昭和十二年 六十六歳

一月 宮中鳳凰の間にさぶらいて、
   内つ御苑風やはらかに老(おい)梅の花かげにして遊べる雉子(きぎす)
   木(こ)の下(もと)にはつはつ残る雪清し老(おい)樹の梅の花ゆたかなる
アレキサンダー夫人の母の会に、米国婦人の為に「短歌に就いて」を講じた。
熱海にて、
   場末の町正月気分なほ残りて夕風にゆらぐ店々の旗
二月 心の花を発行して四十年を迎えた。
   四十年をあゆみは来しかとこしへにつららく道の数歩(すうほ)に過ぎず
英訳万葉集委員会の日、
   言葉つよくいひ争ふも一言にこもる命をいとほしむなり
四月 志摩に赴き、酒井秀夫君と鳥羽真珠が島に遊んだ。海女の作業を見て、
   をどり入りし波のゆらぎの白きゆれ見る見る見えずただ真蒼(まさを)浪
   浮き出でてふく口笛の磯なげき海しづかなれば遠けれど聞ゆ
         (口笛を磯なげきといふ)
海女の語るを聞いて、
   志摩の国たふしの嶋の波に生れ波と遊びてひととなりにし
   楽しきは海の国なり波風のあらあらしきは人の国なる
鳥羽より船にて二見に向うとて、
   おもむろに入(いれ)の風ふきほのがすむ嶋々の間(ま)の鯛つり小舟
   飛島(とびしま)の七つ小嶋に夕日はえ今ひきしほの汐の流迅(と)し
   西風(にし)吹けば船人(ふなど)恐(かしこ)む神崎(かうざき)の岩が根雑木(ざふき)よぢれ丈(たけ)のびず
松阪なる原田嘉朝翁の墓前祭に、積善会の人々と共に詣でた。鈴屋旧宅の門前で、同行されたシュプランガー教授に、
   やまと心桜さきみてり神風の伊勢の松阪よ君が目にのこれ
朝日村小向(おぶけ)に橘守部表彰会の式に臨み、大阪の竹柏会支部に刀祢館正雄君らと語り、放送局より「大和の春と万葉集」を放送、大和にいたり、秋篠寺に、斎藤茂吉、小畑薫良、石井白村君らと相伴なつた。
   奈良の世の歌人こずや古りにし代今あらた代のこと語らむを
奈良ホテルにて、
   窓あくれば三笠山かすめり青によし奈良にさめたる春の朝なり
多武の峯にて、
   はたと落ちし椿一花に山水をうくるかけひの流は淀みつ
   若芽もゆる大きかつらの蔭に立ち十三塔のよき形めづ
大和路ここかしこ、
   いにしへの天(あめ)のかぐ山三輪の山名ぐはし山霞む吾がまなかひに
   春風のやまと国原麦生あをしいかるがを行き飛鳥路をゆく
飛鳥寺に辰巳利文君発願の万葉歌碑(赤人の長歌)建設式に列り、碑の側に池を掘ったところから出たという古代の瓦を贈られた。
   朝雲を仰ぎ、夕霧にたたずみけむこれの飛鳥の山川をよみ
   人の世は千とせを経たりうた人の歌の命の常(とこ)新たしき
   うた人のそが言霊の霊ごもりとこしへなるべしこれの碑(いしぶみ)
   雪とちる桜がもとのいしぶみに導師厳修(ごんしゅ)す灑水(しやすゐ)の行事
唐故(からこ)に穴居の民の遺品を見て、
   物の命ほろびずここに穴居人(けつきよびと)がもたりし弓を矢を鍬を見る
   古への穴居の民も子の為と此のささやけき壷をか作りし
   これの木鍬(こぐは)とりて耕しこれの弓矢手(た)にぎりしばり獣かも射し
   籾あり田つくりたうべ井筒あり井ほりのみけむ遠つ世人も
この月、文化勲章授与の光栄を荷うた。長岡、本多、木村(理科)、幸田(日本文学)、竹内、横山(邦画)、岡田、藤島(洋画)氏と予との九人である。(藤島氏は満洲旅行中とて不参であった。)
