昭和十年 六十四歳

一月 伊勢、京阪に赴いた。
   山の上に青き灯は見ゆ吾が汽車(くるま)ぬばたまの夜の伊賀路を走る
   正月の五日の昼の真澄空むらさき深しわが鈴鹿嶺は
   大津牛はつ春なれば角(つの)まきの真赤き布に湖(うみ)の日は映ゆ(大津)
   町はづれ家裏(やうら)は細江入りこみて小舟すててあり岸に青き草
   湖(うみ)岸に鳰うかびをり比叡の嶺(ね)はよき形して吾にむかへる
帰途、長良川ホテルに宿り、山下鵜匠頭の家を訪うて、鵜について委しく聞き、「雪の長良川」を二月の中央公論に寄せた。
文部省社会教育局内二十日会の為に講じた。
三月 チェンバレン先生が、去月ゼネヴァに於いて永眠せられたことは、哀悼に堪えなかった。追悼記念講演会が、国際文化振興会により、明治生命会館講堂に盛大に催された。広田外相、クライブ英国大使、長与東大総長等の追悼の辞、つづいて諸家の講演があり、自分も「人としてのチェンバレン先生」を述べた。なお、自分が依嘱せられてかいた先生の小伝が配附せられた。国語と国文学は四月号を追悼号、心の花は記念集とした。
三月 国際連盟脱退の日、
   百千国前に立つとも我が皇国(みくに)正道(まさみち)ゆくを誰か留めむ
四月 満洲国皇帝御来訪の日、升允氏の「老臣猶在此幼主竟何如倘射上林雁或逢蘇武書」の幅をかかげて、
  「老臣猶此(ここ)に在り幼主竟(つひ)に如何」と 升允先生の言(こと)のかなしさ
   たふとし人の至誠(まこと) 至誠凝りこをろこをろに成り出でし詩歌(うた)
豊橋、名古屋に古書を探り、岡崎に浄瑠璃御前の墓に詣でた。
田中光顕翁から、さきに佐々木高頼の短冊を、こたび、菊桐記号のある脇差を贈られた。それは、後土御門天皇晏駕の後、観音寺城主高頼、宮廷にささげ物せしをめでさせ給い、菊桐記号及び、後光厳院御筆三略拠抄を賜い、昇殿を聴し給うたによってのものである。その夜、客を招いて、
   灯に映えて光めでたし白銀(しろがね)の地(ぢ)に浮彫(うきぼり)の菊桐と四目(よつめ)と
七月 立命館文学に「富士谷御杖の著書二部について」を寄せた。
金沢市に古書を調査する為に、藤田徳太郎君と同行して本多家の松風閣にいった。
   明け放てる書院の前の庭ひろらに林泉(しま)の老樹をとほりくる風
夜、鍔甚亭招宴、江戸さい子刀自が同席せられた。
   犀川の高処(たかど)の夏の夜のかぜ百万石の風といひつべし
   ちぶちぶと飲みての栄(えま)が酔がたり吹きなさましそ夜の川風
帰さ、山中温泉に宿った。
   声ひきつつ夜川のやみにうたふ河鹿(かじか)わが声をわれと楽しぶごとし
   窓掛ひきがらす戸ひけば蚊帳の上に夜をゐし蟬かにげていにけり
   杉群の秀(ほ)つ枝(え)中つ枝下(しづ)枝おり来(き)日光(ひかげ)は今し水に及べり
   遠く去る雲言葉なしあふぎ見る石ことばなしただに石と雲と
   山は水に臨みてぞよき水は山に相たぐひてよし此の山と水と
   岩の上(へ)を飛びとぶとんぼ遠くゆかず目まぐるしくも暑き真昼なり
黒谷川を船で下って、
   水底の石ことごとく玉に似たり夕渓川を舟さしくだす
   のぞき箱に水面(みのも)のぞきてごりとる児夕峡水は冷たくあらむを
九谷焼の清々軒にて、
   黙然と上画(うはゑ)かく老翁(をぢ)己(し)が心にかなふ幾つを汝(な)が生(よ)には成せる
関が原に下車して、不破の関の趾と慶長の戦の跡とを見た。
   指ざす彼方は大谷刑部の陣、旗さしものが目に動き見ゆ
八月 大和国史会の嘱により、畝傍山下の建国会館に講じた。
   高々に干瓢ほせる家つづき葛城の峯に雲の峯立つ
   切妻の家の棟ならぶ丘の村かぜに色ある七夕の竹
嶋の庄村に大いなる古墳あり、石舞台という。
   玄室のうち広らなり説き示す若き学者の声ひびきとほる
   千曳岩ひき来(き)きづきし石室はとこしへにあれどあるじ知らえず
十月 「上代文学史」上巻(下巻は十一年八月に)、「国文学の文献学的研究」を出版した
