀宴が開かれた。人々の好意に報いるため、当日の午前に印行の成った「増訂賀茂真淵と本居宣長」を贈った。
心の花に「石川啄木と心の花」、日本文学講座に「中世歌人の研究」を寄せた。

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