   大御心いただきもちて願はくは吾が言霊に光あらしめ
   万葉(よろづは)の道の一道生(いき)のきはみ踏みもてゆかむこころつつしみ
   たまはせる厳橘(いつたちばな)の御(み)しるしの香ぐはし花に心肖(あ)えなむ
   国つ学まなびの祖(おや)の恩頼(みたまのふゆ)身にかがふりて今日の誉うけつ
谷中なる先人の奥津城に詣でて、
   御(み)しるしの箱の蓋あけ見せまつる父のみ霊よみそなはしませ
帰途、弥生町なる上田万年博士を訪うたに、病床ながら喜んでくれられた。
五月 皇太后、松阪なる鈴屋に行啓せさせ給うに、三重県庁より招きをうけ、藤棚のもとに迎えまつった。
   国つ御母道あがめますいでましに鈴屋の大人かしこみてあらむ
同じ月、奈良公園なる万葉植物園へ行啓せさせ給うに、奈良県庁より招きをうけて参列した。
   紅草(くれなゐ)の花ささやけき花をささげ今日のいでましを迎へまつらふ
   万葉人(びと)うたひめでつる木の、草の、そのことごとに御(み)目ふれ給ふ
女官長を伴なうて園内を巡らせられ、丹(に)塗の橋を渡らせ給う時、県よりの指示で、橋づめに、特に一人立って迎えまつったに、吾が前に立ちどまり給うて「万葉集の為に猶よく力をつくされるように」とのみ詞を賜わった。
芬蘭(フインランド)の雑誌「スオメン・ソテイラス」の日本特輯号に、「短歌に就いて」の芬語訳が掲げられた。
治綱が鈴木庸生博士の二女由幾子さんを娶った。
丸ノ内会館に、詩歌懇話会の歌人詩人の主なる人々が会合して、また、辰好軒に古典科同窓会の先輩友人が予の為に祝賀会を開かれた。
岡山医科大学の講演に赴き、三十年来同人として親しんでおる田中文男博士のもとにやどった、東山の麓、翠微の間に瓶井(みかい)の塔の眺められる閑雅な邸である。
   家をとめ朝の芝生に水そそぐ傍らに白きゆっか蘭の花
医大の文化講演会で講じ、学生の短歌会に批評をし、山本信恵刀自を訪うた。夙く親しくした大西祝博士は岡山の出身、操山(そうざん)と号されたが、その号のもといなる操(みさお)山一帯は暮色につつまれ、姫川は眼下に清流を湛え、京都の山水を想わせるような風光である。
   夕ばえ波照らひ明るき川隈に浚渫船(せん)は翁さびをる
田中博士の案内で吉備津神社に参拝、藤井高尚の旧居松屋を訪い、万成(まんなり)坂で平賀元義をしのんで、
   吾妹(わぎも)おもひ衷笑(したゑ)まひつつ昔人(びと)ゆきし坂路を麦秋に行く
木下利玄君の歌碑を訪うべく足守に向った。
   足守川(あしもりがは)堤に高き花あふち幼な目に見けむ利玄をおもふ
菩提寺なる大光寺の利玄君の墓をとい、近水公園に牡丹の歌碑を見た。岡山に帰って池田家所蔵の古書類を見るを得た。中にも、高野切、天治万葉切等のある手鑑「世々の友」を見たことは喜びであった。
烏城より渡舟で後楽園に渡り、郷土史学会の歓迎会に列した。正宗敦夫君、佐藤金造君らも来られ、歓談時の過ぐるを忘れた。
次の日、山陽高女、岡山高女に講じ、合同新聞社の野田氏の案内で牛窓に赴いた。途上作、
   野田吾兄(わがせ)元義を説く懇(ねもこ)ろなり芥子(けし)山は青き六月の風
牛窓なる前島を船にてめぐって、
   防人(さきもり)ら名をなつかしみ船ゆ見けむ遠つ家嶋は夏霞せり
川源楼招宴の席上、
   海岸(うみぎし)に新(にひ)船つくる槌の音遠汐騒(とほしほざゐ)のとよみにまじる