明治文学会の山田美妙記念会、伊勢新聞の「伊勢の夕べ」、日本作歌者協会の歌謡講演会に講じた。
十一月 伊勢亀山、伊賀上野に講話。香落渓に遊び、大阪心の花関西大会及び紫会に出席した。
広島に着いた朝、大本営を拝観した。{拝観の記は心の花十三年四月号に掲げた。}広島文理科大学に臨時講師として九日間、午前に万葉集を講じ、午後に同大学の公開講演会、広島師範学校、同地の歌会、呉高等女学校に於いて講演した。
十二月 大阪に国文研究会の公開講演に赴き、帰途京都に、大沢忍博士等の案内で、芦庵、景樹、蓮月の遺跡を訪うた。

    昭和十一年 六十五歳

一月 心の花に「四百五十号の巻頭に」の文、第一巻以後の表紙画十一種を掲げた。
備中における木下利玄君歌碑の背記をものした。
二月 文部省主催家庭教育指導者講習会に「家庭と和歌」を講じた。
つごもりの日、
   聞く事ごとうれはしき事雪の日のおもき心に暮れもてゆくなり
   御民吾ら心つつしみ此の幾日の不安を二度(ふたたび)あらしむべからず
四月 やんごとなきわたりの仰によりて、皇太子殿下御生誕奉祝の歌を、御屏風の料の短冊に謹書した。
伊勢に赴き、河原田、四日市の歌会に列なり、三重県立農学校、同工業学校等に講話をし、朝熊山にのぼり、紀伊に入って藤白に万葉の古蹟を訪い、和歌山の歓迎会では、花田比露思君をはじめ、人々の出陳せられたものを見るを得た。また、和歌の浦には毎年十二月、今も鶴が来る。ある年干潟におりて餌をあさっておる数を数えたに、五十八羽おったと、観光課の人が話されるのを聞いた。
五月 石井白村君の案内で、新村博士と共に粕壁に藤を観た。
   春日部の臣の処女の霊(たま)ごもる藤かづらかも千年にほへる
   藤かづらしなひ咲き満つ万ふさ東(あづま)の国を紫に染む
六月 武蔵幸手に守部公園を訪い、小学校に話をした。
七月 尚文子さんが歌集「中城さうし」を出されたので、尚家に招かれて、金武良仁・良筆父子の琉球の音曲を聴いた。
   青葉の窓かぎやて風節(ぶし)のゆるらなるしらべはゆるる青葉の風に
八月 水戸市なる国学院学友会の為に水戸高女講堂で、「万葉学史における西山公と契沖阿闍梨の功績」について講じた。一般の聴衆より一段高い座席に老刀自がおられた。後に聞いたに東湖先生の孫のかたであるとのこと。
大洗にやどった。斎藤瀏君を思うて、
   大き海の朝(あした)の渚あゆみつつ思ふに堪へずこもりゐ人を
帰途、笠間に藤原時朝の墓に詣でた。信生(しんしやう)法師日記の作者塩谷朝業(ともなり)の子であるから、寺院に何か残っていはせずやと訪うたのであった。
山中湖ホテルに宿り、朝とく蘇峰翁の案内にて双宜園にいった。
   先生の歩み迅(と)し、朝の露しげき木立が中の火山灰の道を
   流あり橋ありきと杖もて砂の上にかき示さるる大江義塾の図
   人間われあやまちてか来し朝鳥群わがものと領じうたふ林に
河口湖畔のホテルにて、
   ふりむきて物いひし間に富士が嶺(ね)の今見し雲はありどかはりし
   此の朝のかくも晴れたるよき富士を富士ともいはず箒もたる女
   言葉なき教かしこみ神富士の裾野の郷(さと)に三日(みか)をありける
帰途、須走附近にて、
   わさび沢段(きだ)なし落つる谷水のささやかにして音のさやけさ
軽井沢滞在中、米山梅吉、大島景雅二氏と、追分の脇本陣に伝来の遺品を見、上田にいで、別所に湯あみ、国分寺を訪うた一日と、米山君、白滝画伯と碓氷嶺にいたり、転じて鬼の押出から北軽井沢に遊んだ半日とは、三伏の暑さも忘れて楽しかった。
   顔なじみの仏蘭西人の子草原の朝露原を驢鳥に乗りて来(く)る
   林の道のぼりもてゆけば白樺の木群(こむら)多くなれり土当帰(ししうど)の白く
   楡の大樹繁(し)み立つ蔭をのそりと来(こ)し野羊(やぎ)の翁がとぼけたる顔
十月 神戸にいたり、捕鯨工船日新丸に、従弟岡元管太郎船長の南極行の壮挙を餞する歌を詠じた。
   君が行(ゆき)とほくはろけし鴎まふ船窓によりて盃を挙ぐ