この行、古き同人の黒田克巳君が斡旋せられた。
帰途、大阪堂ビルホテルで祝賀会があった。
六月 宮中に賜餐の栄に浴した。
三縁亭に祝賀会が催され、徳富、長与又郎、新村、斎藤茂吉、藤村作、橋本進吉、久保猪之吉、跡見李子氏等の祝辞があった。
帝国芸術院官制が制定され、その会員に任命せられた。
名古屋に、後藤氏所蔵紀州家旧蔵本万葉集刊行相談会に列した。
東京鉄道局新鉄道唱歌「伊勢路」「尾張美濃近江路」を作成した。
七月 万葉集巻十六によって作った古典歌劇「竹取翁と九人の処女」が大中寅二氏作曲により放送、六人の男女俳優、七十余人の合唱団、管絃楽によって演奏せられた。
八月 新万葉集選歌のために軽井沢に赴いた。それは、さきに山本実彦君が訪われて、今度新たに大いなる歌集を刊行するについて、まず君に話すが云々といわれた。それは自分がかつて、山本君に次のことを云うたからである。わが父は明治十年代に、時の太政大臣三条公に書を上(たてまつ)った。二十一代集以後、勅撰の挙が絶えておるので、御再興を請いたいとの文意であった。自分は父の遺志を嗣いで、私撰ながら、新続古今集以後貞享までを一部、元禄より明治維新までを一部、明治以後を一部として歌集を出したい。かような構想を話したことがあったのである。山本君は、君の構想によって考えついたのであるが、全国から歌を募集した現代歌集とし、選者も数人に委嘱するつもりである、と言われる。自分は、自身の考は他日好機に恵まれたらば実行するとして、此たびの考案に喜んで参加すると答えた。それは、奈良、延喜、元久の時代には、それぞれその時代を代表する撰集が出たに、この新しい歌の隆盛期に於いて、これを代表すべき撰集の出づべくして出でなかった欠陥の満たされることを喜んだからであった。しかるに選歌にかかろうとする直前に、満鉄から、渡満して講演してくれとの依頼があった。一週間の講演の後、満洲各地の旅行に便宜を与えようというのである。自分は著述に多忙な生活をつづけているため、旅行は好むところであるが、国内の旅行を重ねるのみで、海外に出たことは、南方支那に赴いただけである。それで、この好機に、新興満洲の事物に触れてみたいという心が深く動きはしたが、それはついに謝絶して、ひたすら時を惜しみ、選歌に従うこととした。盛夏の二十数日は、軽井沢なる万平ホテルにひたやごもりにこもって、朝霧の深い室に灯をともし、四更の月を仰いでも筆を置かなかった。食堂に出るのみで、ホールで人と語るということも全く無く、直ちに自分の室にもどっては選歌をつづけておった。ある日一人のボーイに、「外人には、ホテルに泊りながらも人間を嫌うという性質の方がありますが、貴方(あなた)もそういうのですか」と云われて、笑ったことであった。
   ひたぶるに新万葉集にささげたるわが此の頃の朝夕なりけり
   亡き父の志ししことの片はしをつぐ斯(こ)の業と歌選る日々に
   吾がはらから海の外(と)にして戦へり吾はた戦ふ歌選(え)るわざに
   まなこ疲れ心つかれつ今日も一日暑き一日を歌選り選ると
   選りいでむ歌あらざるは吾が目のいたらざるならじかと心さびしむ
   今の歌の命いくばくぞ千年なほ万葉人(びと)の歌、命あり
   ひたぶるに選り選るこれの言だまの千歳の後に光ありこそ
   沛然とふりくる雷雨(らいう)朝よりの選歌に労れし胸ひきしまる
   雷雨やまず蝋燭の火のほのぼのとまたたく下(もと)に歌選びをり