   極光(オーロラ)のかがよひにほふ海の真夜は吾が船長(せんちやう)も歌人(うたびと)たらむ
   しろがねの吹雪の海に勇(いす)くはし勇魚(いさな)追ふらむますらをの輩(とも)
   百(もも)の勇魚(いさな)きほひふく潮(うしほ)金色(こんじき)の柱なすとふ極南の真日に
山田に、神宮皇学館の会に披講の式について講じた。(ラジオで放送された。)
十一月 香川県に赴いた。高松の栗林公園にて、
   投げし麩の一つを囲みかたまり寄りおしこりおしもみ鯉の上に鯉
屋島にのぼり志度にいたり、多和文庫に古書を探った。
   志度(しど)の海夕日うすづけり古き香に心ひたりて文庫(ふぐら)いづれば
高松に帰って中河与一君の案内で、沙弥島(しやみじま)における人丸記念碑(川田順君執筆)の除幕式に列した。川田君、前川君、中河夫人、ごぎやうの同人はさきに本島に、予と中河君とは再び坂手に戻り、鎌田共済会の社会教育館にて、「万葉学の流布と沙弥の島」について講じ、夜ふけて県庁からの巡航船に乗って本島にものした。
   玉藻よしさぬきの海月夜よし光の海をわが船はゆく
この夜の感興を「塩鮑の海の月夜」という一文に草した。{文集四二〇頁に掲げた。}
朝、一行と島山の頂に登る。萩原朔太郎君と予とが殿(しんがり)である。
   松の枝(えだ)につかまりのぼる砂山道枯松葉たまる友の帽にわが肩に
広島文理科大学に、臨時講師として赴いた。毎日、上代の歌謡を午前に講演、午後は岩国、呉、音戸の瀬戸、竹原等にものした。講演の期間を了えて防府市にいで、野村望東尼の墓を弔い、石見に入って、多年参拝を希うていた高津町の柿本神社に詣で、東京から携え来た常徳院義尚公自賛の歌聖像を献納し、益田町に画聖雪舟の造ったという古寺の庭園の紅葉を賞で、出雲路ではまず出雲大社に参拝した。大社では、幕末の頃亡父が伊勢に在って編纂した千船集に歌を寄せられ、竹柏園の扁額をも書いておくられた千家尊孫国造をお偲びし、松江に着き、皆美館に宿った。
   月夜ふけぬ八雲の文(ふみ)に聞きし音、松江大橋を渡りゆく音
朝とく熊野神社、八重垣神社に詣で、佐々木高綱の墓、乃木将軍の記念の塚に参り、千鳥城にものぼって、島根県教育会に「出雲石見と近世の国文学」について講演、県及び市の人々に案内せられて小泉八雲の旧居や、菅田庵を訪い、嵩山(たけやま)に登った。
   出雲に景観(ながめ)八十(やそ)ありそが一(いち)の嵩の尾上に夕日を吾が見つ
その夜、知事は上京中とて、県の四部長、観光課長に招かれて湖畔の旗亭に語らい、ことさらに小舟に乗り、皆美館に帰るとて、宍道湖舟中月下賦を得た。
   夜(よ)の湖(うみ)のありなし風に湖(うみ)岸の芦の穂雪とちる月夜なり
   舟静かに岸を離れぬかそかにも鳴くは蟋蟀(こほろぎ)か芦むらかげに
   湖の上(へ)にただよふ月をうつくしみ手ひたせば手に玉藻は触れぬ
   舟、湖心に、月、天心(てんしん)に、人の世は二千里の外にあるがにおぼゆ
   月の夜舟さ夜は明くとも、生(いき)の世に幾度(いくたび)か斯かる良き夜に会はむ
   月ややに西に流れてひろびろし湖の面(も)は全(また)く月の国なり
   吾が舟の行(ゆき)のまにまに靄退(しぞ)きしらじらとして月夜ふけたり
美保(みほの)関にものして隠岐の国をしのび、神社の古筆手鑑に三十六人集切の一葉のあるを見いでた。伯耆米子にいたり、女学校に講演、今井氏の客となり、皆生(かいふ)温泉に宿った。舞鶴に古今伝授の蹟を訪い、新舞鶴に朝永家を訪うた。
さきに、石薬師村石薬師文庫維持並びに充実のため金員書籍を寄附せしにより、賞勲局より表彰状をおくられた。
十二月 東京帝大国文談話会に「昭和十、十一年度における国文学文献の発見について」を講じた。
米国向け海外放送として、NHKより「日本の国民詩としての短歌について」を放送した。次に、小畑薫良君の英訳が放送された。{文集二八三頁及び巻末一頁参照}

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