   驢馬おりし外人(とびと)をさな子目もて笑ふ山のホテルに月の半すぎし
   樅が枝(え)に落葉松(からまつ)が枝に音たて降るこころよきかも山雨(さんう)の音の
   浅宵を沢の水(み)の音(と)きこゆ苦しみし選歌かつがつ終(を)へなむとせり
帰京せんとする朝、
   山国(ぐに)の此の朝明(あけ)の澄み深き空をわかれて帰りかゆかむ
東京放送局の嘱によって、軍歌「正義の軍」を作成した。
九月 報知新聞の時事唱歌の選をなした。
十月 舞鶴の海軍機関学校に「和歌と日本精神」を講じ、石薬師の先人碑建立三十年記念祭に列した。京都から大沢忍、東京から萩原菊世同真生子ぬし、山田から酒井秀夫君、津から梶原穠子ぬしが参列された。
   鈴鹿川秋の流を父にそひて渡りつるわが幼な影みゆ
   石ぶみの御まへにきこゆ御教への道の直路(ただぢ)ふみ六十年(むそとせ)を経し
七月の事変勃発以来の時事の作を雑誌に掲げた。
   忍び耐へ耐へ来し思ひ燃えたぎり炎の滝とさくなだり落つ
   青雲の向伏す極み天つ日の浄(きよ)き心を伝ふべきなり
   大き聖道を遺しし大き国に生れずや今国救ふ声の
   やまと御民きよき心の厳凝(いつこり)に覚めよから人あしき夢ゆ覚めよ
臨時議会の勅語を拝読す。
   天つ御声天よりひびく雲くらきあじあの空に光みたしめ
出征する同人に、
   ますらをの一人一人が負へる命国の命ぞつとめよ吾兄(わがせ)
上野駅にてある夜、
   雄々しきかも尊きかも万歳のとよみのうづにゆらぐ旗波
   わが此の声低くしあれど万歳のとよみの底にわが声もまじる(以上中央公論)
出征する同人に、
   吾が皇(み)国の歴史の中の戦の大き戦にい征(ゆ)く君なり
   かりそめの使命(よさし)にあらずおのがじしの命は関(かか)はる国の命に
戦線より帰れる陸軍将校に兵士に就きての談を聞きて、
   天皇陛下万歳とさけびて猶息たえずお母さんと呼びてうつむきしとふ
軍用機資金を献納すと朝日新聞社にいたる、
   わが真心そへもてささぐ天がける翼のねぢの一つともなれ
   戦は勝たざるべからず戦の後の戦に勝たざるべからず
   やまとをみな千人針の針目おちずこむる真心神守りまさむ
   月くもれり灯火管制の夜の町のくらきに立ちて雲の動く見る(以上文芸春秋)
   しきしまのやまと御民の国おもふ心炎ともゆる秋なり
   花と咲けからの荒野に流せるはやまと御民の清き血汐ぞ(以上わか草)
上田万年博士の逝去を悼みて、
   国つ語(ことば)学の苑は君により花さき足(た)らひみのり足らへり
博士の心の花に寄せられた文詞、講演筆記の目次を心の花十二月号に掲げて、博士を偲ぶよすがとした。
十一月 今井氏鵜殿氏の案内にて勝沼の葡萄園にいたり、甲府市なる伊藤氏の歌会に列した。
   雲おりゐ雲うごき去り雑木山まじる紅葉の色ぬるる如し
   丹(に)紫水晶(すゐせう)なせる一房を手にはとりつつかなしきものを
文部省の日本諸学振興講演会に「万葉学先哲の苦心に就いて」を述べた。{「わが文わが歌」に掲ぐ。}
内閣情報部の愛国行進曲歌詞審査委員を嘱せられ、尽瘁した。なお、予選者として竹柏会より小花清泉、伊藤嘉夫君が参加せられた。
十二月 軍歌「恩賜の煙草」を作詞した。

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